ここ3年の間に実はけっこう重大な変化が私の周辺で起きていたのに、そのことを受容できていなかった、
心の深部で悲しみが蓄積していた、
と気づいた。
〜変化その1〜
親戚が3人亡くなった。私の祖母(母方)と、祖母(父方)の実家の夫婦2人。
皆80代を越えていたので、自然な流れではあるのだか、自分の周りから親戚がどんどんいなくなっていくことがさみしい。
両家とも継ぐ人がいない=家系が途絶える、無くなる=墓じまいだ。
父方の祖母の実家とわたしは直接関わりがあった訳では無いが、すぐ近くに住んでいたので家の様子は知っているし、両親はお盆や年始にはいつも挨拶に行っていたので交流はあった。
でも、当主が痴呆症で入院中に元気だった奥さんが突然亡くなり、お葬式後になって初めてそれを知らされるという、ショッキングな流れとなった。
母の実家は宮城県にあるが、もう今は誰も住んでいない。2022年の年末に祖母が亡くなった。祖父は1998年に亡くなっており、今年2025年8月に25 回忌法要で久しぶりに立ち寄ったが、思い出だけたくさん記憶に残ったまま、今は住む人かいなくなった家に、言葉に言い表せない強烈なさみしさ、悲しいさが湧いてきた。
25年も経てば変化があるのは当然なんだけど、私の脳はこういう変化にかなり敏感なようだ。
母方の祖父母にはとても可愛がってもらった。小学生の頃は毎年夏休みと冬休みに家族皆んなで泊まりに行くのが恒例行事だった。
祖父母は商店を経営していて、通り沿いに商店街が続いていた。夏には夏祭りがあり、行きつけの文房具屋さんと喫茶店があり、にぎやかだった。
わたしは中学2年で完全不登校になった。3年生の時に埼玉から宮城の学校に転校し、1年間(実際には1学期と3学期の後半しか登校できなかったが)祖父母宅に住まわせてもらった。
祖父は私が中学を卒業した後、5ヶ月後にガンで亡くなってしまった。当時も現在もすごくさみしくて、もう会えないことが悲しいし切ない。
祖母は若い頃からリュウマチで不自由な手足なのに、働くことが大好きで、いつもエプロンをつけて店番をしていた姿や、ラジオの民謡に合わせて歌ってたいた姿を今でも鮮明に思い出す。
当時からわたしは自発的なコニュニケーションに難を抱えていて、お世話になっていた当時、祖父母にちゃんと挨拶をするとか、お話しをするということが全く出来なかった。
祖父母とも商売で忙しかったので、3人で一緒に食事をとるとか団らんの時間は元々なかった。食事はお店に売っているパンやお菓子を自由に食べさせてもらっていた。
一度祖母がカップラーメンにお湯を入れて私の部屋まで持ってきてくれたことがあった。あの時の祖母の声、優しかったなぁ。「あやちゃんこれ食べてね」って、不自由な身体でお盆に載せて持ってきてくれた。
私は学校から帰ると自分の部屋にこもり、プレーステーションでゲームをして過ごしていた。祖父母にろくに挨拶もせず、部屋に引きこもっていた。なんでちゃんと「ありがとう」って、「ただいま」、「行ってきます」、が言えなかったんだろう。
今も両親に対して同じような態度しか取れていない。心の声が口から出てこないのだ。こういうのが発達障害の症状のひとつなんだと分かったのは3年前かな。
本当はもっと話したいのに自発的なコニュニケーションに難を抱えていてそれができないことが非常にもどかしい。
そういえば、叔母(母の姉)は祖父母宅の一室でピアノ教室を開いていて、ピアノ教室の生徒の一人に同級生の女の子がいて、一度私の部屋に「あやこちゃんいる〜?」と声をかけてくたな。
引きこもっていても周りには何人もわたしのことを気にかけ、声をかけてくれる人がいた。
今声をかけてくれるのは母のみだ。
変化していないむしろ退化しついる自分にもどかしさを感じる。
〜変化その2〜
わたしの実家(育ったお家)が売られて無くなり、新しい建売住宅が建ったこと。
育ったお家で過ごしたのは20年間だけど、幼少期からそこに住み、成長するまでを過ごしたお家には濃厚な思い出がたくさん詰まっている。
だから無くなってしまったら悲しいのだ。
わたしはまだこれらの事実、変化を受け入れることが出来ていなかったのだ。感情に蓋をし過ぎてきて認識すらしていなかった。蓄積していたのだ。だからこの前不安発作を起こしODしてしまったのだ。
どこから湧いてくるのか分からなかったネガティブな感情の根っこの部分にようやく気づくことができた。