かつてモーゼがシナイ山から十戒の石版を持って戻ったとき、民たちは「金の牛」を飾って、飲めや歌えやのらんちき騒ぎだった言い伝えは、多くの方がご存知かと思います。

今年は伊勢神宮の式年遷宮の年でもあり、何かと、アークだ、三種の神器だという話題をあちこちで見かけます。

私は、そもそも「道具」とは、使ってナンボと思います。

お金も、家も、楽器も、調理道具も、車も、立派な本も。。。。生きるも死ぬも、すべて使い手によると思います。

誰かが所有したり、飾っておくだったり、あるいは盗んだり、挙げ句の果てには隠してしまったり、そんなだったら最初から持っていない方が、心配の種がないのではないかとさえ思います。


モーゼは、どうして金の牛を拝む者たちに絶望したのでしょうか。

十戒は、神、あるいは天の叡智そのものでした。

人々は、叡智ではなく、偶像を拝みました。

叡智は、どこで使うでしょうか?

それは、人々の内なる世界で磨かれ、使われ、日常に反映されていくと思います。

自分には持ち得ないものでどうしても必要なものは、互いに与えあい、助け合えばよいのではないでしょうか。

私にとって剣は、皆がそぞれぞれに持っている内なる光の矢そのものだと思います。

私も、その光の矢は、最初、闇、悪の真綿にくるまれていました。

それは永い歳月の間に、自らまとってしまったこころの闇でした。

少しずつ、少しずつ乗り越え、光の剣を探し出して行きました。

もちろん、背後には見えざるたくさんのサポートもありました。

光の時代に入る時、なにものにも破壊され得ないもの、叡智を内なる世界に取り戻すことがどうしても大事なような気がしてなりません。


私はマカバの設計のときに、三種の神器の、

剣は中心の光源から発する光のビーム(純粋意識)、

鏡は光源のビームを反射させる外核(神の放射性原理)、

そして勾玉は光源そのものと情報を得ています。



まさに「この身ひとつ」です。

さしずめ、アークはボディと言ったところでしょうか、だからボディも大事にしないといけないんですね。


つまり三種の神器とは、光の時代に生きる者たちの光の仕組みそのものではないかと受け取っています。

そうそう、それを簡単に表したのが、○描いて、チョン、のあれですね。

○は、円ではなく、珠なんですけどね。



今さらなんですが、私は右でも左でもありませんので。

また、この辺をご専門に調査、研究されている著名な方々の努力は、多次元世界の三次元のアンカーとして動いているのでしょうか。


S-aeko