若い人向けのお菓子のコマーシャルを年老いた老人がまじまじと見ている。単なるスーパー陳列棚にかかった、小さなテレビ画面の中に、おじいちゃんの感情は持っていかれる。何年も生きているであろう、おじいちゃんの人生が作り上げた感情が、感覚が、たった今、そのテレビ画面の中の可愛い女の子に惹かれている。
テレビの中の娘と目があった、無表情な老人。だが心の中では僅かな衝動があるはず。男なんて可愛い人を見るときなんて僅かでも何かしら衝動あるもんね絶対(勝手に思い込む)(本当に美しい人はきっと直視なんてできない)(映像の中の美人はメディア化されているから直視できるんだ、きっと)(それでもそれは恋とは言わない)と、つい自分の先入観で考えてしまうが、でも、おじいちゃんの時代からしたらその人は可愛いという基準には持っていけないかもしれない。全然ストライクじゃないかもしれないし、昔の人の方がずっと美人だよ‼って言うかもしれないし。わしの妻の方がずっと美人だとか言うかもしれないし、そうだとして、もうその人は亡くなっているかもしれない。もしそうだとしたら、老人はきっとどこかが空っぽになった心を抱えて生きてきたわけで、大切な人が死ぬという経験の無い私には彼の心情はどんなに想像しようとしても深い悲しみに追いつくことはできないだろう。しかし逆に強くて、とっくにどうだって良くなってることもあるかもしれない。これはこれで想像ができない。大切な誰かが死んでも時間が経てば忘れてしまうのだろうか。生きていくには都合がいいけれど、そんなのは嫌だなと思う。忘れてはいけないと強く自分に問いかける過去はある。だが、実際もう思い出せないことや人は意外と沢山あったりして。時間が経つと見えにくくなってしまうのだろうか。終いには見えにくいどころか見えなくなってしまうのではないか。思い出が見えなくなるのは、視力が無くなるよりも怖い。
もう5歳以前の自分や自分を取り巻く周囲の環境を殆ど思い出せない。こういう小さい頃の記憶というのは、どうでもいい人にとっては馬鹿馬鹿しいことなのかもしれないが、ただでさえ妄想の激しい私には大切な事柄だ(変なことは考えないよ、小さい頃見た景色のことだよ)。小さい頃見た景色は何故か現実とかけ離れて美しかった記憶しか無いのだ。何故だか、街が全て不思議に見えた。例えば道路の上を横切る高架線の線路。赤いDE10のディーゼル機関車が石油車両を牽引して走って行ったのを今でも鮮明に覚えている。なのにその光景は物心ついてから町中を探してもどこにも見当たらなかった。似てるところはあるけど、なんか違う。どうしてなのか自分でもわからない。こんな感覚は僕だけでは無いことを切に願う。
で、私の中の現実でしっかりと見れて、なおかつ私の中で幻想的な大好きな風景は、足立区の荒川沿いの夕焼けだ。堤防から見える集合住宅や遠くの高層ビル、高速道路の高架線、川、橋、鉄塔等、風景全てがすごく綺麗なのだ。あそこにいると落ち着く。どこか懐かしい。小さい頃に行ったことは無くても、懐かしい。そんなことは、よくあること。そんな場所は頭の中心部にしっかりと書き記しておきたいものだ。
つまり、みんなで河原で集団でうんちしたら世界は平和になるんだと思う。
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