当初は福島県内に造られた急場ごしらえのシェルターでレスキューされてきた犬猫の世話、支援物資の仕分けなどに追われた。まだボランティアもわずかで、とにかく現場はバタバタしていた。
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▲福島市の空き地に急遽造られた「犬猫みなしご救援隊」(本部・広島県)の仮設シェルター(2011年4月) その頃の様子→http://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/53473650.html

 団体のスタッフは避難住民からの依頼をもとに被災地の住民宅へ赴き、依頼の犬猫を探し出し、ついでに保護できる限りの犬猫を連れ帰ってきていた。その頃はまだ警戒区域が指定されていなかったので、法的には誰でも20㎞圏内への立ち入りが可能だった。
 ※実はこのころ、バイクで浪江町と南相馬に入れちゃいました。入れてくれたのにびっくり。そのときの様子(動画あり)http://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/53468185.html
 
 
 避難住民が自分で行くこともできたのだが、一次避難所では「放射能被害がひどいので自宅に戻れない」、と説明されていたそうだ。マイカーを置いて役場が用意したバスで避難した人は交通手段もなかった。それでも自宅に戻った人もいて、村八分にされたり、放射能が移るなどと言われたという。
 閉鎖された避難所で極限状態の中、そんなふうに言われていたせいで、多くの住民は自宅に戻ってはいけないと信じていたが、このときに飼い主が一時的に戻れていたら、かなりのペットは助かっていたと思う。
 
 このころに原発被災地では空き巣被害が多く発生。
 その家の事情を知る顔見知りの犯行だとも言われている。(実際、いわき市の1次避難所で暮らす男も捕まった)
 
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▲郡山市の一次避難所(ビックパレットふくしま)のペットスペース。
 

 当初、数日で帰れると思い込んで避難した人たちは、自宅に残したペットにそれだけの分のフードしか置いてこなかった。室内飼いの犬猫は鍵のかかった家の中に閉じ込められたまま。それっきり人間が戻ってこなかったのだから、彼らの悲惨な末路は想像してもらえるだろう。

 外に繋がれていた犬の中には自衛隊員や警察が黙って鎖を外してくれたり、食べ物を与えてくれたりしてとりあえず生き延びたものもいた。放浪しているうちに圏外へ出たりレスキューされて飼い主と再会できた犬も少なからずいる。

 家畜は…、壮絶だった。

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▲浪江町の路上(2011.4.16)
 
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▲ぬかるみに嵌って抜け出せず、死を待つ乳牛。肉牛と違って体が重く、自力では這い出せない。(2011.5 楢葉町)
この牛のことは過去記事をどうぞ。富岡町のジロさんレスキューと同じ日です。http://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/53577448.html
 

2011年4月22日。20㎞圏内が警戒区域に。そして誰も入れなくなった

 4月22日午前0時。急遽20㎞圏内が警戒区域に指定され、許可のない一般車両は立ち入りできなくなった。
 それまでは誰でも入れたので、私も何度かレスキューに参加した。 このころは、首輪のついた犬があちこちで放浪していて、衰弱した犬や人懐こい犬はすぐに捕まった。
 
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▲地震による土砂崩れも多く車が入れない場所は歩いていく。このときは往復10㎞歩いて犬2匹を保護(2011.4.20 浪江町小丸) 
 
 ガイガーカウンターを持っていなかったから、その当時の放射能被害がどのくらいの数値だったのかわからない。目に見えない放射能もたしかに怖かったけれど、それ以上に人間が突然いなくなった無人の町のほうが恐ろしかった。どこか映画のセットのようで現実感がなく、これが私の住む福島で、今起こっている事実だということに愕然とした。

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▲富岡町のメインストリート
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▲大熊町・JR大野駅前の新聞店。ここを根城にたくさんの柴犬が集まっていたので、「柴犬通り」と呼ばれていた(2011.4.21)
 
 
 警戒区域が指定される前日の21日は多くの愛護団体や個人活動家が圏内に入って、1匹でも多くの動物を救い出そうとぎりぎりまで活動した。車に積める限りの犬を連れ帰り、最後は持って行ったすべてのフードをあちこちに置いて、「なんとか生き延びてくれ」と願いながら警戒区域をあとにするほかなかった。
 
 4月21日のレスキューについては過去記事に詳しく書いています。http://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/53487828.html
 
 

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▲警戒区域指定の前日。JR双葉駅前。ペットを探す双葉町の住民に同行してレスキュー(2011.4.21)

2011年5月、被災住民の一時帰宅開始
 
 5月に入ると、警戒区域から避難している住民の一時帰宅が始まったが、厳重な防護服を着せられてマイカーではなくバスで往復し、持ち帰れる荷物はビニール袋1つ分、ペットの連れ出しは認められなかった。
 
 そのころになってようやく行政も動き出し、県の被災ペット専用シェルターも造られ、行政主体のペット捕獲も不定期に開始された。ただしペット生息情報や保護に長けた民間団体を無視して行われたため、成果は思わしくなかった。
 
 原発3㎞圏内の大熊町住民の一時帰宅が初めて認められたのは、震災半年後の9月。このとき、ガリガリに痩せながらも生き延びていた飼い犬を置いてきたという新聞記事が出て憤りを感じた、なぜ、せっかく半年も生き抜いたペットをまた見殺しにするのだろう。その後、間もなくペット連れ出し可になったが、なぜもっと早くに認められなかったのだろうか。(この犬は直後に某団体が侵入してレスキュー、現在は南相馬にいる)
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▲第一原発のすぐ南、今でも放射線量がきわめて高い大熊町・夫沢地区で生き延びた犬のジョンを置いてきてしまったという記事
(つづく)