20070410
昨日は朝からある出版社の打ち合わせで、久しぶりに電車に乗り都心へと繰り出した。小生は電車という乗り物はどうも好きではない。正直に言うと、好きではないという控えめな感じではなく、大いに嫌いである。あのような細長い待合室のような乗り物に、人間をぎゅうぎゅうに詰め込んで何十キロ、はたまた何百キロと走り続ける鉄の塊に自分が身をゆだねていると思うと、背筋がぞっとすることこのうえない。また最近の電車利用者はマナーがよろしくないときている。乗車時には我先にと席を奪い合い、降車時には我先にとドアへ向かう。己が快適であれば、ほかの者が倒れようが死のうがお構いなしなのである。車内では大声で歌を歌い、食べかすを散らかし、はたまた女性の尻を追い回し。だから小生は電車が大嫌いである。
さて、話は変わるが小生はある雑誌で小さなコラムを担当している。タイトルは「ようみゃく」と名づけた。ようみゃくとは植物などの葉の表面を透かすと見ることの出来る細い筋のような、あの葉脈である。人間で言うところの血管と同じようなものだ。小生はそのコラムに、日々の欠片のような話をぽつぽつとしたためているわけである。毎月ひとつの小さな欠片をぽつぽつと。
さて、話は変わるが小生はある雑誌で小さなコラムを担当している。タイトルは「ようみゃく」と名づけた。ようみゃくとは植物などの葉の表面を透かすと見ることの出来る細い筋のような、あの葉脈である。人間で言うところの血管と同じようなものだ。小生はそのコラムに、日々の欠片のような話をぽつぽつとしたためているわけである。毎月ひとつの小さな欠片をぽつぽつと。
20070406
きょうも朝からせっせと弁当を作り、日課の散歩へと向かう。小生が毎日通う塚の頂上には、なにやら小さな石造りの祠のようなものがずんとたたずんでいる。ちょうど巨大なにぎりめしのような容のその祠には、前面に青銅のような素材で作られた扉が付いており、その扉は封印の札のようなものと、これまた青銅のような鎖でがっちりと閉じられている。数日前に近所の豆腐屋の女主人との世間話の中で、ふとその塚にある祠のことを尋ねてみると、
「あぁ・・、あのほこらけはぁ。あのほこらはさ、かえるがみさふうじこめてるでさは。」
しばし彼女の話に耳を傾けていると、塚にある祠のぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくる。なんでも小生の家の裏にある池には、「蛙神」という言い伝えがあるという。
大昔、池には蛙神と呼ばれる神様が住んでいた。蛙神は風と雷を司る巨大な蛙のような風貌をした神様で、その池の主でもあった。しかしある日、この地に現れた二匹の化け物にその力を奪われ、あの祠に封印されてしまう。二匹の化け物は奪った力をそれぞれ分け合い、後に神にまでのし上がる。現在『風神』、『雷神』と呼ばれている二人の神がそれである。
「あのほこらさは、さわったらいけんど。かえるがみさはでてきっとったらさは、ふうじんとらいじんといくさになっちまうっさっは。」
さわりだけ聞いても、とても興味深い祠である。すると小生がみつけたかえる草は、その言い伝えと何か関係があるやもしれぬ。
「あぁ・・、あのほこらけはぁ。あのほこらはさ、かえるがみさふうじこめてるでさは。」
しばし彼女の話に耳を傾けていると、塚にある祠のぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくる。なんでも小生の家の裏にある池には、「蛙神」という言い伝えがあるという。
大昔、池には蛙神と呼ばれる神様が住んでいた。蛙神は風と雷を司る巨大な蛙のような風貌をした神様で、その池の主でもあった。しかしある日、この地に現れた二匹の化け物にその力を奪われ、あの祠に封印されてしまう。二匹の化け物は奪った力をそれぞれ分け合い、後に神にまでのし上がる。現在『風神』、『雷神』と呼ばれている二人の神がそれである。
「あのほこらさは、さわったらいけんど。かえるがみさはでてきっとったらさは、ふうじんとらいじんといくさになっちまうっさっは。」
さわりだけ聞いても、とても興味深い祠である。すると小生がみつけたかえる草は、その言い伝えと何か関係があるやもしれぬ。
20070405
小生の朝の日課は散歩である。毎朝、飼い猫の"種”を連れて、裏山の小さな塚までの道のりを小一時間ほどかけて往復している。雨の日も、風の日も、休むことなく、もうはじめてから半年はたつのではないだろうか。何か小さなことをこつこつと毎日毎日続けていくというのは、なかなか楽しくもあり、そしてまた大切なことである。その小さなことが、小さければ小さいほど、小さな米粒やあるいは蚤や虱のごときものであればあるほど、その楽しみも増してゆく。そしてもちろん、その大切さも増してゆくと小生は思うのである。
