■近世までのキリスト教の歴史
紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、それを批判し、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かの弾圧を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。ただし教会歴史学者の多くは、第1回から第3回までを「異端の糾弾」として捉えて、第4回と第5回のみを「分裂」としてみている。しかしこの捉え方は、中世以降に多数派となったカトリックや正教会が自己の正統性を主張する観点に立ったもので、わずかな信徒数を残すのみとなったネストリウス派ならびに単性論教会、そして完全に消滅したアリウス派を「異端」として一方的に蔑視しており、中立的な歴史観ではない。
■アリウス派とアタナシウス派
最初(1回目)の分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂である。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神(イザヤ書43章10節)として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかった。しかし、西暦325年の第1ニカイア公会議で三位一体論に基づいたアタナシウス派の聖子キリストの両性(神性・人性)が正統教義とされ、アリウス派は異端とされた。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったため、今日ではアリウス派の教会・信徒は、もはや消滅している。
■ネストリウス派
2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の離脱である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。431年のエフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国(景教)にも伝道した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。
■非カルケドン派(単性論教会)
3回目の分裂は、東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされた。但し、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなす事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。とはいえ東方教会は国家と宗教が結びついたローマ・カトリックと異なり、東ローマ帝国に対しては自立的な態度を保っていた。分裂が発生したのはこうした非国家的態度である修道意識の産物であり、東ローマ帝国の弱体化と直接に結びつけられるわけではない。現在、非カルケドン派諸教会にはアルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会等がある。
■東西教会の分裂
4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教が相互破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強い。但し、1054年の「相互破門」は20世紀になって両教会から相互に解かれているが、分裂の解消にまでは至っていない。
■カトリックとプロテスタント(宗教改革)
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、非カルケドン派であるエジプトのコプト正教会・その姉妹教会エチオピア正教会・シリアのシリア正教会(ヤコブ派)・コーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。
■キリスト教発展の理由
ユダヤ教内の一分派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度対応していった。
まず、『使徒言行録』の中にも描かれているように、キリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部にいる異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。
当時のヘレニズム・ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、プリュギア起源のアッティス教、ペルシア起源のミトラ教、あるいはギリシア起源のディオニュソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。
キリスト教はローマ人の多神教を批判したことや皇帝崇拝を拒否したことなどから弾圧を受けたが、こうした競合宗教から抜きん出て国教化される。これについては、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることに成功したからだと説明されている(ただしキリスト教の立場からの護教論的説明であることに注意)。また、著書「ガリラヤ人どもを駁す」でキリスト教を批判し、キリスト教の特権を破棄したことで有名なユリアヌス帝も、キリスト教徒は救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている。
西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)に関与し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。
東方においては、キリスト教は中東・アフリカではイスラームに押されて衰退したものの、東ローマ帝国内では正教会が修道院を西方より早く発展させ、修道院は奉神礼を整備・発展させた。また古典文化もマケドニア朝ルネサンス・パレオロゴス朝ルネサンスにみられるように保存され、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。
近代になると、西欧諸国はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの各地を侵略して植民地化を推進し、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事支配力や科学技術力、その他を背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が政教両面での支配が図られた。しかしながら、イスラム教や仏教、ヒンドゥー教など高度に体系化された宗教が浸透していた地域では、キリスト教への改宗は小規模にとどまることが殆どだった。
紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、それを批判し、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かの弾圧を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。ただし教会歴史学者の多くは、第1回から第3回までを「異端の糾弾」として捉えて、第4回と第5回のみを「分裂」としてみている。しかしこの捉え方は、中世以降に多数派となったカトリックや正教会が自己の正統性を主張する観点に立ったもので、わずかな信徒数を残すのみとなったネストリウス派ならびに単性論教会、そして完全に消滅したアリウス派を「異端」として一方的に蔑視しており、中立的な歴史観ではない。
■アリウス派とアタナシウス派
最初(1回目)の分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂である。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神(イザヤ書43章10節)として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかった。しかし、西暦325年の第1ニカイア公会議で三位一体論に基づいたアタナシウス派の聖子キリストの両性(神性・人性)が正統教義とされ、アリウス派は異端とされた。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったため、今日ではアリウス派の教会・信徒は、もはや消滅している。
■ネストリウス派
2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の離脱である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。431年のエフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国(景教)にも伝道した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。
■非カルケドン派(単性論教会)
3回目の分裂は、東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされた。但し、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなす事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。とはいえ東方教会は国家と宗教が結びついたローマ・カトリックと異なり、東ローマ帝国に対しては自立的な態度を保っていた。分裂が発生したのはこうした非国家的態度である修道意識の産物であり、東ローマ帝国の弱体化と直接に結びつけられるわけではない。現在、非カルケドン派諸教会にはアルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会等がある。
■東西教会の分裂
4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教が相互破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強い。但し、1054年の「相互破門」は20世紀になって両教会から相互に解かれているが、分裂の解消にまでは至っていない。
■カトリックとプロテスタント(宗教改革)
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、非カルケドン派であるエジプトのコプト正教会・その姉妹教会エチオピア正教会・シリアのシリア正教会(ヤコブ派)・コーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。
■キリスト教発展の理由
ユダヤ教内の一分派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度対応していった。
まず、『使徒言行録』の中にも描かれているように、キリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部にいる異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。
当時のヘレニズム・ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、プリュギア起源のアッティス教、ペルシア起源のミトラ教、あるいはギリシア起源のディオニュソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。
キリスト教はローマ人の多神教を批判したことや皇帝崇拝を拒否したことなどから弾圧を受けたが、こうした競合宗教から抜きん出て国教化される。これについては、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることに成功したからだと説明されている(ただしキリスト教の立場からの護教論的説明であることに注意)。また、著書「ガリラヤ人どもを駁す」でキリスト教を批判し、キリスト教の特権を破棄したことで有名なユリアヌス帝も、キリスト教徒は救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている。
西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)に関与し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。
東方においては、キリスト教は中東・アフリカではイスラームに押されて衰退したものの、東ローマ帝国内では正教会が修道院を西方より早く発展させ、修道院は奉神礼を整備・発展させた。また古典文化もマケドニア朝ルネサンス・パレオロゴス朝ルネサンスにみられるように保存され、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。
近代になると、西欧諸国はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの各地を侵略して植民地化を推進し、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事支配力や科学技術力、その他を背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が政教両面での支配が図られた。しかしながら、イスラム教や仏教、ヒンドゥー教など高度に体系化された宗教が浸透していた地域では、キリスト教への改宗は小規模にとどまることが殆どだった。