米ボールと雪に埋まったスニーカー
オレンジ色のボールを力の限り投げた。ボールは渚の頭のはるか高く、釣りに夢中な父さんのテントの上をひゅんっと音を立てて、凍った雪の上にてんてんと転がった。
ボールはお米を無数にくっつけたように表面がすかすかなボールで、僕らは「米ボール」と呼んでいた。「ほんとうのお米じゃない、プラスチックだよ」と妹と僕は話あったが、僕らは「米ボール」と呼ぶのが好きだった。
どこかに行く時には必ず僕らは米ボールを持って行った。父さんが「ワカサギ釣りに行こう」と言いだした今朝も、真っ先にリュックに入れたのはこのオレンジ色の米ボールだった。
父さんは山の上の凍った湖に到着するなり、適当な場所を見つけると、小さなテントを組み立て、厚く張った氷に小さな穴を専用ドリルで穴をあけ釣り糸を静かに垂れた。母さんは、寒さは体にいけないと言ってお土産屋と定食屋の相の子のような山小屋へ一人珈琲を飲みに行った。残された僕らは凍った湖の上で、キャッチボールを始めた。足元が覚束ないので、いつもよりも慎重に投げ合ったが、なぜだか急に思いきり投げてみたくなって投げたら、米ボールは予想以上に遠くまで転がっていった。
「お兄ちゃん。とってきてよ。あんなに遠くにいっちゃったじゃん」
「お前が、とらなかったんだろ」
「あんなに遠く、怖いよ」
薄い雪が降っていて、湖上の米ボールは遙か遠くに霞んで見えた。風の音が雪を舞い上げ、足元がひんやりとすくんだ。雪に覆われた対岸はどこからが湖でどこからが陸地かわからなかった。境界線が曖昧な冬の湖はいつもよりも大きく見えた。
「大丈夫だよ。凍ってんだから」
「じゃあ、お兄ちゃん行ってきてよ」
渚の後ろのボールが転がったあたりを見る。予想以上に遠くまで飛んで行ったのかもしれない。いやそう見えるだけだ。視界の両端が雪の白にぼやけて距離感がなかった。近いのか、遠いのか。ボールのオレンジ色が白い雪の中に浮かんで見えた。
「父さんに頼む?」
「渚が行って来いよ」
「やだよ。怖いもん。お兄ちゃんが悪いんじゃん。父さんに頼もうよ」
父さんのテントは風になびいていて、中に誰もいないように膨らんだり縮んだりを繰り返している。テントのはためく音はまるで聞こえない。風の音がするだけだ。
「大丈夫だよ」
さっきより雪が強くなっただろうか?湖上の雪はゆっくりと、僕に襲い掛かってくるようだった。スニーカーが雪に埋まって足元が覚束ない。
「じゃあ、行ってってば。怖いんでしょ。あんな遠く」
「うるせえな。お前が悪いんだろ」
僕は踵に力を込めて、雪を踏み固めて、凍った雪の上を一歩踏み出した。
鳩の巣とチンダル現象
「そっち、そっちそのクレーンの端っこ。もっと端、端」
荷吊用のクレーンの上を作業着を着た橋田さんが渡る。橋田さんは製造部の僕の先輩で指導員だった。7メートル上空の橋田さんは、文字通り右往左往している。何の機械音もせずにしんと静まり返っている工場の中に、「右、左、左、下、下」の声が響き渡る。
「どっちですか?こっちですか?もっと右ですか?」
「そうそう。そっち、そっち。そこの下のところ。そう、右」
橋田さんは右手でクレーンの手すりをしっかりと握りながら、左手に持ったモップの先をクレーンの下に伸ばしてゆく。
鳩の巣がクレーンの下に発見されたのは、ちょうど僕らが新入社員研修で工場を回っていた時だった。出荷を待っていたダンボールに鳩のフンが白々しく乗っていたのを見つけたのは、同期の中田君だった。中田君は「このマーキングはなんですか?製品を見分けるものですか?」と、真面目な顔をして聞いたが、フンのマーキングであることは一目瞭然で、それまで悠然と工場の中を案内していた橋田さんの顔はみるみる青ざめていった。中田君の発言以来、工場は停止し、製品に他にフンが落ちていないか、またそのフンを落とした鳩の大捜索が始まった。
工場は鳩に限らず鳥が工場の中に入ってこないように、入り口にはビニールの垂れ幕が施され、鉄骨の梁の上には鳥が止まらないようにとげとげの工夫がなされていた。
全社員での大掛かりな捜索の結果、ダンボールを梱包するための機械の上や、作りかけの製品の上などにフンのマーキングは至るところに見つかった。「どこかに巣があるんじゃねえか?」とうい意見が、「絶対に巣があるに違いない」に変わり、いつの間にか「巣の殲滅作戦」という作戦名までつけられた。最前線へ派遣された僕ら製造部の部員たちは休日出勤を余儀なくされた。
「そうです。その下。そうそう。うまいうまい」
ぽろぽろと鳩の巣のカスが落ちてくる。プラスチックの天井窓から降る4月の光を受けて、鳩の巣のカスはキラキラ光った。
チンダル現象だ。僕がまだ小さかった頃、父さんが部屋の中を舞う埃が光に輝いて見えることをそう言うのだと教えてくれたことを思い出した。「普段は見えないが、見えるときにはちゃんと見えるものはある」と話す父の姿は、どこか哲学めいていたが、舞い落ちる鳩のフンで思い出すとはなんだか、変な気がした。
焼石に水と、関心の示し方
駐車場に降り注ぐ夏の日射から逃れるために、木陰を飛び石のように渡りながら事務所に戻ると、同期の中田君が島田さんに怒られていた。
事務所の入り口の自動ドアは古くガガガといまどき珍しい音を立てた。場違いな音に反応したのか中田君は一瞬、伏せていた目を揚げ僕と目があったが、またすぐに伏し目がちになった。
営業課に配属された中田君は、課長の島田さんとうまくいっていないらしい。島田さんのデスクの隣に棒立ちになり、目は虚ろに泳いでいる。何で怒られているのかは、遠目からはわからなかったが、そこまで怒ることがあるのだろうかという位に、島田さんは血相を変えて中田君をいびっている。
「何かあったんですか?」
『製造課』と天井からカードのぶら下がった自分の島に行き、事務の斎藤さんに聞いた。
「また発注ミスかなんかじゃない?」
「島田さん、またすごい剣幕ですね」
「三分に一回は怒ってる感じね。あれじゃあ、課長の方が逆にまいっちゃうんじゃない?」
「そんな風には見えないですけどね、島田さんて。趣味じゃないんですかね。ああいうの」
「あんた同期でしょ?助けてやんなよ」
「助ける・・・ですか?」
「僕がなんとかします、みたいにさ」
「まあ、仕事終わりに飯でも行って、慰めるくらいですよ。僕にできることは」
「無関心が世界を滅ぼすね」
「関心はありますよ。ただ、今関心を表明したら焼石に水どころか、火に油状態でしょ。関心が世界を悪化させるときだってあるんじゃないですかね」
「物は言いようね」といって斎藤さんは、受話器を取って番号を押した。後ろの島田さんの席で、電話が鳴った。
「もしもし、斎藤です。お疲れさまです。今日のお昼はお弁当とられますか?」
後ろを振り向くと中田君がずっと僕の方を見つめていた。その目線は、僕の目を通りこしてその先の空間を見つめているようだった。きっと、何も映ってないんじゃないかと、僕は思ったが、目線に答えるように頷き、中田君も同じように頷いた。
「はい。分りました。頼んでおきます」
斎藤さんは受話器を置き、仕事に戻った。中田君は島田さんからようやく解放されたらしく、自分のデスクに亡霊のように戻っていった。関心の示し方は人それぞれあり、世界の変わりかたもまたそれぞれだと思った。中田君に「今日飯でも食べに行こう」と僕はそれだけメールを打って、また倉庫に戻った。
コーヒー牛乳とドラえもんのパンフレット
突然の引っ越しはあっという間に終わった。荷物は少しの衣類と、炊飯器とランドセルと僕と父さんだけだった。
僕らの引っ越しの前の日、久しぶりに父さんと二人で近所の銭湯に行った。普段は買ってくれないコーヒー牛乳を父さんは二本も買ってくれた。一本は銭湯で一気に飲み干した。夜風に吹かれながら飲んだ二本目のコーヒー牛乳はいつもより甘く感じた。
家に戻ると、部屋は何もなくがらんとしていて、まるで蝉の抜け殻のように黄色く滲んで見えた。妹と一緒に見に行ったドラえもんの映画のパンフレットが、本棚の上に立てかけてあって、のび太は雲の上を飛びながらドラえもんと一緒に笑っていた。
「母さんと渚は別の町で暮らす。明日からは父さんとお前だけで過ごす。いいな」と父さんは淡々と説明したが、カーテンもない、だれもいない部屋の中で僕にはそれがどういうことなのかよく分らなかった。
翌日、大家さんに鍵を渡した父さんは僕の肩を思いきり掴んで言った。
「今から大阪の方へ行く。今日からお前は阪神ファンになるんだ」
父さんの手は少しだけ震えていた気がした。
「母さんは?」
「母さんとはすぐ会える」
それだけ言って父さんは軽トラに乗り込んだ。
大阪の方とはどこなのか?やりかけの宿題は誰に出せばいいのか?渚とはもう映画にいけないのだろうか?友達にはもう会えないのだろうか?母さんは?軽トラの窓を行き過ぎる水道タンクが涙で滲んで霞んで見えた。僕はコーヒー牛乳の空き瓶を強く握りしめた。
フォークリフトと「もくもくさ」
ぐうん、ぐううん。不規則な機械音を立ててフォークリフトは荷物を運ぶ。ダンボールを積んだフォークリフトはスピードを増しながら器用に倉庫の中を、行ったり来たりしている。
エンジン音を上げ倉庫から出てきた向井さんは眩しそうに空を見上げた。フォークリフトに乗る向井さんはいつも楽しそうに見える。会社の集まりの時はいつもうつむき加減に焼酎を飲んでいる向井さんだが、なぜかフォークリフトに乗っているときは、この世の春みたいに楽しそうだった。
「松本君って、どうしてこの会社にはいったの?」
向井さんにそう言われたのは、4月の歓迎会の時だった。なぜって言われても、流れで入りましたとしか言いようがない。ちゃんと社会人としてお金を稼がなきゃいけないし、ほんと言えば広告の仕事に就きたかったが、箸にも棒にもかからなかった僕は、面倒になり学校で紹介をもらった何の縁もゆかりもないこのダンボールメーカーを受けた。家から近かったし、ここしか受からなかったから入った。ただ、それだけだ。まさか自分がダンボール製造を生業とするとは思わなかったし、入社から半年たった今でもどこか違うと思っている。
「段ボール好きだったの?」
向井さんは目の前に出された軟骨の唐揚げを一つ一つ上手に取り皿に移しながら言った。向井さんは、高校を卒業してからすぐこの会社に入った。もう今年で5年目になるが、歳は僕と同い年だ。
「まさか。ぜんぜんですよ。向井さんはどうしてなんですか?」
「ううん。なんでかな。いまじゃちょっとは楽しいけどね。ダンボール作って、ダンボール運んでさ」
今考えると、向井さんが向井さんから話しかけて来たのは、歓迎会のあの時が最初で最後だった。向井さんはいつももくもくとフォークリフトを操り、会社の集まりの時はもくもくと一人で酒を飲み続ける。なぜあの時僕に話しかけて来たのかは、わからなかったが、同い年の先輩ベテランフォークリフターの「もくもくさ加減」は尊敬に値するような気がする。なにせ5年間も「もくもく」を続けているのだ。僕にはきっとできないことだと思った。
水道タンクと関西弁
父さんがなぜこの町に引っ越ししてきたかわからない。理由を聞こうとしても、まだ聴けないでいる。前に住んでいた町も小さな町だったが、この町も、負けず劣らず小さな町だった。前は浄水場の近くに住んでいたが、今は大きな鉄塔が窓から見える。
僕は浄水場のタンクが好きだった。タンクは30メートル位の塔のてっぺんにあって、学校の行きかえりにいつも僕は見上げていた。銅版で覆われたタンクは深緑色をしていて、周りの高い木々の間に映えていた。写生大会の時、同じ色を出すのに苦労したのを覚えている。深緑を出すために何度も塗り直し、結局黒いタンクになってしまった。新しい町のただ高いだけで、味気のない深さも色もない鉄の塊の鉄塔はまだ好きになれない。
「お前どやねん?」
ごわごわした手で、ゴマを摺りながら父さんが聞いた。
「なにその関西弁?」
「郷に入り手は郷に従えや。分るか?お前も早く関東弁を捨てろ」
「そんなかんたんに、でないよ。関西弁」
「『せやからな』、とか、『ほな』、とか、『ねん』、とか付けときゃすぐに身になる。身になるねん」
言い直しながら父さんは笑った。
「せやろ。せやろ」
笑う度に鉢からゴマがぽろぽろとこぼれた。僕は水道タンクの方が好きだし、関西弁を無理に使おうとする父さんは嫌いだった。
雨乞いとケンちゃん
もう二十年も前になる。僕ら一家が関西の小さな町に引っ越してきたその夏は稀にみる水不足でダムの底が顔を見せるほどだった。テレビのニュースでは日に日に深刻化する水不足の現状が流れていて、どこかの村で行われた古くから伝わる雨乞いの儀式が取り上げられていた。卵の殻を燃やすというその雨乞いの儀式は本当に効くのかどうかわからなかったが、僕ら小学生の間で卵の殻を集めることがはやった。
そうこうしているうちに僕の町も他の多くの町と同じように節水制限が設けられた。朝のラジオ体操から近所のケンちゃんと帰ると、町が騒然としていたのをよく覚えている。消防団の車から「断水が行われます」と何度も繰り返すアナウンスがうるさかった。
「ゆうちゃんどうする?水でないんじゃ、きっとプールもいかれへんしな」
ケンちゃんはこの町で生まれて、ずっとこの町に住んでいる。ケンちゃんのお父さんもお母さんもずっとこの町にいる。まだ僕はケンちゃんの喋る関西弁になれないでいたけど、僕とケンちゃんはその夏ずっと一緒に過ごした。
「卵の殻を燃やすのもそろそろかもしれないね?どれくらいあつまった?」
「あれほんまにきくんかいな?」
「僕んち、毎日卵食べるから、もう袋いっぱいになって、ちょっと変なにおいする」
「ほな燃やしてみるか?ゆうちゃん。ライターとかもっとん?」
結局その日は近所の空き地で、卵の殻を燃やしてみたが、卵はぷすぷす言うだけでちっとも燃え上がらず僕らは儀式にも飽きて家に帰った。
三日後、僕らの予想に反して節水制限は解除され、山の奥の方のどこかの村の、誰かの願いが叶ったのかもしれないと思った。台所には卵の殻が大量に余ってひどい匂いがして父さんに叱られた。
ポンカンと軽トラ
駅を降りると父さんが立っていた。父さんは前より、と言ってもそれは僕が高校生の時だからもう十年以上の前の話だから当然と言えば当然なのだろうが、髪が薄くなっていた。
父さんは僕を見つけると、大きく手を振った。手に持っていたビニール袋が揺れ、なかからなにやら黄色い果物が落ちて軽トラのミラーにあたって大きくはねて軽トラの下に転がっていった。レモンか、グレープフルーツだろうか。父さんは、転がり込んだ果物をとるために、夏のアスファルトに寝っ転がって手を伸ばした。
父さんは昔からこんな感じで、いつもやることやることが裏目にでてしまう。当然そこには悪意なんてなくて、みんな良かれとおもってやることがなぜか裏目にでてしまう。冬の終わりに新しい炬燵を買ってきてもう必要ないと家族から顰蹙をかったり、いつも鎖につながれている犬を不憫に思ったのか、散歩中に畑のど真ん中で首輪をほどいてそのまま猛ダッシュで犬は逃げてゆき、妹は大声で泣いたりと、例を挙げたらきりがないが、そんなときでも父さんは「ごめん、ごめん」と言って笑っていた。
「おうおう。元気やったか?」
「なにそれ?レモン?」
「ちゃうちゃう。ポンカンやポンカン。隣のばあさんおったやろ?ばあさんが、お前が帰ってくるのどっかから聞きつけてくれたんや」
どっかから聞きつけてくるわけない。きっと父さんが近所中を言って回ったに違いない。気が滅入りそうになったが、そんな僕の気持ちとは裏腹に、父さんは嬉しそうに僕にポンカンを渡し、軽トラのエンジンを掛けブウオンと音を立てて真夏の国道を走った。
