どうも佐川です。









リアルできゅうっとなった本に


久々に出会いました。



















読んでみて、初めて知ったこと、知っていても改めて考えたこと、気付いたことがたくさんありました。








内容は、性転換するまでの心や身体のこと、子作りについて、等々(超ざっくり)







人工授精については、思いの外詳しく具体的に書かれていて驚きました。



「おなじような状況の人の助けになれたら」という思いがよく伝わってきました。









個人的には、著者のその後がとても気になりました。




子どもが成長するにつれて、ぶつかる壁や問題がでてくることは想像できても、それが具体的にどんなことなのか、子どもの立場からの考えや思いなど、私には未知だけど絶対に必要で大切なことだろうと思います。










気になった方は、是非です(雑)












そして、この本を読んで湧き上がった自分の考えや思いを以下にぶん投げておきます。





当事者の方がみたらどこか他人事や綺麗事におもえる表現があるかもしれませんが、あくまでも自分が現時点で感じたことを素直に綴りました。







△▼△▼△▼






セクマイと呼ばれる人たちって、それを強みにして何かとよくSNSで発信している印象があった。

それが個性の一部であることはわかっていても、「普通」を求めるわりにそのことを特に主張する言動が多いことに時々矛盾を感じていた。


でも、それが現状や環境を変えるための一歩なのだと気付いた。

存在だけでも認識してもらえるように、だれかがおなじような苦しみや経験をしないように、そうなったときに少しでも軽減されたりサポートできるように、していることだと。


まずは、だれかが何かしらの形でそのことについて発信しなければ環境は変わっていかないし、知られることすらないのかもしれない。






自分は元々、人に対して性別や外見に捉われず一人間として接したいし、なるべくそうしてきたつもりだった。


でも、そういったセクシャルのことをより知っていくほど、さらにその気持ちが強まり、逆に(?)知らぬ間に普通に接することを「意識していた」ような気もする。

極端に気を遣った覚えはないけど、「どこまで聞いていいのか」「これは言ってもいいことなのか」など、会話の中でふとよぎったことがある。


普通に接することを「意識」した時点で、それは少なからず特別視している証拠なのではないかと自分の中でまた矛盾を感じた。


でも、本文に「癌宣告された人に死を連想させる話をしない」というような内容があり、とても納得した。


セクマイのことに関わらず、人と人との間にはそれぞれ距離感や関係性があり、「気を遣わない=なんでもかんでも言い合い、土足で踏み入る」ことではないのだと。

自分は意識して気を遣っていたのではなく、人としての配慮をしていたこと、それはいたって普通の人間的な思考であったことに、とてもスッキリした。


「気を遣うこと」と「配慮すること」の違いに気付いた瞬間だった。






いろんなセクマイの人たちをみていて、それぞれで考えや人間性が違っていても、特別視がない「ごく普通の関わり方」や「平等で自由な世界」を求めている部分は大抵共通していたような気がする。


元々そうである人に比べて様々な代償はあるけど、その当事者にしかわからない痛みや苦労を身をもって感じられるのも事実。


そういう状況になったときに、

マイノリティを理由にこんな苦痛を感じさせる理不尽な世を恨むのか

他の人がおなじ苦痛を味わわないように今より少しでも生きやすい世の中になるように自ら行動を起こしていくのか

二度と傷付くことのないように自分をコントロールしながら生きていくのか

どれも当事者だからこその決断だと思う。


ただ、つらい思いや経験を糧に変えて、いくら時間がかかっても結果的に財産にできる力って凄いし生きる強さを感じる。






当事者以外の人々にも様々な対応がある。


まわりにそういった人がいなければ存在すら知らないままかもしれないし、なんとなく知っていても自分には無縁だと気にしない人も多数いる。


自分も以前は存在は知っていても、良くも悪くも大して気にしなかった。

実際まわりにいなければ実感は湧きづらいし、情報ばかり知っていても当事者の存在や意思に直に接することには敵わなかった。


自分と異なる考えや感性を認めることは何においても大切だと個人的には考えているけど、特別抵抗はなくとも真に理解することって意外と難しかったりする。


すべての人に理解を求めるのは難しいけど、目指すのはそこではなくて「そういう人もいるんだ」と認めて、互いにごく普通に過ごせる環境だと思う。


中には受け入れられない人もいるけど、それも当然であって、そういった人も一定数いてこそ、世の中は成り立っていると感じる。


そういった人々の対応に当事者は悩んだり傷付きやすいのも確かだけど、どちらかが正しかったり間違っているわけではなく、両者ともが在るべき意思なんだと思う。






以前、マイノリティのことを調べたときに、その種類の多さと自分が知らないことだらけなことに驚いた。


それを知っていくのが楽しくなって、街やメディアで見かける人を「あーかな、こーかな」と勝手に想像して考えてみたりもした。


でも、しばらくして自分でもよくわからなくなってきたときに、分類できることだけがすべてじゃないのだと気が付いた。


言葉に表せない感情や性質がこの世にはたくさんある。

それは具現化されたものに比べて形や言葉がない分、自分が変なのかと不安になりやすいけど、確かに存在してて、大切なもの。


分類されたものでもそれぞれは違っていて、それはその人らしさに繋がる個性であり、人間性なんだと思う。






「体」「心」「戸籍」は必ずしも一致しているわけではないことを再認識した。


どれかしらが一致しなければ自他共に違和感を覚えやすいけど、それらがすべて一致している必要はない。


「身体」と「戸籍」を変えるのには、時間もお金も気力も知識も必要。

だけど「心」は、その人の自由。


「身体」や「戸籍」は後追いでも、まずは自分の「心」を理解して認めてあげることが必要で、大切だと思った。


この本の情報から、日本では2000年代から少しずつ法律や国の仕組みが変わり始めていることを知った。


あらゆる人が生きやすくなるように、今後さらに変わっていくのが楽しみになった。