書き出し


普段から愛用しているnote以外の媒体でこうしてブログのようなものを書くのは、もしかしたらこれが最後かもしれないし、もしかしたらこれが最後じゃないかもしれないけれど、ただひとつ最初であることは確かだ。


もうぐちゃぐちゃになった思考の溜まり場に、いつもみたいに新たな思考を蓄積するでも良かったけれど、どうしてもこれをひとつめにしたくなったから、ここに書いてみることにした。


まだ書き始めだから未来が見えていないけれど、きっと長ーーいブログになることだろう。何日かかけて完成させることだろう。


上手に整理出来ていないかもしれないけれど、レモン汁みたいに、思考を搾り取っていきたい所存だ。


証人欲求

突然だが私は、性善説の証人になりたい。


もしも地球で誰かと2人になっても、私1人になっても、性善説の証人でいたい。


世界の果てまで(イッテQ)、善い人でいたい。


誰かが世界を諦めそうになったとき、いつかの私との思い出を思い出して、「世界も案外悪くない」と思ってもらえたらいい。


私は、みんなに笑っていて欲しい。


青空のせいじゃない

私の23年間は、諦めの連続だった。


自分にも周りにも期待していなかったから、怒った記憶はほぼなかった。


主に母親の、言うとおりに大人になった。


時を戻そう。



幼少期

どんな子だったかなんて覚えてはいないけれど、写真を見返すと我ながら可愛い子供だった。

七五三の時にスカウトされたぐらいには可愛かった。(過去形(大事))

強いて言うなら人見知りだったかな。

人見知りだったから親戚の前ですらまともに話せなかったけれど、5歳になって何か習い事をやりなさいと言われ、バレエや水泳なども見に行ったけれど最終的に私はピアノを習いたいと言った。

母のママ友の紹介で、とっても優しい素敵な先生に恵まれ、ピアノはこの後17年間も続けることになった。


小学生

1年生のとき、左利きの私が右手を使えるようになるようにと、母に言われて習字を習い始めた。


利き手じゃない方の手で書いているから、思うように出来ないし、周りの人より上手になるのも遅くてあまり好きにはなれなかった。


けれど辞めたいと言い出すタイミングもなくて、結局大学受験前まで続けた。


小学校に入ると、進研ゼミだったり母が買ってきた問題集だったりが私の学習机にびっしりと並べられるようになった。


その日に何を何ページ進めるかが1ヶ月分書かれたカレンダーが毎月渡され、遅れると週末や月末に泣きながら終わるまでやることになり、すごくすごく苦痛だったけれど、やるしかなかった。


だから、勉強はできる方だった。


算数の授業は一番乗りで先生のところにプリントを持って行っていたし、大体のテストは100点だった。小4の頃には中学の問題も少しできるようになっていた。


ついこの間母から聞いたのだけれど、ある日私がテストが100点じゃなかったと泣きながら報告してきたので母が確認したところ、答えはあっているのにその時習った解き方ではなかったからと先生がバツをつけていたということがあったらしい。その時は母が学校に連絡したので後日私のテストは100点になったそうだ。


きっと、テストが100点じゃなかったことが悔しかったんじゃなく、100点じゃないテストを母に見せることが怖かったのだろうということは安易に想像できる。


高学年になると、母が出かけている隙を狙って課されている問題集の答えを盗み見るようになった。


とは言っても盗み見たことがバレないようにと解き方までちゃんと見ていたからか、不思議と身についていたみたいで学校の成績は全然落ちなかった。


部活は合唱部に入った。


最初は吹奏楽部に入ろうと思っていたけれど、ちょうど私の学年の部活が始まる年に廃部になってしまったので、合唱部を選んだ。


初めの方は顧問の先生が良い先生で、大会でも優秀な成績を収めていた。


しかし、私が6年生になった年に地域でも評判の良くなかった校長が私の学校に赴任し、部活動の時間が制限され、合唱指導の経験がなくピアノも得意とは言えない先生が顧問になった。


大会の成績はびっくりするくらいに落ちて、当時アルトパートのリーダーをしていた私は最後の大会を終えて引退をしてからもこのままでいいのだろうかという思いを抱えていた。


その思いは卒業式の1週間前になっても消えなくて、同じ合唱部で仲の良かった友人を誘い、どうか顧問の先生だけでも変えてくれないだろうかと校長先生に直談判した。


校長先生からは1週間待って欲しいと言われ、1週間後の卒業式の日、次年度から合唱部の顧問が変わることを告げられた。


その日の校長室の椅子の座り心地の良さは10年以上経った今でも忘れられずにいる。


ちなみに当時みんなが持っていた3DSは私は持っていなかった。


中学生

中学に入っても母は変わらなかった。


だから私も変わらなかった。


中学に入ると成績が順位という形で見えるようになった。


母はやらせたい勉強を私にやらせていたので定期テストの勉強はあまりできず、大体いつも学年で10位前後をウロウロしていた。


母がやらせたい勉強を私にやらせていたので模試系のテストは結構得意で、大体いつも学年で5位前後をウロウロしていた。


やらされている勉強ばかりで自らする努力が苦手だったので、努力勝負の理科や社会は苦手だった。


逆に国語や数学、英語は解き方ばっかり覚えていたので出来が良かった。


中学はいじめが多かった。


次は誰が標的なのかと常にみんながアンテナを張っているような状態だった。


しかしなんだか、いじめっ子たちは成績上位者たちには関わろうとせず、別にそれでいいのだけれどちょっとした疎外感も感じていたし、高校受験が見えてきた頃には仲良しの友達はみんな偏差値が真ん中ぐらいの同じ高校を目指していて、混ざれないことが寂しかった。


というか1年生の時からずっと、テストなどでの“できない話”に入りたいと思っていた。


母によって育てられた偽物の学力は私の肌には合わなくて、ちゃんと努力をして本物の学力を持っている人たちと話をするのはおこがましくて、どこの話の輪の中にいても居心地が悪かった。


部活は念願だった吹奏楽部に入った。


最初はトロンボーンを希望していたが、希望人数が募集人数を1人上回ってしまいオーディションになるということだったので自ら辞退してパーカッションになった。


コンクール強豪校とかではなくて、どこにでもある普通の吹奏楽部だったけれど、すごく楽しかった。


部活も楽しかったし、楽器も楽しかった。


色んな楽器をやることができて、自由度も高いパーカッションは常になにかに縛られながら生きてきた私をその時間だけ外に連れ出してくれるようで心地良かった。


中学生の時の出来事でいちばん印象に残っているのは合唱コンクールの伴奏だ。


ピアノを習っていた私は1年生から3年生までクラスの自由曲の伴奏を務めた。


1年生の時、そんなに良い伴奏をした自覚はなかったけれど何故か伴奏者賞をもらえた。


後々振り返ると多分私は2番目にピアノが上手だったからこの時伴奏者賞を貰えたのだと思う。


明らかに1番上手い人がいた。

同じ吹奏楽部で音楽一家に生まれた男子生徒。


誰が見ても彼が1番だった。


でも、3年間同じ人に賞を渡すのは学校教育としてあまりよろしくないから最初の年は2番目に上手かった私に賞が回ってきたのだと思う。


実際残りの2年は彼が伴奏者賞を受賞していた。


そのことに気付けていなかった中学生の私は伴奏者賞が彼の手に渡るたび、ちゃんと悔しがっていた。


けれど、そんな中にも私の心を動かしたものがあった。


中3の合唱コンクールの放課後、生徒を名前呼び捨てで呼ぶタイプの新任の数学教師が何気なく私に言った、「体全体でピアノを弾いているみたい」という言葉。


あまりにも何気ない一言だったからお世辞には聞こえなくて、私の演奏はそんなふうに届いているのかと素直に受け取ることができた。


他にも中3の時ののピアノの発表会では、見に来てくれた幼なじみのお母さんが私の演奏を聴いて涙が出たと伝えてくれた。


私には賞を取れるような技術はないかもしれないけれど何かほかにできることがあるのかもしれないと、そう思い始めた時期だった。


もうひとつ音楽の話でいうと、同じ時期にとあるアイドルグループに出会った。


最初に出会ったのはまだCDデビューする前で、お姉さんグループに混じってパフォーマンスしている姿。


当時アイドルといえばAKBという認識だった私にとって、“笑わないアイドル”という謳い文句は衝撃だった。


小さい頃から今まで、私は笑顔を作ることが苦手だ。

面白いことや嬉しいことがあればちゃんと笑えるけれど、写真を撮る時などに作る笑顔がどうもぎこちなかった。


そんな私にとって、“笑わないアイドル”は結構救いだった。とても脆そうなのに何故か壊れないパフォーマンスにすごく惹かれた。ちょっとずつ、歌番組に出ているとちゃんと観るようになった。


中学で仲の良かった友達の中に1人、彼女たちのファンをしている子がいた。その子にCDを貸してもらったり、冠番組があることを聞いたりして、少し走り方が変で底抜けの優しさを持った推しメンができた。


私は、“笑わないアイドル”は意外と笑うことを知った。そこにも惹かれた。


そろそろ勉強の話に戻ろうか。


中学3年生になった頃、人生で初めて塾に通った。


友達が塾で楽しそうに勉強しているのが羨ましくて、母に塾に行きたいと言った。


勉強のことなので、母は快く了承した。


塾の先生は、すごく私の味方だった。


三者面談をした際、もっと志望校を上げた方が良いのではと母が言ったけれど私には雰囲気が合わないと言って塾の先生が止めてくれた。


母に縛られずにする勉強は、別に好きではなかったけれど苦でもなかった。時々、楽しかった。

家に帰ると母が用意する勉強が待っているから、毎日閉館まで塾に居た。


そうして無事、元々志望していた高校に合格した。


ちなみに当時みんなが持っていたスマートフォンは私は持っていなかった。

高校生

高校は本当に楽しかった。


まずびっくりした。私の知っている範囲ではいじめがひとつもなかった。


3年間で同学年約320人の顔と名前を全員分覚えたし、気の合う友達がたくさんできた。


特に居心地の良かった集団は高1のクラスと吹奏楽部。


高1のクラスは高1のクラスとは思えないぐらい今でも仲がいい。今年に入って開催された同窓会の2次会も高1のクラスで行ったぐらいには仲がいい。

男子も女子も、それはそれは個性豊かな集団で、担任の先生には動物園と言われていた。


そんな高校1年生のとき、後の私の人生に大きく影響する出来事があった。


あるクラスメイトが授業中にプリントを落とした。しかし、そのクラスメイトはプリントを落としたことに気づいておらず、斜め後ろの席だった私は拾うか迷っていた。


静かな教室内でプリントを拾えば、拾った私も拾われたクラスメイトも注目を浴びることになる。私は善人ぶっていると思われるのではと考えてしまい、ずっと葛藤しながらも拾えないまま授業が終わってしまった。


結局そのクラスメイトは自分で気づいてプリントを拾った。


すごく些細な出来事なのに、私は気づいているのに何も出来なかった自分をずっと忘れることが出来なかった。


そして高校生の私はそんな自分に対して「気付かないふりをする」という解決策を提示した。


例えるならなんだろう、地球を遠くから見ることで地球全体を見ることは出来るけれど、そこに住んでいる一人一人のことは見えなくなるみたいな感じかな。


大きな目で周りを見ることで、些細な出来事に気付かないふりをすることにした。

そんな高校生の私は“平等な存在”で、クラスのお楽しみ会は企画係だったし、ビンゴの時はビンゴを回す人だったし、自分で言うのもあれだけど割とクラスの中心で楽しんでいるタイプだった。


それから勉強面では、赤点とかも取るようになった。母は相変わらず私に問題集を与え続けたけれど、例えば暗記科目など答えを見ているだけでは身につかない領域まで勉強のレベルが上がってきた。努力をする習慣がなかったから、社会理科系の科目は全部苦手だった。高一の頃は英単語とかも苦手だった。


最初の方は中学までの貯金で割と上位にいたけれど、努力を怠ったらすぐに成績は落ちて、クラスでの成績は半分よりちょっと下ぐらいで落ち着いた。この感覚がすごく心地よかった。できる人たちの話の中に入らなくていいし、できない人たちの話はすごく楽しくて居心地がいい。本来自分が居るべき場所にちゃんと居れている感覚だった。


先程少し触れたが部活は引き続き吹奏楽部に入った。


色んなことがあった。


コンクールの直前に顧問が飛んだり、コロナで最後の演奏会がなくなったりした。


それでも音楽で出会った仲間に悪い人はいなくて、今さらっと結構な大事を挙げた気がするんだけれどもそんなことがあってもなお誰1人腐らなかった吹奏楽部は、私の高校生活を何よりも彩った青色だった。


青春の話題で言うと、ちょっぴし恋愛もした。

高1のクラスのクラス長のことを好きになって、10ヶ月くらい告白した。

そうしたら向こうも好きだと言ってくれて、そのあと1年ぐらいお付き合いした。最後は私が部活ばっかり忙しくて、相手を大切にしきれないことが申し訳なくて私から友達に戻ろうと言った。


高2のとき、夢ができた。

たまたま新聞を見て応募したキャッチコピーの大きなコンクールで3万以上の応募の中から23人しか受賞できない賞をもらった。

もともと小学生の時から作文のコンクールなどでも賞をもらえることが多くて、言葉を考えることが得意なのかなと自分なりに思っていたから、大きい賞を貰えたことが嬉しくて、コピーライターになりたいと思うようになった。


高3になって、中学の時同様受験のために塾に通うことにした。

家から近くて、とりあえず有名だった東進ハイスクールに入った。


そこがまたすごい場所だった。

自分の担当になったチューターさんは、大学生のアルバイトとは思えないぐらい自分のために色々してくれた。沢山話を聞いてもらったし、質問にはわざわざスライドを作って答えてくれた。それが嬉しくて、私も頑張れた。


今まで全く努力をしてこなかったから、受験勉強の期間は私なりに結構大変だった。


机とも自分ともいっぱい向き合った。


最初は横浜にある国立の大学(モロバレ)の経営学部を目指していた。

併願で高田馬場にある私立の大学(モロバレ2)を目指していた。


最初は世界史受験で頑張ろうと思っていたけれど今まで努力をしてこなかったので周りに比べてあまりに点数が悪かった。そこで一度は得意だった数学を使おうと思ったけれど、数学では高田馬場大学が受験できないことに気づき、高3の6月ぐらいから政治経済の勉強を始めた。


当時コロナの休講の影響で高3で習う政治経済は大幅に授業進捗が遅れていたのでほとんど独学での勉強となった。


夏休みには1日15時間ぐらい勉強した。


けれど、独学で政治経済の勉強をしながら国語や英語、理科など国立大学を受験するための科目を勉強しきるには、あまりに努力の貯金が足りなかった。


このままでは一兎も得ることができなそうということで、10月ぐらいに横浜国立大学(言った)を諦めて私立の勉強に集中することにした。


そんな10月のある日のこと、丸2日受験勉強を中断して観たとある配信ライブがあった。


欅坂46のラストライブだ。


7月16日、ずっと陰ながら応援してきたグループが名前を変えることが発表された。


そのグループのラストライブが10月の12.13日に行われたのだ。


受験が終わったら真っ先にライブに申し込みたいと思っていたグループだったから、名前を変えると知ってもその先のグループのライブには絶対行きたいと思って、ファンをやめようとかは全く思わなかった。


それにしても最後まで欅坂46は私を魅了して、最初から櫻坂46は私を救った。


“鏡に映ったお前は誰だ?”


この言葉は内側の私を見つけてくれた気がした。


“勝手に絶望してるのは信念がないからだってもう気づけ”


私は、母親によって形成された何の信念もない、ちょっと勉強ができる自分が嫌いだった。

それなのに何かを諦めることになるたびいっちょ前にちょっぴり絶望する自分が本当に嫌いだった。


これからは自分で形成した自分で生きていたい、そう思えたことで努力に味がするようになった。


このことを教えてくれた櫻坂46に感謝が止まらなくて、いつか会える日を信じて頑張ることが出来た。


けれどそんな決意から2週間ほど経った忘れもしない11月1日。

私はそれまでの人生で一番の絶望を経験した。

今現在までで言うなら後でお話するもう一個の絶望が上回るので二番目の絶望だ。


たまたま、机の上に置いてあった母の日記が目に入った。


そこには私の将来に対する漠然とした不安が綴られていた。


そもそも母が所謂“教育ママ”になった経緯には、親族に高学歴が多いのにも関わらず、自分が大学を卒業していないから、一人娘である私までそのレールから外す訳にいかないというプライドがあったのだと私は推測している。


大学受験に失敗したとなれば、きっと母のプライドが傷つけられるのだ。


母の日記を見たことで、急に自分にはものすごい重い何かがのしかかっているように感じて、その日は勉強が全く手につかなかった。


けれど何日もそうしている訳にもいかないのでなんとかその日中に立ち直るために、まず私はコンビニで小さなメモ帳を買った。そこに、自分の脳内に溢れる言葉を思うがままに書いた。誰にも聞かれないように、文字で叫んだ。

それでもまだ心は辛いままだったので、いつもより1時間早く塾を出て、久しぶりにカラオケに行った。徹底的に、自分を刺すような曲を歌った。なんだか、画面に映った歌詞たちが隣にいてくれるような気がした。

今までずっと、ただコピーライターになりたいと思っていたけれど、私のように誰にも言えずに叫んでいる人たちを言葉で救える人になりたいと、作詞家という新しい夢が新しく加わった1日だった。


いつか私が救う人たちのためにも、私が1人でも多くの人を救えるようになるためにも、今頑張らないとという気持ちが私を立ち上がらせた。


それからは無邪気に、本当に無邪気に頑張って、でも結局高田馬場大学には受からなくて、明大前にある大学(モロバレ3)に行くことになった。


それでも受験が終わったあと気持ちはすごく晴れやかだった。


受けた中で唯一、学問としての音楽も学ぶことが出来る学部で、これは運命として受け入れることにした。


私が大学受験でいちばんに学んだことは、勉強の知識でも受験の知識でもなく、誰かのために頑張るとき、人は最も頑張れることだった。



大学生

大学生になってもしばらくはコロナの影響で大学に行ったり行かなかったりの日々が続いた。

そのおかげで1.2年のうちは友達もできなくて、思ったよりも大学は楽しくない場所だなと思った。

けれどバイトは楽しかった。

高校生の時にお世話になった東進ハイスクールでそのまま働くことになった。

誰かの人生の手助けをするのは、すごくすごく素敵な時間だった。時には勉強のことだけじゃなく、高校に行けなくなってしまった子が高校に行けるようになるような手助けまでした。

それこそ、塾という場所で働くということはたくさんの“誰かのために頑張る”瞬間で溢れていたから、ものすごく頑張ることができた。

コピーライターや作詞家になりたいという私の思いを知っていた社員さんが私にチラシ作りを任せてくれて、チラシに載せるキャッチコピーだけでなくデザインもするようになって、私はこうやって色や図形を組み合わせる作業も好きだなと思った。

今でも遊ぶぐらい大好きな同期にも出会えた。

私なりに楽しい時間だったけれど、高校生の時受験のストレスで色々体調を崩したのでその名残で1日に20錠近く薬を飲む生活が続いていて、そのことが理由で(特に影響はないのに)母から髪を染めることを禁じられていたので、大学生の集団の中では浮いた黒髪が嫌いだった。

それでもどうしても髪を染めたくて、何かがあっても自己責任でと母に頼み込んで大学3年生の時やっと初めて髪を染めることができた。普通に染めても何も起こらなかった。

けれど大学3年生にもなると、周りがシューカツを意識するようになってきて、逆に黒髪の割合が増えてきた。

数ヶ月してとりあえず黒髪に戻したし、結べるように髪を伸ばし始めたりもしたけれど、コピーライターになりたいと思っていた私は、普通にシューカツをして会社に就職するのはどこか違う気がしてならなかった。みんなが夏のインターンに行っているなか、インターンに申し込むことすらせずたくさんバイトをした。

けれど、秋頃にもなるとそうしてばっかりもいられなくて、カラオケの会社の1dayのインターンだけ行ってみた。コピーライターや作詞家になる方法を調べはしたけれど、確実になるには専門学校に行くのが良いと書かれていて、周りのみんなが大学受験をするからと、母が言うからと、私が適当に生きている間にコピーライターや作詞家になる人たちはもうその道へ踏み出していたことを知って、まず2つ夢を諦めてなんとなくシューカツをしてみることにした。

これまた母に言われてなるつもりもないのに履修していた教職課程の実習が6月に控えていたので、それまでに内定をもらわなければとたくさんの会社にエントリーしてみたけれど、そこで働きたいという信念があまりにも足りなくて、文章力だけはあるからエントリーシートは通るのに面接で落ちることが多かった。

そんな私にインターンで参加したところとは違うとあるカラオケの会社が内定をくれた。

私は音楽が好きで、人と関わることも好きで、教育実習も迫っていたのでその会社の内定を承諾することにした。

教育実習は、大好きな母校での実習だったうえ、1番仲良しの友達も一緒だったので楽しくもあったけれどとにかく辛かった。死にそうだった。あとは残りの大学生活を謳歌するだけだと晴れ晴れしながら、2週間の教育実習を終えて帰ってきた私に母は「就活はまだ続けるよね?」と言った。

言っている意味が分からなかった。

人件費の都合でシフトに入りにくくなっていた東進のバイトを辞め、沢山稼いで沢山遊ぶぞと意気込んで空港の和雑貨店のバイトを始めたばっかりだったのに。数ヶ月の地獄を終えてやっと開放されたと思っていたのに。

思ってもいなかった地獄はそれまでの地獄よりよっぽど地獄だった。

それからは私が遊びやバイトに行っている間にも軽く1日10件は会社の採用情報のURLが送られてきた。

知り合いとご飯を楽しく食べている時に何件も送られてくることが本当に嫌で、LINEを見ないでいたら何度無視しても鳴り止まないぐらい電話がかかってきたこともあった。

さらに就活をすることよりも、母からの連絡のストレスに耐えられなくなった私は諦めてもう一度就活をすることにした。

けれどもいつまでも引き伸ばすのもそれはそれでものすごいストレスなので、母から提案された中から労働条件が良さそうな数社を受ける代わりそれらの結果がどうなってもこれ以上就活はしないと宣言した。

大体8社ぐらい受けて、内定が出たのは4社、2つぐらいは嫌になって落ちたことにして途中でこっそり辞退した。

そしてこの間に1つだけ、実は自分の意思で受けていた会社があった。

高校生の時受賞したコンクールを運営していた広告系の会社だ。

その会社は業界の中でも特殊な唯一無二の立ち位置の会社で募集人数も少なかったので受からないだろうと思って受けた。

けれど気づいたら最終面接が決まっていた。

私は就職活動の中で、その会社の採用試験で初めて信念を持って努力することが出来た。

就活のために伸ばしていた髪をバッサリ切って、本来のボブヘアの私で最終面接に向かった。

最終面接は社長と1対1で話す時間もあって、業界に必要な考え方の話を聞きながら、やりたいという気持ちだけでここまで来てしまった自分にどんどん自信がなくなっていった。

けれども最後の最後、社長からの「この会社が大変になった時あなたは何が出来ますか?」という質問に対して、こんな時間もう二度と訪れないから後悔しないようにと定型文を捨てて、「どんな時も笑顔でいます」と答えた。就活でも笑顔を作ることに苦労してきた私が、だ。
社長は「ありがとうございます、今日の面接はこれで終わりです」とだけ言って私を帰した。

きっと落ちただろうと思ったけれど、最後の最後にやっと本当の自分で就職活動をすることが出来て、悔いはなかった。

きっと落ちただろうと思っていたから、数日後に内定の連絡がきて、ものすごく驚いた。

私の中ではそこ一択だった。

けれども、渋谷の本社に毎日通うには一人暮らしの必要があり、母が渋った。
母が勧めた会社と比較してそちらの方が良く見える表だったり、私が行きたかった方の会社の悪い口コミが書かれた紙だったりを渡された。

どっちの道も想像した。

自分が行きたい会社は業界柄大変なことはちゃんと分かっていたし覚悟の上でエントリーした。大変だろうけどワクワクした。
母が進めた会社は労働条件で絞ったから私が行きたい会社よりもキツいということはないだろうが、何度考えてもワクワクはしなかった。

人生で初めてぐらいに、大泣きしながらちゃんと思ったことをこのとおりに母に言った。

すると母は自分もどうしたらいいか分からないと困った顔をした。

それで結局、自暴自棄になって全部どうでもよくなって母が勧めた会社に行くことにした。

母はほっとしたような顔をした。

一番の味方でいなければいけなかった自分が自分を裏切った時、私は人生で一番に絶望した。

それからはずっと、未来にワクワクすることができないまま、目の前に広がる今日をどう楽しくするかだけを考えた。

そんな私の大学4年間になんとか彩りがあったのは、櫻坂46のおかげで、藤吉夏鈴ちゃんのおかげだった。

彼女たちの音楽に触れている時は、彼女たちを見ている時は、彼女たちの話をしている時は、自然に笑えて自然に泣けた。

社会人

どれだけワクワクしなくても、社会人にはなってしまった。

自分を除いて13人いる同期はみんな穏やかで、とてもいい人たちだと思った。

そのうち女子は私含め4人しかいないけれど、少ないからこそ4人で仲良くなることが出来て、4人でおしゃべりしながら食べるお昼は会社での私の唯一の楽しみだ。

研修中の今のうちは残業もなく、定時の5分前には退勤になる。

すごくいい会社だと思う。

けれどどうしても、打ち込めるものがない。ワクワクしない。

平日は朝5:40頃に起きて出勤し夜20:00すぎに帰ってきてから夜ご飯やお風呂を済ませていると気づいたら何も出来ずに寝る時間になっているし、17年間習ったピアノをやめて心機一転始めたギターや大学3年生の時から再開して今も続けている吹奏楽は家で練習する時間もなく、もどかしい気持ちになる。

平日に身動きが取れない分、休日を予定が圧迫して疲れが取れないまま新しい1週間を迎える悪循環が成立した。結局4月に社会人になってから今日まで、予定がない休日は4日間しかなかった。(あ、でも人と会わないと心まで死ぬので沢山遊んでくださいね)

ちゃんと寝ないといけないのに、ぐっすり眠って寝坊するのが怖くて、上手に眠れなくなって、睡眠外来にも行き、睡眠薬を飲むようになった。

それでもまだ、とりあえず何かが見つかるまでこの会社にいてみようとは思っているし、探りながら日々を過ごしてみようと思っている。

で、今。

それでも生きなきゃいけない

長い長い人生ヒストリーを語り終えて、今。

端折った部分も多々あるけれどとりあえず、今。


これを全部読む人がいるのかは分からないし、自己満なので別にいいのだれど、私の人生を読んで人はどんな感想を抱くのだろうか。


私は私以外の人生を体験できないし、私の人生は1回しかないし、私の今は今しかないから、これ以上の日々もこれ以下の日々も歩むことは出来ない。


だから私の人生は私なりに結構辛くて、私なりに結構幸せだ。


それで最初の話に戻るんだけれども、私はどうしても性善説の証人でいたくてね。


私と同じ苦しみを味わう人が減ればいいと思うし、私と同じ喜びを味わう人が増えればいいと思うから、そうするためには私が苦しみを取り除く人であり、喜びを与える人である必要があると思う。


それが私が23年間で導き出したひとつの答え。


色々なものを諦めた私に、なんとか残った信念。


きっと私が誰かの笑顔を作り出せれば、その誰かの笑顔で他の誰かが笑顔になって、いつかみんなが笑えるようになる。みんなが笑顔になっていくのを見て、私も笑顔になる。


笑顔を作ることが苦手な私の、自分のための答えでもある。


私の涙が誰かの渇きを潤すなら、どうせ続く日々をそのために使いたい。


それこそ檸檬のように。


たくさんたくさん搾って、私という人間を構成するものをできる限り、誰かのために使い切っていきたい。


ぎゅーーーーーーーーーっとね。


書き終わり


もしもここまで読んでくれている方がいたら、とても嬉しいことなのですが、もしよろしければあなたが辛い時、私に救おうとさせてください。あなたが楽しい時、私にその笑顔を見せてください。


それでは。


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