みのもんたの番組の話を持ち出すまでもなく、近年の地方都市商店街の荒廃ぶりの根本原因は、店主の怠慢にあると思うのだが違うのだろうか? いわゆるシャッター街と化した原因を、多くの論者が郊外型大型店舗の進出や大都市への人口流出、さらには街の魅力が減退したことなどに求めているが、紅将軍はどう考えても二次的な要因にしか思えないのだ。そう、シャッター街の根本的な問題は店主の怠慢が引き起こしたということだ。これは新聞やその他メディアに書いたり発言してはいけない問題なのだろうか・・・。
九州新幹線の全線開業が起爆剤となって鹿児島市の(旧)中心街・天文館も活気づくと期待されたようだが、開業から約半年にしてその効果は非常に限定的だったという。すなわち、直接観光に関わる業種や商品にしかその恩恵がなかったようだ(観光客が洋服やタンスを買って帰るとでも思ったのだろうか?)。ちょっと考えれば分かることだが、旅行客がなんでわざわざ自分の住んでいる街より寂(さび)れた商店街で金を使おうか。鹿児島には関西からの観光客が増えたというが、関西にあるものは買わない、そりゃ当たり前だわな。それに、観光客を当てにしているということは、地元客が購買客として当てにならないと告白しているようなものだ。
ところで、この半年かそれ以上の間、鹿児島の地元紙の南日本新聞は、天文館や商店街の活性化の取り組みについてより力を入れて伝えてきた。記事が9月4日付朝刊に掲載された記事を読めば、その努力が無駄だったと確信させてくれる。鹿児島県商店街振興組合連合会の河井達志理事長の話によれば、商店街が疲弊した理由は、街(町)や県の伝統や歴史を省みなかったことであるという。さらに読めば、お客に対して自ら動いてサービスしてこなかったことを堂々と告白述べている。「原点に返れば」と述べている時点で、原点を忘れていたことは明々白々。理事長河井くんの話から見えてきたのは、大型商業施設うんぬんなどではなく、商店街の各店舗・店主それぞれの怠慢である。
どこの侘(わび)しい商店街でも行けばすぐに分かることだが、その店で買いたくならない、ただそれだけのことだ。大型商業施設には買いたい、買いたくなるような商品が売っている、ただそれだけのことなのだ。この単純明快なことのどこに困難があろうか? 要は、この俗人的空想にふけるのが好みの俗物理事長が主張しているのは、鹿児島によそ者(大型商業施設)が入り込んで天文館や商店街を駄目にしたという、浅薄(せんぱく)な亜流のくだらない言い訳なのである。その主張すら、俗流学者どもへの無条件的権威を前提とした知識の混合物を垂れ流しただけなのだ。
灰や埃(ほこり)が被り、旧態依然とした陳列棚、定価販売を基本とした価格設定、さらには、奥でテレビを見たり寝てたり引きこもったままの店員がいる店に、入りたいと思うだろうか? いやっ!このスタイルこそが天文館なのだ! そう、思い出してほしい、「薩摩の殿様商売」とはこうあらねばならない。その歴史的伝統精神を差し置いた商売など亜流であり邪道なのだ。
すなわちこういうことだ。天文館のあるべき商売とは、店主は決して値引きしない、客に向かわない、説明しない、レジ打ちのときだけ上から目線で向き合う。商品に埃が被っていようが、嫌なら買うなどっか行け。買いたい商品が無いんじゃない、置いてある商品を買いたくならない客が悪いのだ。これこそが薩摩城下町の殿様商売、天文館商法と言えよう。このどこに問題があろうか。あろうはずがないではないか! 悪いのは客のほうなのである。
思い返せば私たちは、まずは商店街のほうから動くべきだと思いがちである。しかし、新しいものができればそれを喧伝する迷信的なマスメディアに、私達はどこかおもねってきたのではないだろうか。他県や他の地方、さらには海外の情報に惑わされ、メディアが振り撒く「企業努力」という用語に振り回されてきた。インフラ整備、設備投資、売り場拡張、リストラ(クチャー)、イノベーション、価格競争、サービス改善等々の大言壮語な字義的概念のオンパレード。これこそ大いなる無駄だったと気づくべきなのではないか? いまこそ天文館は、「薩摩の殿様商売」を前面に押し出すべきときだ。これこそが伝統や歴史を見直した商店街復興への解決の糸口となろう。
意識改革をすべきは、実は、客のほうだというコペルニクス的転回を、今こそ促そうではないか! (紅将軍)