Plan B -腎がん罹患後の記録- -5ページ目

Plan B -腎がん罹患後の記録-

発覚から手術までの体験とその後の人生再設計を記録していきます。

・祖母が亡くなった。91歳での大往生。死因はこれからいろいろとつくのかもしれないが、平たく言えば老衰だ。

 

・そろそろ危ないという知らせを受けて急ぎ週末に施設に向かった。特に示し合わせたわけではないけれど、総勢孫7人曾孫7人の半分くらいが週末に集まった。来られなかった人は、お葬式に回るはずだ。

 

・既に尿が止まり体も動かせなくなっていたが、土曜の昼時点では声を掛けると目が人影を追っていた。日曜にはいよいよ意識が乏しくなっていたものの、それでもお医者さんが頭を掻きながら「本当は2日前の朝のはずだったんだけど、戦中戦後の人は頑丈だから。」となぜか恥ずかしそうにするくらい人バイタルは持ち直していた。

 

・たぶん、週末に皆がお見舞いに来るのを待ってくれていたのだろう。ひょっとしたら、子どもたちに囲まれて騒がしくて眠りにつけなかったのかもしれない。皆が帰った月曜の昼に、実の妹夫婦に見守られながら、静かに息を引き取った。

 

・これで両方の祖父母はみな鬼籍に入った。つまり親族が亡くなるのは初めてではない。が、なぜかいつもより胸が痛む。家族を持ち、歳を重ねて弱くなったからなのか。或いは、自分自身が死を意識してから初めて目の当たりのする近しい人の死だからなのか。とにかく、これまでとは全く違う喪失感だ。

 

・祖母は東北の奥地の今では限界集落の見本みたいな町に住んでいた。夏は涼しいが冬は深い雪に閉ざされる寒村だ。小学校の時分は数少ない家族旅行先で虫捕りやら川遊びで楽しんだ思い出はあるが、とはいえ毎年行きたくなるような場所ではなかった。

 

・祖母との記憶といえば、実はご飯やおやつを用意してもらったことくらいしか思い出せない。誰よりも早く起きて、でも一番最後に床に就く人だった。四六時中誰かのために何かをやっているので、子どもと遊ぶことはほとんどなかった。。

 

・ろくに学校に通わせてもらえなかったせいで字は読めないし書くことも苦手だ。20代前半で結婚してからもl農作業とl家事で働き詰め。母親もそうだが貧乏が身に染みてしまっていて自分のことには上手くお金が使えない。それでも、文句も泣き言の一つも言わずに祖父と従弟家族の母親代わりに家事をし続けていた。

 

・3年前に相方の祖父が亡くなり、認知症も進んだということで近隣の施設に入ることになった。今年の夏は、子どもができてから初めて遊びに行くことができたのだが、既に記憶は曖昧ではあったものの見た目には数年前よりもむしろ元気そうだった。意識が虚ろな祖母の手を取ると、誰かのために家事も洗い物もしなくなったそれは、91歳の体の一部とは思えないほど艶やかで綺麗だった。

 

・ありがとう、おばあちゃん。ちゃんと口にできなくて、ごめんなさい。