貴方の気持ちを知りたくて。 <…そのうち書き直したい>
どの寮にも『退寮期間』というものが存在する。その理由は一概には言えないが、その理由は多くの場合が酷使されている施設の整備及び点検、故障個所があればその調整といったいわば生徒がいては出来ない雑事。また、まだ中学生という年齢だ、お盆時くらいは実家に帰れという大人からの無言の主張であることもまた事実であろう。
退寮期間は8月半ばからの十日間、年により前後はするものの原則的にこの時期生徒は実家に帰る事となっている。時として特殊な許可を得る事で残ることは許されるものの、その活動範囲が大幅に制限されるなど制約が掛かることとなる。其処までして残る者など年に数人出るか出ないかといったくらいだ。
退寮をする時期は人によって異なる。映理のように終業式が終わるや否や飛び出る生徒がいる一方、退寮期間ギリギリまで残る生徒もいる。その主な理由が部活動の活動期間である。
たとえばサッカー部がそうである。
夏季の練習予定は昨日の午前までで全て消化され、サッカー部の部員は続々と帰路へと付いた。部員の一部は家庭の事情などのこともあり一足先に帰っているものの、そこは実力主義がものを言う強豪武蔵森である、特にレギュラーとして登録されている選手は当たり前のようにギリギリまで練習に参加していた。そして大半の選手達が今日一日を帰省の準備に当てていた。
「…ねぇ、先輩、買いすぎじゃないですか?」
地獄だ。誰もがそんなことを思いながらも口に出すことはけしてしない。言えば暑くなるなどといった迷信じみた事柄を信じているわけではけっしてない―――――言葉にする気力もないほど暑い、ただそれだけである。
ただ歩いているだけなのに玉のような汗がびっしりと額を覆い、何名かの足を飾るサンダルがぱったぱたと無気力そうな音を立てる。もしも団扇を持ち合わせていたならばその音も加わっていたに違いない。
そんな光景を目の前に見ながらその少年は一際細くつややかな髪の毛を掻き揚げた。元々色素の薄い肌の持ち主なのであろう、ほっそりとして無駄な肉のない頬は新鮮な桃の色に彩られており線の細い外見も手伝ってまだ未完成な容姿が少女のような愛らしさも持ち合わせているといえる。
少年の名は笠井竹巳、その線の細さからは若干意外な気もするが彼もまたれっきとした武蔵森サッカー部のレギュラー選手である。
竹巳はその数名の男子からなる集団の中ではシャツにジーンズという比較的まともな格好で身を固めているが、その両手にはずっしりと重量感が見るからにあるコンビニのビニール袋。内外の温度差ゆえその表面にはびっしりと水滴が伝い熱されたコンクリートに転々と痕を残していく。
「うるせぇ、暑いんだから仕方ねぇだろうが…」
「そーそー。まだ片付け終わりそうにないしよ、渋沢もそろそろ終わんだろ?」
前を黒髪に垂れめの大きな瞳が特徴的な少年と短くきった黒髪の少年――三上亮と近藤忍はともに口にアイスキャンディをだらしなく運びながら竹巳を振り返ることなく武蔵森の門に沿って歩いていく。その間影がなぜないと問いたくなるが、正門は西より二建っているのだからそればかりは彼らにどうこうできる問題であるはずがない。できるのは無気力ながらもとにかく寮に戻ることだ。
それに同意しているわけではないのであろうが、同行していた残りの二人も重々しくうなづいて見せた。
夏休み前半の練習を終え、自分達の日ごろの非整頓を思い知らされる帰省準備は滞りなく進んでいる、とは到底いえない進行状況であった。
日ごろの疲れもあり、さらに練習が終わったということで気がぬけたこともあったのか、揃いも揃って今朝起きたのは朝食の時間を大きく過ぎてから。暑さに耐えかねて一度は落ちてクーラーをかけたらしい形跡は残っていたが、冷気が部屋を気持ちよく包めば次に来るのは眠気というのは生物的本能とも言える;つまり気づかぬうちに二度寝してしまっていたようだ。
退寮期限は今日一杯、とあれば今日中に荷物をまとめて退寮手続きをしなくてはならないのだが、荷物をまとめ始めればつい身の回りの整理も始めてしまう。部員の中ではかなり几帳面な部類に入る竹巳ならばそれはなおさらで一学期分のプリントの整理からクローゼットの整頓まで気が住んだ頃には昼をとおに過ぎていた。
そうして昼に誘いがてら他の4名の先輩達の様子を見に行ってみれば―――溜め込んだ週刊誌を読んでいて準備はこれッぽっちも進んでいなかった。
そうして全員が準備を終えた頃には既に3時を過ぎており、誰が言うまでもなく全員が財布を握って外へと行く準備を進めていた。
ジュース、アイス、それはどう見ても五人分の量ではない。尋常ではない、とはまさにこのことかもしれない。
暑さからして尋常ではないのだからその点を考慮すればまだ許容範囲なのであろうが、冷凍固形物に関しては内何割が完全な状態で寮へと戻るかは甚だ疑わしい。尤も、その殆どは既に彼らの口にくわえられているが。
先頭を歩く亮は整った顔立ちを不機嫌に歪めながらも人工的な水色のアイスキャンディを口にくわえる。舌を伝わってくる冷たさが心地よいがそれが休息に熱された体温に吸収されてしまうことが憎らしい。さらに今年最高だという熱気のためキャンディの表面を垂れていく雫をなめ上げるという仕草は、彼の美学から言うのであれば好ましくないこと。武蔵森の司令塔といわれる彼も自然の攻撃の前には成す術もないといったところか。
武蔵森はサッカーの名門校と銘打つだけのことはあり、サッカー能力による推薦入学制度や特待制度などが完備されている。200人を越える大所帯は1軍から3軍までに分けられているが、2軍の半数程度まではその推薦入学制度により入学を果たし、さらにサッカー部専用の寮への入寮を許される。
『松葉寮』、スポーツ選手にとって望ましい環境が整えられた、特別な寮である。
一般生徒からすれば羨ましいとも取れる待遇だが、当然そこへ収容された生徒達にはそれなりの義務が課せられ、早い話が早朝から夕方遅くまでの練習、合間のトレーニングやミーティングへの参加などがそれにあたる。
故に、松葉寮は寮郡の中では最も奥、サッカー場を横切ったところに設置されている。
正門から入って中央通路をまっすぐ南へ。学校があるときならば授業へ向かう生徒達で賑わうその道は夏休みもそろそろ半分を消化しようかという今ほぼ無人だった。とはいえ、茹だるような暑さの中人ごみを歩かなくてもいいという一点については彼らにとっては好感が持てること。
そして其処を暫く行くと一面のグリーンの金網が現れ――――其処からは今はにぎやかな音が聞こえてくる。
「……この暑いのに、元気だな。」
誰にともなく竹巳は小さく呟く。
金網の向こうに見えるのは決められた練習着を纏ういつもの自分達とは違い、思い思いのシャツに身を包み走り回る少年達の姿。人数はいつも部活で見るよりも閑散としており、ミニゲームをするにもフルチームでやっている様子はない。
――――けれど、空気中に伝わってくる活気は比べ物にならないほどに澄み渡っている。
(これが、選抜、か)
自分が選ばれなかったことに対して悔しいという思いは勿論ある、有り余るくらいにある。自分とてプロを夢見るサッカープレイヤーの一人であり、武蔵森という優遇された環境でレギュラーとして活躍をしているけれども、それでも自分は今この瞬間は『その他大勢』の中の一人でしかない。
そう思うと、本当は見ているだけで悔しい。
けれど。
(……三上先輩、もっときっついだろうしな)
竹巳にとっては一学年先輩にあたる亮は彼とは違い、夏休み頭に行われた選抜合宿へと召集されている。武蔵森の名MFであり指令塔としそれは当然のことだと誰もが思ったが、結果は残酷にも彼の不合格というものだった。
中には彼がライバル視していた他校の選手もいたが、それで彼はその相手とは一線画されてしまったという事になるのだ。元々矜持が高く自分のプレーにも誇りを持っていた亮であっただけに一目こそ忍んではいたが、その落ち込み様は竹巳にもわが身のようになぜか感じられた。
故に、目の前の光景をどう思っているのかと気になるが、亮は後輩に背中を向けたまままっすぐに前を向いていた。
しかしそれは他の先輩達とは違うことは明らかだ。突破力を武器にしたMFである中西秀二や高さを最大の武器とするDFの辰巳良平、竹巳とはSBとしてタッグを組む根岸靖人らは都内でトップクラスとして扱われるプレイに興味深々とばかりに、歩みこそ止めないものの、食い入るようにその視線はプレイヤーたちの動きを追っている。無論彼らとて其処に参加できないという悔しさはあるのだろうが、だが選ばれてあそこに彼らがいるという事実を認めないわけにも行かない。
ただ、亮だけがまるで其処に何もないかのように、前を見つめる。
竹巳とて勿論プレーが気にならないわけではない、隙さえあれば一つでも多くの動きを盗みたいところではあるが。
その前に、一人の影に目を留めた。
「映理!!」
その名を呼んで先輩達を追い抜くと竹巳は暑さに根を挙げていた表情はどこへいったのか、ぱっとはじけるように笑顔を浮かべその影へと駆け寄る。その声にすぐにその相手は気づいたようで、若干気だるそうな動作で振り向くと、やはり竹巳同様ぱっと一瞬にして笑顔を浮かべて彼を迎え入れる。
「笠井!」
「お疲れ様、映理。マネージャー大変?」
にこり、とタクミが穏やかに笑って見せれば映理は苦笑を浮かべるように眉尻を下げつつ、「まぁね」と曖昧な返答を返すや否や一言「待ってて」と返すとその場を離れた。目で追うまでもなく竹巳にとっては彼女の行動など良く分かったもので、彼女は彼の期待を裏切ることなく少し離れたところに合った戸口から外へと出るとまっすぐに竹巳に駆け寄ってきた。
「アイス!」
「先に言うことない?映理?」
期待で輝く瞳で駆け寄ってきた彼女に軽く脳天チョップも勿論忘れない。
笠井竹巳、渋沢映理。ともに2年B組。
クラスメイトという関係の二人であるが、部活でマネージャーという関係とどちらかといえばのんびりとしたお互いの気質も手伝い特に仲のいい関係―――それが二人の間に流れる穏やかな空気の正体だった。
お店の一人娘という育ちがあるのか、それとも過保護すぎる兄に守られて育ったことが影響しているのか、彼女は人見知りの気があり、さらに一際男に対しては一線引いている付き合い方をする映理であるが、竹巳に関してはその一線は感じられないところにも彼女が彼を信頼しているというところは見られる。
「おい映理、何だサボり?」
「うっさいねぎっちゃん。」
―――――尤も、他主要先輩に対しては情け容赦がないだけという説も非常に濃厚という一説もあるが。
(ま、それが映理らしいんだけど。)
映理という少女は竹巳の主観で言うならば正直だ。
俗に言う箱入娘である映理は感情のコントロールこそ上手いが、完全に隠しとおすことは出来ない性格をしている。故にそれが信頼に足る相手の前に出ればくるくるとめまぐるしく表情が変わり素直に感情を表現する。
(率直に、可愛いんだけどな。)
流れるような長い黒髪に形のいい瞳、すらりと高く恵まれた体躯の大人びた外観とは裏腹に、汚れなく潔白なその内面はありふれた言葉ではあるが『綺麗』だと感じる。そのギャップがというわけではない、その全てが彼女を構成する要素であり上手くつりあっていない状態こそが自然で。
「笠井?暑さで可笑しくなった?」
きょとんと覗き込む淡い茶の瞳。
竹巳が好きになった『クラスメイトの少女』とは、竹巳にとってはそんな少女だった。
「違うよ。映理こそこの暑さの中にずっといたわけ?」
「いたわよ。地獄よ。生き地獄ってこういう事言うんだって思ったもん。」
見れば彼女の額にはじっとりと湿っており、その身を覆うシャツもぐっしょりと湿っていることが傍目にも分かる。この厚さで日焼け止めも流れてしまったのであろう、頬や腕が赤みを帯びており長時間彼女が屋外にいたことを物語っていた。
他のマネージャー達は昨日練習が終わると同時に一斉に帰省をしていったが、逆に何故実家に帰っていたはずの彼女が入れ違うように舞い戻ったのかは不思議だったが、すぐに妹を溺愛している彼女の兄のことを思い出した。ご愁傷様、などといえば彼女は盛大に溜息をついて諦めたように遠くを見つめるのみ。
「ま、アイス買ってきてあげてるけど。頑張ってるからご褒美。」
頼まれたわけではなかったがコンビニで自然と彼女の分のアイスを選んでいた。時刻は4時近くもうそろそろ練習も終えるはずだという考慮の上、多少時間は早かったようだがと思いながらも竹巳は手にぶら下げたビニール袋から一つのアイスを取り出し。
「まじ!?笠井大好き!!」
うっかり、取り落としそうになる。
「っと、笠井、危ないよ。」
「あ、ご、ごめっ」
(……天然って、罪だよ)
彼女の言葉にはまったく他意はない。
そのことを嫌というほど理解しているのは他でもない竹巳自身だ。純粋といってもむしろ子供のような純粋さを持つ映理だ、『大好き』という言葉には『友達として』という前置詞がもれなくついてくる。ついてくるが省略されているだけだ。
しかし、竹巳にとっては彼女はただの『友人』ではない。あくまで『好きな女の子』である。渋沢克郎という高すぎる壁がありその距離は中々縮めることが出来ずにいるが、あわよくばと思うくらいの野心は温厚な竹巳にだってある、それが男というものだ。
しかし映理はそんな事知るはずもなく。
「…笠井ってさ、哀れなんだか幸せなんだかわからねぇーよな。」
「ありゃ幸せだろ。」
「ま、とんびに掻っ攫われるタイプだよな、大人しすぎて。」
「あ、お兄ちゃん気取ってたら男できたってやつ?」
「がつんといけよー、男だろー。」
背後から聞こえる好き勝手な言葉が彼女に聞こえていないことを祈ることが、竹巳にできる精一杯でもあった。
大方の予想通り、映理は不可思議な友人の態度に一つ首を横へ傾げた。
時として竹巳はこのような態度を取るが故、慣れていないわけではないものの挙動不審となると流石に心配するくらいの友達甲斐くらいは持っているつもりだが、この場合はあまり深く関わらないことが早期回復への手段だということも今までに彼女が学んだことでもある。
友人からの『ご褒美』の封を切ることには一瞬の迷いが合った。如何せんまだコートでは、既にクールダウンに入っているとはいえ練習が続けられている。流石にもうこの段階になっては簡単な片付けの他にマネージャーの手は殆ど必要がないが、かといって先にアイスを食べていてもいいのかという疑問もある。感情論でいうならば自分はボランティアで夏休みの一日を費やしたのだから、これくらい許せといった思いもあるけれども、一マネージャーとして選手に申し訳ないという感情もある。
さて、どうしたものか。放って置けば幾ら暑さが和らいできたとはいえアイスはただの甘い液体へと変わってしまう。できるならば今すぐに胃の中に収めてしまいたいところであるが―――――――
「あーー!!映理アイスずるーい!」
その声を聞くと不思議と今食べてもいいのではないかと思うのは何故だろうか。
「あ。梓。そっちも終わった?」
気づけば金網に張り付くように映理の手元に熱視線を送っているのはマネージャーの片割れ、梓。いや、気持ちがわからぬわけではない、彼女も映理同様一日酷使されていた身だ、これくらいの報酬くらい貰っても何の後ろめたさを感じる必要性もないだろう。が、今にもヨダレをたらしそうな瞳で金網にへばりつく姿はおそらく映理でなければ指をさして笑っていたかもしれない。
「終わったよー!!笠井ちゃん映理ばっか贔屓ずるくないー!?」
「ほら、映理頑張ってるから。」
「私も頑張ってるだけどー!?」
思わずくすりと笑い声を零しながら、映理はその光景を何気なく眺めた。アイスはまだあけないつもりなのか、持っていたタオルに軽く包むと金網に身を任せた。ぎしりと軋む音が体の立てた「疲れた」 という言葉のようだと思いながらも、一日過ごしてみて結局意外と悪くない一日だったと思えるのは根っこではサッカーが好きな自分がいるからかもしれない。梓のように知識を追い求めるほどでもなく、プレイを積極的にしようと思えるほどではないものの、それでも関わる選手を支えたいと思う程度には。
先ほど治療した相手は黒川柾輝といったか、と脳裏に褐色の肌に鋭い瞳の持ち主を思い返す。そして梓の兄である結人に、その友人である郭英士に真田一馬、桐原監督の息子だと聞いていた水野竜也に、確かこの前まで同じクラスにいたはずの風祭将。この練習は彼女が思った以上の出会いを彼女に与え、それが嫌なものではなかった。まぁ、ナンパをしてきた鳴海貴志がその嫌ではない出会いに入るかは彼女自身も疑問だが。
そんなことをぼんやりと考えながら漫才まがいのやり取りを続ける梓や竹巳、そして気づいたら参加していた靖人に忍たちを眺める。いつもならば一緒に会話に参加するところだが、今日は少しばかり疲れたのであろう、寄りかかった金網に体が吸い付くように今は動くことすら億劫で。
「……で?三上は何でそんな機嫌悪いわけ?」
「……先輩をつけろ、先輩を。」
目線すら向けずに隣にもたれかかる垂れ目の男へと声をかけた。
既にアイスキャンディは食べ終えたらしくその手にはペットボトルの蓋がのぞく白のビニール袋が一つぶら下がるだけ。しかしその表情は暑さのためばかりではない不機嫌な色が浮かんでいた。
「こりゃ明日降るかなぁ。台風の予報、確か近づいてたよね?」
「ンなもん俺に聞くな。」
「台風来ると困るのよ、客足遠退くじゃないの。」
お互い目線をあわせることはしない。しかしお互いにしか聞こえないであろう程度の声で良く通る女性監督の声を遠くに聞きながらもお互いの存在は感じることができる。普段より強いて言うほど仲の良い先輩と後輩というわけではない、映理個人の話をしてしまえばむしろ彼と同室の靖人のほうがなじみはあるがどこか皮肉を含んだ口調や物の見方には共通する部分が合った。故に付かず離れずの距離が心地よい。
「水野クン、だっけ?確かに上手いわね、ありゃ。」
露骨に亮の感情が動いたのは立っているだけで感じた、が動じることはない。まるで気づいていないように映理は腕を組みなおすと、竹巳たちに何を言われたのか赤く染まった頬を膨らませている梓に向きなおる。
「梓―、水野クン、今回伸びてたのって俊敏性だっけ?」
げっ、という声が聞こえて来そうなほどに忍を筆頭としたレギュラー人が顔をしかめる。それも当然だ、亮と、彼がライバル視する水野竜也、彼らの関係は一言で言い表すことは困難なもので、しかし無論その関係が良好なものでないことは誰もが知ることだ。しかもあいては都選抜10番<エースナンバー>、かたや、選抜落ち。亮の悔しさを彼女が知らぬわけはないだけにその言葉は辛辣きわまりないといえる。
「あ、え、うん、そうだけど。」
一人、梓だけは映理の意図がわからないわけではなかった。顔をあわせたときから機嫌が悪そうな亮、その理由は確実にコートでクールダウンをしている少年達であろうし、最初武蔵森で練習を行うといわれた時には真っ先にこの司令塔のことを思い出した。
選抜に召集はされたが残れなかったもの、そんな人物が『残ったもの』たちを直視するということは厳しいことであるし、絶対にキツイ―――が、同時に其処を乗り越えなくては先がないのもまた事実。映理の発言にはおそらく彼に前を向かせようという意図があることはわかるのだが。
(……映理チャンよ、方法考えようよ)
男に対しては容赦がない一面がある親友に、思わず涙を流しそうになりながら、彼女は自分の言葉をつなげるとともに、まっすぐに亮を見上げた。
「でも、セットプレイからのコントロールは先輩が越えましたね!」
ヒマワリのように、少女は笑った。
亮は突然の後輩の発言に、毒気を抜かれたかのように一瞬目を大きく見開く。
「ほー、さっすが毎日部活でてただけあるわねー。」
「へへー。映理、三上先輩のが伸びてるとこだってあるんだからね!意地悪しちゃダメだよ?」
め、なんて自分より頭はんこ分も低いところから見上げてくる目線に、映理は溜まらず小さく噴出した。いつもは小動物のような気質のため妹的な地位にいる彼女だが、時としてこんな風にお姉さんのような態度をとることがありなんだかそれが彼女には不思議と可愛く見えた。そして、同じように隣であっけに取られたような『先輩』も、こんな時ばかりは可愛く見えるのはさしずめ梓マジック、か。
「あ、映理!西園寺監督呼んでるよ!」
「いけない、ごめん、今すぐそっち行くね。」
練習は終わりになるのだろう、クールダウンを次々と終える選手達の傍らで白いシャツが眩しい女性監督が綺麗な微笑とともに手招きしているのがコートの向こう側にみえる。映理は竹巳たちに簡単に挨拶をすると、コート内へ入るべく走り出して。
「…おい梓。ありがとな。」
「え、え、え!?あ、い、いえ!!ま、マネージャーとして、当然です、から!」
仏頂面を想像できるぶっきらぼうな謝礼に、きっと頬を真っ赤にしているだろう慌てた返事に笑い出さないほうが難しかった。
じっとりと空気は湿度を含み、夏の夕方にしては若干暗い空を見上げると気持ちは沈みそうなものだが、そんな二人の様子に映理は人知れず満面の笑みを誰にともなく放った。
「梓、三上に誉められて良かったね♪」
「映理ぃいいい!!!!!!!!!」
何でこんなに分かりやすいのに亮は分からないのだろう、なんて。
赤くなりながらも、笑みが穏やかなまま自分の横を走る相棒を愛しく思いつつ、この夏の暑さのように彼女の暖かな気持ちがさらに強いものへと昇華することを期待せずにはいられなかった。
それを、人はきっと『青春』と呼ぶから。
「今夏一番の暑さにご注意ください」
武蔵森のマネージャーは映理と梓だけではない。
何せ3軍まである大所帯なのだ、到底生意気盛りな蹴球小僧どもをたった二人の少女で制御が出来るはずがない。指導陣にもそれは同然で、監督を筆頭にコーチ陣が複数名、成長期で将来有望な人材の育成にあたっている。
そんな複数名居るマネージャーの中でも、梓と映理の得意分野は分かれていると言っても良い。
基本的にはマネージャーと言えども、たかだか中学生のマネージメントなわけで、そうそう大それたことではないのでもちろん各人共通のことを行う。道具の整備、スコアやデータの収集、雑用、医療部門。それは多岐に渡り、協力し分担して行う日々がほとんだ。
だがしかし、人間得手不得手が勿論有り、例えスタートラインは同じでも時が経つにつれ自然と得意部門の担当が広くなる。それは多忙な時に程発揮され、特に試合が続く大会時期や選手を選定する時期などは顕著に現れた。
マネージメントコーチ曰く。
梓は情報収集部門。
映理は医療部門だ。
元来がサッカーに対するプレイを好み、プレイが出来ないまでも観戦することを積極的に取り組み。また興味を持つことに対しては貪欲なまでに知識を欲し、その処理に普段からは想定できないほどの集中力を発する梓。
対して映理はサッカー自体にはそれほどの興味を抱かずとも、生来の性格や家柄からか身辺の整理や細やかな動作。自分以上に他人に対してその状態を気に掛ける点などが突出する映理。
その状態が、自然と二人の得意部門を芽吹かせていた。
武蔵森は都内、いや全国でも屈指の強豪校で、選手だけではなくマネージャーまでもが中学生というレベルを超越しているとは大会などを一度でも行った事がある人間ならば、必ずしも一度は聞くことだ。裏舞台までもが激戦。それが武蔵森を全国区まで叩き上げた由来でもあるのかも、しれない。
そしてその常のマネージメント能力はこの都選抜でも遺憾無く発揮され、それに対して予想以上に喜んだのはもしかしたら監督である西園寺なのかもしれない。
「映理ちゃ~~~~~ん!俺、怪我したぁ!」
「唾でもつけとけ!」
情報収集を静かに細やかに行うテントとは、コートを挟んで逆サイドのテントは多忙の余り時折怒気が孕む声が飛ぶ。そしてその怒気は今、武蔵森中エースFWでもある藤代誠二に向けられていた。
ここは主に医療を専門として行う場所として確保され、試合最中に怪我をした者、体調を崩し見学を余儀なくされた者、またその他の緊急避難場所として使われることを目的としている場所だった。血気盛んな若人が所狭しとこの真夏の太陽に負けじと走り回るこの場において、その場が静寂を手にすることはまず、無い。
今ももう休む間も無くまた一人けが人が運び込まれる。と言っても、そのけが人は膝頭に掠るほどの擦り傷で、若干血がにじむ程度。先ほどから留まる事無く訪れる人の波には、その程度の傷など構っていられるかと思っても仕方が無いことなのかもしれない。
脱脂綿に消毒液をたっぷりと漬け、傷跡に擦りこむ。包帯やらシップやらスプレーが飛び交うこの地はもう一つの戦場。この年頃の選手の怪我は確かに若さゆえに完治しやすい。反面、舐めてかかり後遺症となって後から現れ、やっと芽吹きだした才能を潰し選手生命をダメにしてしまうケースが無いとも言い切れない。
実に、繊細で神経を使う仕事だ。
だから口ではどんなに言っても自分よりも選手を優先し、一心不乱に仕事をしてしまう。彼らを思うならでは。
「ったく、武蔵森のエースがこんなかすり傷ぐらいでぐだぐだ泣き言言ってんじゃないわ、よ!」
「痛っ!しみっ、沁みるから!映理ちゃん!」
「うっさい。黙って治療されなさい。ほら、バンソーコーつけておしまい」
ぺちん、と一つ傷をバンソーコーの上から叩けばまた一つ悲鳴。これくらいのこと彼らにしてみたら日常のはずなのにどうしてか今日は医療チームが大盛況。ありがたくも無い繁盛に包まれている。ようやく今、最後の怪我人誠二の処置を終えると映理はほうっと息をついた。「お疲れ様」と苦笑をもらしながら声をかけてくれる医療担当のコーチには溜息交じりの愛想笑いを。
「ミニゲーム一つで、大体あんたたち何人怪我してるのよ。ラフプレー過ぎるんじゃないの?」
フェアプレーを信条としているサッカー。その中でも特に優秀選手が集うこのチームにおいて、これほどまでに怪我人が多いとは予想していなかったとは映理の瞳が語る。現に、まだ午前中の日が低い時間にはそれほどに居なかったはずなのに、午後になり、お天道様の日差しがきつくなりだし途端に増えた。
「まあほら、暑いし」
「このテントは休憩場所じゃないわよ!」
暢気にタオルで汗を拭う誠二に映理はまた一つ説教交じりの怒号を浴びせると、「違うって」と一つ反論が返ってきた。
「汗をかくんだよ」
「汗?」
うん、と一つ頷く誠二はぎらつく太陽と照らされた選手を指差した。
「みんな暑くて暑くて、汗かいて滑っちゃうんだ。暑くて頭が朦朧としたりする奴も居るみたいだし」
「……それで汗で滑ったり、足元ふらつかせて接触するの?世話無いわね」
「まあそうも言うなって。何せ今日最高気温今夏一番だってさぁ」
苦笑交じりの台詞に映理は苦笑どころか苦渋の表情を見せる。今夏一番?冗談じゃない。ただでさえこんな炎天下に一日居るのに、それが輪を掛けての暑さを見せるだなんて溜まったものじゃない。まったく倒れたいのはこっちだ、なんて昨夜電話を掛けてきた血の繋がった肉親を怨念を込めて呪い見つめた。
「俺あっついの大概平気なんだけど、今日のは勘弁」
「…あんたさぼりたいだけなんじゃないの?」
「まーまー固いこと言わないで」
泣きボクロの人懐っこい瞳が見つめる。身長だけなら大型犬だが、この仕草ではまるで足元を駆け回るやんちゃな子犬だと感じる。これが全国区でも屈指のプレーヤーだと言うのだから、間違っているのではないかと思ってしまう。
確かに今日の暑さは尋常ではなく、既にコート上は暑さの余り陽炎すら見えつつある。
暑さには強い映理自身も息をつくほどに暑い世界で、よく自分の相方は大人しく情報収集などやっているものだと、コートの向かいのテントを見ると、選手である幼馴染に具合を心配され冷たいタオルなどを差し出されていた。マネージャーはどうしたと内心突っ込みを入れながら。
「あー…こんだけ暑いと、海にでも行きたいよね」
「嫌よ。どうしてこんなに暑いのに暑いところに行かなきゃいけないの」
「え?でも海の中涼しいじゃん」
何せ水だよ?と語る瞳はもう遠い蒼い海に飛んでいるのかもしれない。
世間一般はもうお盆と呼ばれる時期で、テレビをつけると行楽地は人で溢れかえっていると毎日のように報じられている。大変だなあと人事のように感じる映理は、行楽地に出かけるどころではなく、お中元シーズンで大賑わいの実家の和菓子屋を手伝うことでいっぱいだった。そしてかたやの誠二も、全国大会を駆け抜けてのこの選抜で行楽どころではない。
「うーん!やっぱり休みは海かな!プールかな!ああ楽しみっ」
「そっか、みんなもそろそろ実家に帰るんだ」
「そだよ。寮は今日までだもん」
そう言う誠二の言葉に映理はようやく、武蔵森サッカー部の夏季休業中練習の前半部が今日で終了することを思い出した。と言っても、既に全国大会を終えた彼らは部活と言うよりかはクールダウンの時期に入り、各々実家に戻る支度をしていると言った方が正しく、ふとコートの外を見る忙しなく少年たちが奇声の準備をしているのが見受けられる。そうでなければこのコートを【部外者】が使えるものではない。
「映理ちゃんはもう帰ってるんだよな?いいよなあ、早く帰れて」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。私は実家に帰ればこの時期は店の手伝いよ。お盆になれば尚更だし、兄貴だってそうよ」
「そっか、キャプテンもなんだ……家に帰ってもキャプテン居るのかぁ」
「遊びに来る?」
「……遠慮するっス」
兄である克朗も、目の前の誠二も。みんなみんな自宅へ帰る。久々の帰省、久々の実家、久々の休養、久々の家族。何も無い穏やかな時間をどれだけ心待ちにしていたのだろう。サッカーも好きだが、それと同等の大切な時間は勿論誰しもにあって。
実の所、マネージャー陣は既に帰省が済んでいた。特に映理は中でもいの一番に実家に戻っていた。それはもちろん和菓子屋の手伝いのこともあるし、自分が居なくても克朗がいるというのが大きいところで。そして映理に続くように翌日には複数居たマネージャーは帰路に着き、実質最終日である今日は誰もいない、―――はずなのだが。
「ねえ映理ちゃん、梓、何で居るの?」
誠二の疑問は、極自然のものだった。
論じた通り、マネージャー陣は選手たちよりも一足早く帰路についている。ただ一人、梓を除いて。
確かに梓の実家は武蔵森から遠く離れた地でもなく同じ東京都内。恐らく全寮制という特色さえなければ楽々通学圏内だ。だがそれは梓だけではなく映理もそうであるし、選手も、マネージャーも、沢山その手の選手は居る。だからこそ皆一様に早く帰りたがるのだ。何もこの距離で、折角の機会があるのに帰らないでどうするとばかりに。そうして手に出来る休みは恐らく通常の選手の倍以上はあるだろう。
だがそんな中、梓は一人帰らずまだ寮に残って生活をしていた。もう人気少ない、あの寮に寂しく。何を思ってか。
「だって映理ちゃん帰ってんだろ?そしたら寮の部屋一人じゃん」
「そうね」
「女子寮って、確か男子寮より居なくなるの早いって聞いたことあるけど」
「確かに。もう帰省日初日にはにはほとんどいないわよ」
お陰でこの時期の女子寮は殺風景、もしくは寂しい、といった表現が良く似合う。かく言う映理も、通常なら帰省初日に寮を飛び出すグループの一員だ。
「……何で?」
怪訝な瞳で覗き込む誠二に、映理は視線だけをくれるとふ、と笑いを零した。秘密よ、とでも言いたげに。
「色々あるのよ、あの子にも」
「ちぇ、映理ちゃんまでそれかよ」
やれやれと言った感の誠二に映理はそれ以上何も言わなかった。
とっくに知っている。梓が実家に帰らない理由など。
いや違う。実家に帰らないのではない。
寮に居たいのだ。
その理由を映理は思い浮かべると、誠二同様、やれやれといった困った表情をした。無理をしなければ良いのだが、とやはり心のどこかで案じながら。
「あーーー…あっちいなぁ…」
「…あんたそろそろ練習戻りなさいよ」
「そろそろ竹巳たちが買出しから帰ってくるかなー」
「聞いてんの?」
「三上先輩、ガリガリくん買って来てくれたかなー」
「聞けよ」
ごっという鈍い音は見事に誠二の後頭部から響いた音だった。
そうして渋々炎天下に戻る背中を見送りながら映理は文字通り熱い吐息を吐いた。
「…三上には期待できないけど。笠井、私の分もガリガリくん買って来てくれるかなぁ」
ぽつりと、誠二の考えがうつったような言葉を零す。彼の親友であり、自分の親友でもある同級生の笠井竹巳は映理に屈託無く笑いかける心優しい少年だ。そんな期待を淡く、してしまいながらも「グレープフルーツ味が良いなあ」と独り言を真っ青な空に投げかける。
しかしその真っ青な空は、それを打ち砕くような雷鳴をコート上に打ち落とした。
悲鳴が一瞬、上がる。
視線がコートの中央に集まり、知れず人波が寄る。
「医療班!」
「シップとスプレー持って来い!」
「氷氷!あとタオル!」
騒然となったのは最初の五分だけで、その五分後には不安げながらも落ち着いた空気が医療テントの中にはあった。
そして映理は今、一人の少年の治療に専念していた。
事の起こりは今からほんの数分前のこと。
空は相も変わらず真っ青で、燦々と降り注ぐ太陽は遠慮を知らないようだった。気温は上昇を続けもはや人の体温と同等のレベルであった。
そんな中でも彼らは歩みを止めることは無かった。足を止めずに、将来への夢へ希望へと向かうために、歩みを止めることは無かった。一心不乱にモノクロのボールを追いかけ、声を出し、たった一瞬の感動の為にと縦横無尽に走り回る。
だがその状況が一瞬の油断を見せていたのだ。
事故は、最中に起こった。
上昇を続ける気温は選手の水分を奪い、気力を奪っていく。いつもは出来るターンが出来ない。届くパスが届かない。はいるシュートが枠を外す。少しずつのブレが見え始めた頃に起きた、汗で滑った上での選手同士の接触事故。それは運の悪いことに二人ではなく、3人4人と巻き込み終いには団子状態になって陽炎上るコートに崩れ落ちた。
わあっと上がる声に映理は反射的に救急箱を片手に駆け寄り、選手たちの下へ。思った以上に熱く蒸されたコートに瞬間的に汗が噴出す。よくもまあこれだけの中で駆け回れるものだと、心のどこかで感心してしまう。
もつれ、倒れる選手たちに怪我はないかとコーチ陣マネージメント陣が一心に救護に当たる。映理も梓も暑さに感けてられるかとばかりに援護に当たった。幸い、流血や骨折といった事態はないということにほおっと胸を撫で下ろすが、今の衝撃で巻き込まれた選手たちは心根が折れてしまったらしく、暑さも合間っての気力の限界ということで緊急避難とばかりに医療テントに一時的に運び込まれた。
これは骨が折れそうだと映理が自分の仕事を覚悟した時、
「柾輝、大丈夫?足痛いの?」
梓の不安げな声が、聞こえた。
はっと黒髪を風に流し振り向くと梓はどこか慌てたように倒れたままに居る少年の傍らにしゃがみこんでいた。
少年は、左太腿を押さえ声こそ上げはしないものの脂汗を浮かべて苦悶の表情を浮かべていた。
「梓、どうしたの?」
「映理。どうしよ、柾輝が起きないよ」
割って入っていった映理に梓は不安げな声を上げて訴える。目の前には先ほど梓の友人だと紹介された黒川柾輝が居た。起きないと梓は言ったが、意識はある。この際は立ち上がれないという表現が適している。
(左太腿…)
不意に蘇る翼の「怪我予備軍」という言葉。先ほどコールドスプレーを求めてきた柾輝は、もしや元々この部位に不調を訴えていたのではないか。そして今の事故で完全に壊したのではないか。嫌な予感がざわりと映理の背を這う。
気づいたときには梓をどかして、必死に声をかけスプレーを使用していた。
「テント運ぶから、手伝って」
真剣な映理の眼差しに梓はこくりと一つ頷いた。
それから映理は柾輝の横についていた。
冷たいタオルとドリンク、スプレーにシップを傍らに置き、先ほどほどではないが苦悶の表情を浮かべる柾輝の治療に専念する。幸いといっていいのか、妙な腫れなどを起こすわけでないところからすると恐らく肉離れの部類に入るのだろう。ふと見た表情は段々に穏やかになってきており、早々の処置が功を奏したようだ。
大した事は無い、良かった。
ようやく肩の力を抜けたと感じる。こんな時、多少なりとも医療の心得があってよかった。それは心得と呼ぶには余りにも稚拙なもの。専門的に務めたわけでもない、ただただ基本的なスポーツ医学書を読み、諸先輩よりの伝術。ただ一つだけ言えるのは、その経験の豊富さなのかも知れない。
心をどうにか落ち着けることが出来た映理はフィールド上へと視線を移す。既にミニゲームは終了しており、現在はシュート練習に移項している。先ほど倒れた選手たちも簡単な治療でどうにかなったらしく、水分を与えると回復の兆しを見せた。もう大丈夫とは、映理の目にも明らか。
今、こうしてテントに居るのは事実柾輝と映理だけで。
一応の大事を取った方が良いとは映理の判断だった。常なら恐らくそのようなことは言わないだろう。だがしかし、先ほどの不調を見た矢先今送り出すのは危険だと、直感が告げた。そして監督の西園寺もその映理の真っ直ぐな瞳に緩やかな笑みを返すと「うちの柾輝をお願いね」と柔らかな声をかけた。そういえば彼女は飛葉中の監督でもあるのだと言うことを、その時になって思い出す。
「……なあ」
と、不意に飛びかけていた意識を引き戻したのは柔らかな、しかし張りのある低めの声だった。それが柾輝のものと気づくには一瞬遅かったのかもしれない。
映理は慌てて振り返ると、野生の獣のような鋭い視線が映理を真っ直ぐに見つめていた。その視線に何故か背筋が泡立つ。食われる、と動物の本能が働きそうなそんな視線が怖いほどに綺麗だったからかもしれない。
「これ、まだ動いたらダメか」
「ダメ」
「平気だって」
「ダメ。…多分、肉離れだから」
前にやっているだろうという質問に柾輝は押し黙った。その様子からするとそれは図星のようで。それ以来柾輝はあまり身じろぐことをしなくなった。一瞬だけその空間を熱風が撫でる気がする。
褐色の肌に伝う玉の汗と、体を冷やすために乗せられた氷嚢から滴る滴が彼の腕や足を伝った。その肌は恐らく熱を孕んで熱くなっているだろうに、どうしてかその光景はどこか涼しげだ。それは、その怖いほどの視線が見せる一種の氷のような快感からなのか。
時間がゆっくりと過ぎていく。だがその時間を映理は怖いとも、嫌だとも思うことは無かった。
余りにも自然体な空間。違和感と呼ぶには些細過ぎる。
ちらと垣間見た外見は変わることは無い。相変わらずな粗野な印象は受けるし、兄のような柔らかさは微塵も感じない。だがどうしてか、彼の放つ空気は嫌いではないと思った。
何故だかわからないけれど。
(…人間、見た目で判断したらいけないんだよね)
失礼なことをしたのかもしれないと反省をする辺りはさすがに育ちがいいのか。第一印象は確かに最悪で、既に見た目からもうだめだと心が諦めていた。だからこそ梓の友達にしては世界が違いすぎるとも思ったし、自分の世界と交わることは無いと思った。
だが、よくよく、今になり思う。梓が友達になれたのだ。そして、梓と自分は親友だと、映理は思いなおす。何かしら、何かしらあっての関係でと。一人黙々と世界に篭った。映理は気づいていないかもしれないが、その世界に篭っている間も、柾輝はその世界を邪魔することは無かった。
その世界が終了するまで何分経ったのかわからない。結論が出る世界でもなく、結局のところそれは柾輝の回復の時間を与えたに過ぎないことを映理は気づかない。
そしてその間、柾輝が映理の、世界に入り込む横顔を見ていたことも映理は気づかない。
「なあ、動いたらダメか?」
また繰り返される二度目の質問。
映理は「あ」と小さく声を上げるとそろそろと側に近寄った。まるで虎に近づく猫。
そおっと氷嚢とタオルを剥がし、再度冷却スプレーを患部に吹きかける。赤みも腫れも無い。妙に釣れた具合も無い。痛みがあるかと問うと、柾輝は一言否定の言の葉を繰り出しただけ。
「立てる?」
促すと柾輝は何てことは無いとばかりに立ち上がり、その場で軽く跳ねステップをして見せた。平気だ、と少しだけ声を柔らかくされれば安心の笑みが零れた。
「無理しなければ大丈夫。…って言っても無理するかもしれないけど」
「しねーよ。今日ばっかりは足のが大事だし」
そうは言われてもやや信用がならないが、この手の輩には何を言っても無駄だと言うことくらい映理は身に沁みている。だからもう忠告しか出来ない。並ぶと、見上げる背丈。獣のような鋭い視線にはもう食われることは無いんじゃないかと、思いつつも若干の警戒心を抱く。だが、この時ばかりは優位に立たなければならないとわかっているから。
「いい?違和感覚えたらすぐココに来て」
「ああ」
「無理したらダメ」
「はいはい」
「それと。梓にもお礼言って」
「それは嫌だ」
最後の言葉にがっくりと肩を落としつつも、先ほどのあのないがしろっぷりを思い出すと致し方ないことなのかもしれないとさえ思ってしまう。知らず知らずのうちの溜息をついていると、テントの外から声がかかった。呼ばれている。ああ、と踵を返してその場を去ろうとしたとき、
(え…)
褐色の熱い手が、映理の腕をしっかと掴んでいた。
先ほどは余り意識しなかったが、それは想像よりも大きな手だと感じた。
そして、ずっとずっと熱い手だった。
また掴まれたと思った矢先にかち合う視線。一瞬だけ綻ぶ目元に不意に吸い込まれた。綺麗なほどに鋭い視線。食われるんじゃない、吸い込まれるんだと、思い込んでしまうような黒曜石よりももっと鮮やかに黒い瞳。
「サンキュ、――-映理」
低く静かに響く声は映理の名を確かに紡いだ。
突然のことに足を止めて口を閉ざした映理に柾輝は首を傾げる寸前のような、疑問符を示した仕草を僅かに見せる。
「…マネジって、呼ばないのね」
「お前映理って言うんだろ?」
さっき聞いたし。
ぽつんと付け足された柾輝の言葉に映理は思わず噴き出しそうになった。興味のなさそうにしていたくせに、律儀にこの男は聞いていたのかと思うと何と無しにおかしくなって自然と緩む。何が何だかわからないと、そんな顔をした柾輝には更にくつくつと声を上げそうになって、止めた。
不躾な奴だと思う。今日会ったばかりで、会話らしい会話をしていない人間へのこの態度。常の映理なら恐らく眉間に皺を寄せていた。だが、何故かこの時ばかりはおかしくておかしくてといった表情で思わず口元をゆるめてしまったのだ。たった一言の名を覚えていたのもおかしいが、何より、自分の世界に入っていたときの考えを崩すような表情を見せたことがおかしくてたまらなかった。
ふ、と声をあげそうになり堪え、映理は視線を上げると、
「どういたしまして」
真っ青な空に溶けそうな鮮やかな笑みを零した。
瞬間、呆けたような表情を見せた柾輝の手は緩めらえれ、解け、滑るように離た。
映理は「あ」と声を上げるとそのままの滑るような流れのままたん、と足を一歩踏み出した。「じゃあね」と軽く声をかけ、黒髪を翻してテントを去っていった。
蝉の声が柾輝の耳を穿つ。
映理がこのテントを去ったのは、ほんの数瞬前のことだった。
その間、何度熱風が体を撫で付けたことかわからないが、じんわりと残るのは映理に触れていた右腕の感覚。
何故掴んだのかは知れない。
何故再び掴んだのかわはわからない。
だがどうしてか、腕を伸ばさないといけないと、思ってしまったのだ。
そうしてその手でくしゃりと汗ばんだ髪を撫ぜると「柾輝」と、楽しげにかかる声。梓だ。
「何だ、お前か」
「何だはなくない?折角水持ってきてやったのに」
ほら、とドリンクを渡すと勢いよく褐色の喉がそれを飲み干す。一瞬息を置いて返したそのボトルが空だったことに梓は安心と関心の笑みを投げかけた。
「ね」
そして、次の声音はいたずら小悪魔の響きを含む。
「見てたんだけどさ……珍しいんじゃない?」
「何がだ?」
互いの目を見ない会話は慣れたものだ。横に並んで、前を走る豊かな黒髪の後姿を二人は一点見つめている。その視線の中に若干の眩しさを覚えながら。
何が、の問いに梓はそれ以上質問を投げかけながった。その代わりにひょいと前に回りこみ、下から柾輝を覗き込む。にやあと世にも楽しそうな笑みが何を示唆しているのかくらい柾輝にもわかる。が、それを敢えて指図する気にはならない。
「惚れんなよ?」
くすりと、嫌な笑いだと柾輝は思った。
だから一回り以上小さい背丈の茶色い頭をぐしゃぐしゃと混ぜながら、余裕綽々と言った表情で「バーカ」と一言言ってのけた。その瞳はまだまだ梓の点滅する光になど屈しないと言わんばかり。終いには鼻で笑うと言った小技も忘れない辺りが、ある種よく友達関係を築けているという証だった。
梓はそんな柾輝にむうと一つむくれると、次いで呼ばれた声にテントを飛び出した。大きく柾輝に手を振ることも忘れないが、柾輝がそれを返すことは無く「早く行け」と罵倒を浴びせるだけだった。
一瞬、振られた手に返そうかとしていたらしいのは、ややと上がった腕で気づいていた。
どうやら浮かれているようだとは自覚していた。そうして、その手をじっと見つめて、
「…もう遅ぇよ」
人知れず、きゅ、と右手を握りこむ。
My "Special"
都選抜には強烈なシスコンが二人存在する。
その事実を目の当たりにした時に選手達が受けたショックというものは計り知れないものがあった。この際メンバーの兄弟関係は気にならない、がソレが常軌を逸脱したとしか言い様がない場合はもはや反応に困るという可愛らしいレベルでの動揺ではないのだ。それが最も大人だと認識されている人物ならばなおさらである。
何時の間にか姿を消した妹に今更慌てふためく『渋沢キャプテン』、そして妹によこしまな感情を寄せようとしていた相手を撲滅し、やっとミニゲームへと戻った『ボランチ若菜』
世も末か。
彼らにできることは自分の中で小さく呟き見なかった振りを決め込むことだった。
そんな兄たちの妹の片割れは先ほどの事件などなかったかのように穏やかな微笑を浮かべてミニゲームを眺めていた。元来あまりあわただしい性格というわけではないのか、鳴海のちょっかいにも特に動じた様子はまるで見えず、そして行き過ぎたシスコンと嘆かれる兄にも別段気にした様子もなく手にしたボードにメモを書き取っていく。
仕事の一貫としてのデータ整理、梓はその仕事が嫌いではない。むしろ好きな部類だ。
彼女自身幼い頃から双子の兄と一緒にサッカーをやったり見に行ったりしていたためか、もともとサッカーは好きなスポーツだ。結人がジュニアユースに入ってからというもの一緒にプレイをする機会こそ少なくなったが、梓自身もフットサルを通じてプレイは続けているわけであり、今では翼や柾輝たちとチームを組んでできる程度の実力も持っている。無論、東京都選抜に選ばれるほどのギ力を持っている彼らと比べれば自分はまだまだだということを最も理解している、が結局楽しんだもん勝ちというのは梓の信条でもある。
そんなこともあってか試合を見ているのも好きだ。特にレベルが高い中学生の試合では自分ではできないような技も飛び出るだけでなく、その年齢特有の急激な成長というものを目に見て取れるのがまた嬉しかったりする。
「ふーん…結人、筋力ついたんだ。あの大きい人と競り負けてない。」
ぺらぺらと手元の資料をめくる。事前に監督に貰っていた選手の資料は非常に詳細で、最初は他校のマネージャーにこんなものを与えてしまってもいいのかと思ったほどだ。しかも新たな情報があれば書き込むようにという指示はかなり異質なものといえる。
監督が女性だからなのか、それとも自分達がよほど信頼されているのか。それを計ることはできないけれども、梓にとっては楽しい仕事だということは変わりない。
一方、相方は雑用を片付けてくるという一言だけでコートを去ってしまったが、コーチベンチの近くにしゃがみこんでいるオレンジ頭の巨体の姿にその気持ちも分からなくはないなと苦笑を洩らすしかない。親友の目から見ても『箱入娘』のタイプだ、鳴海のようなタイプが苦手なのも理解ができるのだが、彼女の場合結局のところ男子という存在そのものを遠ざける傾向があるのも叉事実。
「ま、今日を境に変わってくれないかななんて期待しちゃってるわけですけどっ。」
何せ有望株は多いもの、なんて。
梓は人知れず楽しげな笑い声を上げながら、またその視線をミニゲームへと集中させた。
―――まったく、変わらないな。
なんて。
正直自分でも柄じゃないかもしれないと思ってしまうのは気恥ずかしさから来るもの。
梓は英士にとっていわゆる幼馴染という関係にあたる。いや、実際には幼馴染というには若干付き合いは短いと感じることもある、何せ初めての出会いは小学校中学年の頃、ユースで知り合った結人の家に招かれていったら同じ顔がもう一人現れた頃だったと考えると一般的な『幼馴染』の解釈は当てはまらないのかもしれない。
けれど自分は彼女の幼少時代を知っていることをおもえばやはり幼馴染であることには違いないとその場は納得することにした。
小学生の頃は結人と梓は双子という言葉を体現するように今以上にそっくりだったと記憶している。ふっくらとした頬、小柄な体躯、あの頃はまだ男女の違いなんて些末なことだったのだから仕方ないかもしれないが―――その兄妹は中学校に上がり二つのまったく違う個性として成長をし始めた。
身長も伸び始め、同時にがっしりとした筋肉が体を覆いはじめた結人。昔から大食らいではあったがここ数年は特に大食漢に磨きをかけ、その栄養がどこへいっているのか非常に分かりやすい形で成長を続けている。
一方、妹の梓は気づけば自分は見下すほどの身長で止まり、体はあの頃の柔らかな曲線を描いたまま。ヒマワリを想像させるような笑顔だって、あの頃から変わってない。
(俺らが、変わってるのかもな。)
第二次性徴が始まれば男と女の体は大きく変わってくる。硬く大きくなる男に、柔らかく穏やかになる女。
三人の中で最も女心を理解していない一馬に言わせるならば梓は小学生から変わっていないという。確かに身長も伸びていないしまだ大人びているとは程遠い童顔も変わっていない、きっと呼びかければあのときと同じ笑顔を向けてくる。
けれど。
「あ、英士!!」
やっぱり違うと思うのは、自分が一馬と違うためのかと心が一瞬疑問符を浮かべて。
「精が出るね梓。」
「ん?うんっ、やっぱ試合って見てて面白いからね~。」
ふわりと彼女の茶色い髪が笑い声とともに踊る。若菜家は遺伝的に色素が薄いのか、結人と違い染髪をしていないはずの梓の髪も兄同様随分と茶色い。しかし兄妹だけあって結人と同じ軽い髪質の髪の毛、なのにその揺れるシルエットはまるで違うもののように見える。
楽しげに笑う横顔はまだまだ子供らしい輪郭を描いているが、それは小学校の時の記憶とは不思議とダブルことはない。
けれど、その子犬のような大きな瞳や、その奥に見える光はまるで変わっておらず、記憶の中の彼女の笑顔と同じもの、彼女が寮に入ってからというものめっきり会う機会も減ってしまったがそれだけは変わらずにそこにあった。
「…よかった、変わってなくて。」
「えー、何それ―!私がお子様のままってこと?」
ぷくぅと頬なんか膨らませて。初めて会った頃からその仕草は英士のお気に入りだ、本当に怒っているわけではないことは一目瞭然だけれども綿でも入っているのかと思うほどの頬をもっと膨らませて、つい指でつつきたくなってしまう。
「いや、悪い意味じゃないって。ほら。梓家のほう全然戻ってこないし。」
「あー…部活とか、色々あって中々ね。そういう英士だって忙しいじゃん。家だって近所ってわけじゃないし」
「でも俺結構結人んとこ遊びに行ってるけど?」
正直に言ってしまえば、彼女が変わってないことに英士は安堵していた。
成長期である彼らにとっては数ヶ月という期間は短いものではない、特にそれが女子にとってはそうだとわかるのは英士自身姉がいることもあるが、クラスメートの女子たちを見ていても思うほどなのだ、暫く会わない相手ならば次に会ったときにはイメージが変わっていたなんてざらにあること。
結人、梓、一馬、そして自分。
それが自分にとってどれだけ特別なのか、他とは違うということを英士は他の誰よりも理解していると自認している。飽和する情報、右から左へと流れていく流行、意味も中身もないニヒリズムが充満する大都市東京の中では変わらないことのほうが難しいということはユースのチームメイトを見ていても嫌というほど理解している。
けれどその中で変わらない者があるとするならば、それは彼らとの絆。
そうでありたいと思っているのは何も自分だけではないと確信しながらも、その思いが誰よりも強いこともまた分かっていた。
(…こんなこといったらあいつ等はヒクだろうけど)
自分は生粋の日本人というわけではない、濃密な韓国人の血がこれまでいつだって他と自分を区別してきた。
けれど、あいつらだけは。
そんな中で『彼女』はさらに特別だ。
奔放で自由で落ち着きがなくて――――そして誰よりも穏やかな、小さな女の子。
結人の双子の妹ということも手伝い遊ぶ時は男女の境目もなくもみくちゃになって遊んだ、雪だまをぶつける時も誰も手加減なんてしなかったし、喧嘩の時も全力でした。それが子供なりの礼儀だったから。
だけれどもどこかしらで彼女はやはり『女の子』で、自分とは違う。もっと脆くて、もっと不安定で。
尤も、精神の面だけでのみ言うならば女のほうが男など足元にも及ばないほどに強い、それは梓にも言えることで幼馴染の4人組の中では彼女に口論で勝てる人間は存在せず、不名誉な泣き虫隊長はむしろ一馬に与えられた二つ名である。
けれど、男と違い簡単に壊れてもしまう。
だから何時の間にか彼女を『女の子』として扱った。
「英士はミニゲーム次?」
「そ。梓んとこのキャプテンとかと一緒。」
「渋沢キャプテンとかー!あ、あと水野君とかも出るんでしょ?英士負けてらんないね!」
梓は、人の心を読むのが上手い。 というよりも当たり前のように相手の感情を救い上げる。それはもはや本能に近いことであり誰にでも可能なことというわけではない。――現にもう一人のマネージャーのほうは英士の個人的感想から言うのであればそれを著しく苦手としていそうだと思えたくらいだ。
相手がそのとき何を言って欲しいか、どんな言葉が必要か、瞬時に見極めることが彼女は昔から上手かった。ナイーブで気持ちの浮き沈みが激しい一馬を筆頭に英士も何度その言葉に助けられたか分からない。
故に、『特別』
そして、何よりも『変わって』ほしくなったものが其処にあった。
「俺が負けるわけないでしょ。」
「あはは、さっすが英士!」
けらけらと梓が楽しげに笑えば、彼もまた自然と笑顔が浮かんだ。
彼女は特別だ、自分にとってだけじゃない、結人と、そしてきっと一馬にとっても。それは恋愛対象などといった狭い枠じゃなくてもっと広く其処が見えない感情で、きっと一つの塊として存在する故の安心感。誰が欠けてもきっとどこかがほころびてしまうという危うさを持ちながらも互いを支えあう形での自立。
狭い枠に閉じこもっているといわれても構わない、それだけ英士にとってはこの関係が心地よいもの。
どこかで彼女に『恋』をしてはいけない、そう言い聞かせている自分も勿論否定は出来ない。自分は男で彼女は女なのだ、どこかしらで意識してしまうのは動物としての本能に近い。それに事実彼女は可愛い。意識しないほうが難しい。
事実昔ほのかな思いを寄せていたこともあった。結人や一馬どころか、きっと誰も知らない幼い片思いは気づいた頃には磨耗して消えてなくなり、その後に残ったのは大人になっていく彼女を見守りたいという温かい気持ちだけ。尤も、磨耗したと表現するのは違うのかもしれない。結人に対する後ろめたさ、仲間達に対する裏切り、そんな感情がきっとあったから。
だからなのか、自分はきっと結人に負けていないほどに彼女に対しては過保護である自覚はある。いや、結人を越えるシスコンぷリを発揮するのも難しいことなのだが、彼女を大切に思う気持ちでは間違いなく負けていない。
彼女は、『特別』だから。
「でも英士、正確性昔より格段にあがってるもんね。そんじょそこらの子じゃ叶わないでしょ?」
梓の言葉に英士はおもわず「え?」と小さく声をあげた。梓に最後に会ったのはいつのことだったか思い出すのも難しい、確か春休みが終わる頃だったと記憶しているがそれだけ長い期間会っていないのだ。そして加えてサッカーについては彼女が自分のサッカーを見るのは今日はどれだけ久しいのか。だというのにその言葉。
英士のそんな視線に気づいたのか、彼女はひょいと手元に寄せたボードを挙げてみせて。
「私、マネージャーだから。」
「…ああ。」
分厚い紙束にはざっと見ただけでもおびただしい量の数字が並んでいる。顔写真がついていることもあり分かりやすく編集されているけれども、それに目を通すだけで大変そうな量だ。
武蔵森は都大会常連校だ、先ほどの鳴海とのやりとりは英士も目に留めていたが、彼女は武蔵森野マネージャーとしてもかなりの量の選手のデータを頭に入れているのだろう。言ってしまえばデータなぞ見なくても都内の有力選手達が集まる都選抜の選手の情報など分かっている可能性はある。しかし英士はユースに参加している関係もあり学校の部活には所属していない。つまりその膨大な紙束を見なければ分からないことだ、それをこなしたのかと思えば幼馴染とは言えども感心してしまう。
「んー、ほら、私選手とか知るの好きだし。」
「武蔵森の教育方針?」
「ううん、映理なんかは嫌いだよ、データ見るの。」
あの子医療系だから、得意なのと付け足しながらも梓の手は紙束をめくり、目的のページへとたどり着くとさらさらとなにやら鉛筆を走らせる。なるほど、知るのが好きというだけあり彼女の観察眼は確かなものだ。加えられるデータもまったく知識がないものの加筆ではなく、理論に叶ったもの。
「つめの垢煎じて結人に飲ませてやりたいね。」
「無理無理、結人データわかってても前出ちゃう子だもん。」
ぴーっと試合終了のホイッスルが鳴り響く。ミニゲームで失点を許したと結人がぷりぷりという擬音が聞こえそうな様子で此方に戻ってくると同時に良く通る女性の声が英士の名を呼ぶ。
「じゃ、俺いくから。」
「うん!!頑張ってね、英士!」
彼女は、特別。
それがどんな種の特別なのか、英士は気づかぬ振りをしながら『大切な幼馴染:』に向かって小さく手をあげた。