市民参加の森づくり、その産業資産としての活用。
プレンティアの森は次代の豊かさに向けたメッセージです。
私達の支部団体が平成18年度全国育樹活動コンクールに於いて林野庁長官賞を受賞致しました。
この賞は全国で育樹活動を行っている団体の活動の目的やその実体を審査し、優れた活動に対して贈られるもので、本年度はプレンティア活動推進の北遠支部みさくぼプレンティアの会(田辺 忠男会長)が受賞致しました。
活動の目的)
森はすべての自然環境の源であるばかりか、かつては人の暮らしの利便と豊かな生態系の活性とが結びついたまさしく、ひとと自然が共生して来た空間でした。
森とひととの共生が紡いで来たさまざまな暮らしの文化は、現代でも市民の癒しや憩い、教育などの多様なフィールドとして大きな価値を持っています。
また、そうした森と市民との接点の回復は、市民のみならず地場林業の振興はもとより文化、教育、医療、レジャー等の多様な産業の新たな視点としても大きな価値を持つはずです。そうした考え方から、地域のすべての市民や産業に森との接点を拡げ、本来の価値を実現できる森の再生を目指すことが私達の目的です。
活動の実際)
私達の活動は、一部の会員を対象とした活動ではありませんし、森づくりのボランティアの献身的な汗を募るものでもありません。
地域の環境に理解ある協賛企業の支援をもとに、フォレスティング(プレンティア方式の森づくり・森あそび)の普及啓蒙、そのための技術ノウハウの蓄積、イベントの企画・提案・指導などさまざまな活動を通して、多くの市民に森の楽しみや意義を伝え、豊かで価値ある森の中の時間を共有する事です。
受賞の意義)
従って今回の受賞は私達に対してではなく、
理念に寄せていただいた多くの市民の共感と、それを支え育てようとする多くの協賛企業に贈られたものであり、浜松市が持つ『世界に発信できる先端環境都市』に成長できる可能性に対して贈られたものであると考えています。
今後の展開)
私達NPOプレンティアの森にとって、こうした支部活動の活性はたいへん喜ばしいことであり、今後は天龍、春野等、天竜川水系の北遠全体に大きく拡げて水窪に匹敵する支部団体を育て、さらに手法を充実させて全国の水系への波及など
世界に知られた産業都市浜松を、『世界に知られる環境都市』として世界の環境活動のモデル都市になれるよう尽力したいと考えています。
フォレスティングその3
『庭の中の自然しか知らない人がいたら・・・』と書いたけれど、それは決してブラックユーモアの世界の話しではない。
プレンティアの森に来る子供たちでさえほとんどが、森について何も知らない。多くの子供たちは、森と言うより木材の生産施設であるはずの植林地を森だと思い込んでいるのだ。
もちろんそのイメージにある森というのは、大概は杉か檜だけがうっそうとひしめき合っているから、森はさまざまなスローフードの宝庫である事も知らない。『子供だからだよ』というひとの為に念のため、一緒に来るお母さんの中でも知らないひとが多い。『このトゲトゲのある木はタラの木と言うんだ、先駆植物といって・・・』と説明を始めると『それってスーパーで売ってるあのタラの芽が成る木なの?』と、こうくる。タラから連想されるのがスーパーというのがちょっと恐い。
子供たちに木いちごを採って『おいしいよ』と差し出しても『食べてもいい?』と母親に聞く。ここで首を横に振られたら終わりだがさすがに森にプレンティア体験に来る家族はそこまではしない。初めはそんな調子でも子供は好奇心が旺盛だし、吸収も速い。チェーンソーで切り倒される木を見て歓声が挙がる。『森にはごみというものがなくてみんな次に生まれて来るものの栄養になるんだ』と知って、里子の揺りかごになる根株の周りに切り倒した枝や葉を一所懸命積み上げる。観念的な意味しか教えられないまま、ゴミの分別の仕方という行為だけを現実的に調教されるのとは訳が違う。自分達の手で薪ひろいをして火を付け食事をつくる。コンビニ弁当とは違う味がするだろう。その1日だけの体験が生活感覚として定着して感性を形づくることなどは期待すべくもないが、リアルとバーチャルの違いだけは理解するだろう。放っておいたら、庭を『自然』だと思い込むのもそんなに遠くはないだろうと思う。
フォレスティングその2
フォレスティングから連想されるのは教育の現状だけではない。文化にしてもそうだ。庭の木や草花に四季のうつろいを感じるのは実に豊かな感性だと思うし、雪見障子に映り込んだ薄の陰なんぞは、まさしく『わび、さび』の日本的な情感の豊かさをを感じる。
でももうちょっとこんな風に考えてみたらどうだろうか。
そうしたものに価値を感じる感性を培ってきたのはいったいどんな原風景だったんだろう?。その感性を培ったきたものも、やっぱり作られた庭の作為的な演出だったのだろうかと・・・。実は、培ってきたものと、その成果によってしか味わえないものとがこの世の中にはあって、つまりは庭から受ける感動は本物の自然との共生という原体験に培われた感性が、優れた庭園の演出によって触発されたものだ。結果のオイシイところだけが全てであるかのような価値観は、まさしく20世紀の終わりと共に僕達が決別したはずの『豊かさ』だったような気がする。
もしも、庭の中の自然しか知らない人がいたとしたら、その原風景を持たない感性にとって、庭はいったいどんな価値を持ったものとして映るのだろうか。
そんな風に思いを巡らすと、ひょっとしたらその原体験の教育こそ造園業の未来のマーケットを創造する大きなキーワードであるかもしれないなどと、つい考えてしまう。
となると、フォレスティングはガーデニングと違って、その豊かな楽しみの奥には、教育だけではなく、文化だけでもなく、ひとの価値観や、その価値観が支える産業までもが関係してくるはずだ。
僕の言ったスケールの違いはそういうこと。ちょっと手前味噌ではあるが、つぎは僕達の森づくりの体験イベントに参加する子供達のことについてを書いて見ようと思う
フォレスティングしようよ
フォレスティング
きのうフォレスティングというタイトルをつけたら、フォレスティングって何だ?と言われた。辞書を開いても載っていない!と。それは無理もない。何しろ僕の作った造語だし、まだ辞書に載るほどメジャーではないから。
・・・というわけで、ナイフメイキングの話しの続きは後回しにして、フォレスティングについて説明しておこうと思う。辞書を引くと、たぶんforest の近くには、 forester とかforestationとか似たような活字にはお目に掛かれるんだが foresting は載っていない。
しかし、市民権を得た言葉にガーデニングと言うのがあって、こっちのほうはうらやましいほどのちょっとしたブームになっている。フォレスティングとは、この メジャーなイメージをパクッてでも何とか日が当るようにしたいという涙ぐましい思いが込められたネーミングで、自分の子供に法外な望みを託す父親の思いに通じるものがある。
だから、ガーデニングのように立派に市民権を得て、だれからも愛され、手軽に親しめ、喜びを共有できるような存在に育ってもらいたいと切に願っているという訳だ。
ガーデニングは、言わずとしれた庭づくり、だからフォレスティングは森づくりなんだが、そんな単純なものではない。僕に言わせれば、庭と森とではスケールが違う。
もちろんそれは物理的な尺度だけじゃなくて、みみずやオケラから鹿や熊まで居るという懐の広さだ。一抱えもあるような木もあれば、草陰でひっそりと芽を出したどんぐりもある。だけど管理され尽くした『庭』には、消毒のおかげで青虫どころかミミズやオケラさえ住めない。
人の管理の元に平和で安全ではあるものの息絶え絶えのちまちまとした生態系をみると、なにやら現代の教育のありさまとイメージが重なってしまう。
ナイフメイキング
僕達の活動は一言で言えば森づくりだ。
しかし、よくありがちな『環境』を冠にしたストイックな
ボランティアではない。森の豊かな遊びに浸り、時の流れ
に身をおいて、ガーデニングのように森づくりを楽しんでいこうと
いう文字通りの『イッツ・マイホビー』のスタンスなのだ。だから
食事は大きな楽しみのひとつ。
当然欠かせないのはナイフだ。
ナイフはアウトドアでの大切なツールなのだが、ことにプレンティアの
クッキングはには多様な機能性が要求される。
もっぱら作っているのは、東京カリー番長レシピのプレンティアスペシャル
カリーなんだが、これは材料に丸鶏をを使う。家庭だったら当然それを
捌くのは出刃、玉ねぎを刻むのは菜切り包丁という事になるわけだが、
アウトドアではそうはいかない。しかも常時携帯できて、作業に邪魔
になる小枝や蔦野類などは伐り払っても刀こぼれしない頑丈さが必要で・・・
となると、市販のナイフはほとんど使い物にならない。そんな!と思ったら
ナイフ専門店に行って聞いてみるといい。
必ず、ナイフというものは全て使用目的に特化させて造られているから・・・
という返事が返ってくるはずだ。
つまりプレンティアユースに特化したナイフはないと言う事で,それもまた無理
もない。プレンティアなる世界そのものが誕生してわずか7年しかたっていないのだから。
そこで止む無くプレンティアモデルという専用のナイフをデザインして手作りで
作ることにしている。プレンティアモデルのナイフデザインも機能に特化させる
ためのモデルチェンジを重ねてもう8種類のパターンがある。
もしもリクエストがあったらそのデザインを披露しようと思うが、
いかがなもの? 明日もこの続きにしよう。
アンティークな時代論
『自然との共生』と言う言葉をよく耳にするようになった。
そもそも自然との共生って一体なんだろう?自然というのは、ただにじり
寄ってさえいけばいとも簡単に共生させてもらえるような存在
なんだろうか? どうもよく分からない。
具体的に言えば(人もまた生態系の一部であることだろうが、血の一滴もなくきれい
にトレイに乗せられラップされた食べ物の中から、自分が殺してもいない牛や豚の
死を想像するのは至難の業だ。しかも、それがもし生き物を殺して食べた経験のある
世代ならともかく、肉など生まれてこのかたスーパーの請肉コーナーでしかお目にかかった
ことのない世代には、とてもそれがかつて命だったことなどは考えたことすらないに
違いない。生態系というのはいってみれば(死によって繋がった命の鎖)なんだが、がくも
『死』から隔離されてしまうと、『自然との共生』どころが哲学だってバーチャルな世界でしか
生き残れないんじゃないかと心細くなる。そういえば,バーチャルな世界では殺しが日常化されて
いて、リセットすれば生き返る人間が毎日ごろごろ殺されているらしい。中にはバーチャルと
リアルが境界をなくして、食べる目的もなく生き物を殺したりヒットアンドリリースとかいって、魚達に
何度も死の絶望感を味わわせるサディスチックな遊びに人気があるという。
こっちは遊びでも向こうは命がけの生態系の命の役割を全うさせてやるくらいの優しさがあったら
海や川がビニール袋や釣り糸でしんでしまうこともないだろう。
近頃あらゆる世界から急速に哲学が消えたみたいだ。
『自然との共生』のためには、まず人が哲学を取り戻すことのできる教育が必要なのかもしれない。
ポケットに入る文化論
本がきになったらここ。 http://www.tokyocurrybancho.com/
僕たちがプレンティアの森のイベントで作るダッチオーブンカリーは、カレー界のカリスマ『東京カリー番長』のレシピだ。
彼から最近出版したというカレー本を贈ってもらった。
もう6~7冊目くらいになるはずで、例によって徹底したレシピ本なんだが、これまた例によって『俺だからできるんだ』と
いうようなマニアックなこだわりも気負いも無い。誰もが家庭で手軽にできて、気軽にあじわえるような気なるレシピだ。
ほんのまれにエッセイらしきものがちょっと載っているんだが、そこにだけ彼のカレーに寄せる思いがチラッと薫る。
どうやらカレーを『食べ物』としてではなくて『文化』として親しんでいるようだ。
そういえばカレーってものは、家で食べるか家族と食べにいくかいずれにしても家庭的な暖かさと結びついていて、
僕などはたまねぎを煮る匂いに、妙にノスタルジックな郷愁を感じたりするものだ。
こだわりも気負いもなく・・・・。
日常の暮らしの中にす~っと溶け込んだもの。
タイトルを付けて探し回らなくても、自分の心の中を覗けばいつもそこにあるもの。
それが文化だとつくづく思う。
『自然との共生』というタイトルを必要とする『環境の時代』はきっと不幸なんだ。
立ち話2
先週土曜日のブログの続きだけれど、
おそらく木地師やマタギの時代には、樵という職業
は森を使わせてもらって暮らしを営む『なりわい』
であるという、哲学的な矜持によって成り立ってきたような
気がします。
彼等は自分たちの『なりわい』が森の迷惑にならない
ように、その行為には宗教的なほどの慎重な配慮を
してきたはずです。
少なくとも彼らにはそれが森を創る事業などとは
考えもしなかったでしょう。
しかし、森をより生産性の高い木材の生産施設とする
ためには、できる限り完璧に人の都合で森を支配する
必要があります。そのためには共生の哲学などが存在
してはあまり具合が良くないことは誰にも容易に想像
がつくことでしょう。
一体いつ頃から林業が森を守り、森を創るという話に
なったのでしょうか?
かつては僕にも年寄りの林業従事者の中にそんな
共生の哲学を感じた記憶がありますから、そんなに
古い話ではなさそうです。
森は植林地が決別した自然との共生の哲学の上に
再生されなければならないと僕は考えるのです。
立ち話1
昨日ある経済人団体の臨時会員総会でI氏に会った。
彼は浜松市の広域合併に伴って生まれた協議会を率いていて、その同じ視点を持った独創的な議論のために森をテーマとすると発表したばかりだ。
当然話題は森の話になった。
ともに会議所青年部の参与という立場だから、林業の問題は純然たる産業振興としての視点で考えるべきであるという話で盛り上がった。どう考えてみても、植林地を森に、その森を環境問題にというすり替えには無理がある。どんなに広大であっても、キャベツが暴落してもボランティアが組織されて踏みつぶしのお手伝いをしたというのも聞いたことがない。
林業がマーケティングという視点を持たなかったのはなぜか。とか、第一次産業の中でなぜ林業だけがサービス業という視点で誰も考えようとしなかったのか。とかいう林業の自立についての僕の話に目を見開いて聞いてくれる若い林業家もいる。
今の森へ差し伸べられる行政の手が、そうした熱意を冷ます方向にはたらかなければいいのだか・・・・
第一、植林地は木材の生産拠点であって、植林政策だって環境保全の公共事業として進められてきたわけじゃない。ひょっとしたら本当の森というのは植林地化される前の姿だったかもしれないのだ。

