3:12−15 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。


עָוֹן (アーヴォン):咎

 The Hebrew word "avon" primarily refers to iniquity or sin, emphasizing the moral distortion and perversion of God's law. It often conveys the idea of guilt and the consequences that arise from sinful actions. "Avon" can also imply the punishment or judgment that results from iniquity. It is used to describe both individual and collective sin, highlighting the inherent corruption and deviation from righteousness.


 ヘブライ語のアーヴォンは、主に倫理的な歪みや神の法からの逸脱を強調する不法や罪を意味しています。それは、しばしば犯罪や罪深い行動から生じる結果の概念を伝えます。またアーヴォンは不正の結果から生じる罰や審判をも意味します。それは、生来の堕落と義からの逸脱を強調する個人的な罪と共同体の罪の両方を表します。


 In ancient Israelite culture, the concept of "avon" was deeply tied to the covenant relationship between God and His people. The Israelites understood that iniquity was not just a personal failing but a breach of the covenant, affecting the entire community. The sacrificial system, as outlined in the Torah, provided a means for atonement and restoration of the relationship with God. The prophets frequently called the people to repentance, warning of the consequences of "avon" and urging a return to covenant faithfulness.


 古代のイスラエルの文化において、アーヴォンの概念は神と神の民との間の契約的関係と深く結び付けられています。イスラエル人は、不正が単なる個人的な過ちではなく、共同体全体に影響を及ぼす契約の違反であると理解していました。犠牲の制度は、律法において輪郭づけられているところによれば、贖罪(宥め)の手段と、神との関係の回復を提供しました。預言者は頻繁に民に対して悔い改めを呼びかけ、アーヴォン(咎)の結果について警告し、そして彼らに契約への忠実さに立ち帰るように促しました。


 私たちは普段「咎」という言葉はあまり使用しないのではないかと思います。私自身は「咎」という言葉について、どこか「重大な過失によって犯された罪」とか、「堕落した性質によって引き起こされた、避けられない罪」というイメージを持っていました。しかし、もともとの言葉である「アーヴォン」という語について調べてみると、どうもそうではないようです。(新改訳聖書がこのマイナーな言葉である「咎」をあえて使用したのは、おそらく、ヘブライ語の元来の意味を強調するためでしょう。)この言葉は、単なる「罪」ではなく「共同体全体に影響を及ぼす契約違反」という意味を持ち、神さまとの関係性が壊れ、歪んでしまっている状態を表すようです。預言者は、この「アーヴォン(咎)」から立ち帰るように、民に繰り返し警告を与えたのです。それは自発的に犯される「罪咎」であり、神さまとの契約的な関係を破壊する「違法行為」「不正」なのです。

 主は、エリがこの「アーヴォン(咎)」を犯したと言っておられます。「それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった『アーヴォン(咎)』のためだ」と言っておられるわけです。確かに、それはイスラエルの民という共同体全体に影響を及ぼす罪であり、知らずに犯された過失の罪ではなく、自らにのろいを招くようなことをしているのを「知りながら」犯していた、故意の罪でありました。(サムエル記の著者である預言者は、この「アーヴォン(咎)」に対する神さまの厳しい裁きについて繰り返し記述することによって、読者に警告を与えていると考えることが出来るでしょう。私たちもその警告の声を無視してしまうことがないように気をつけたいと思います。)

 とはいえ、サムエル自身はまだ幼く、祭司エリに対してこの厳しい宣告を伝えることを恐れました。それは傷つけたくないという優しさからか、そのようなことを言って、どのような態度をとられるかという不安からかも知れません。いずれにしても、彼はためらいました。


3:17−18 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」


 エリは主がサムエルを呼ばれ、彼に語りかけられたことを知っていました。エリ自身も以前に神の人から宣告を聞いていましたし、少年サムエルの曇った顔を見て、ある程度は、主の語られた内容について推測出来ていたかもしれません。エリはサムエルからの報告を聞いても「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」と答えただけでした。エリが取り乱したり、激昂したりしなかったのは、その内容を信じていなかったからではなく、半ば諦めのような感情があったからかもしれません。これは想像でしかありませんが、彼の心情は「ついにその時が来てしまったか。この裁きはもう避けることが出来ない。主のなさることは正しい。主が御目にかなうことをなさいますように……」という、ある種の悲しい諦めであったのではないかと思います。また、主の語りかけを聞いたのが自分ではなく、少年サムエルだったという点から、自分が退けられ、少年サムエルが預言者として召されたのだという事実を確認したと思われます。


3:19−21 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。


 ダンからべエル・シェバに至るまでというのは、以前にも紹介しましたが、北海道から沖縄までと言うような表現であり、全イスラエルを意味します。(ダンが北端、べエル・シェバが南端)

 サムエルは成長し、主の言葉を一つも地に落とすことがありませんでした。神さまが伝えたいと思っているメッセージを、余すところなく、伝えそびれるということもなく、曲げてしまうこともなく、民に伝えたということです。主は神さまのご臨在を表す契約の箱が置かれたシロにおいて現れ、サムエルに「主のことばによって」ご自身を表してくださったのです。

 全イスラエルは、数百年程の空白の時代、主が沈黙されていた暗黒の時代を破って、サムエルが預言者として立てられ、主の御言葉を預言しているのだということを知りました。(9:6


[サムエル記 第一 9:6]

すると、しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人(サムエル)がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。

 

□適用

 私たちは、主の語られた御言葉という光を持たない時、行く道に悩み、障害物につまずいてしまいます。また「自分の正しいと思うところ」に従って歩み、神さまから離れ、罪に陥ってしまいます。このような悲惨な状況から回復するためには、神さまの御言葉の光を頂かなければなりません。(詩篇119篇)


[詩篇 119:103-106]

〈あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私にはあなたの戒めがあり 見極めができます。それゆえ 私は偽りの道をことごとく憎みます。 

あなたのみことばは 私の足のともしび私の道の光です。

私は誓い また それを果たします。あなたの義の定めを守ることを。〉


 罪咎の結ぶ実は滅びです。裁かれるのは主ご自身であり、その裁きは大変厳しいものです。ですから、私たちは預言者が愛をもって警告している言葉に耳を傾け、その御言葉に反発したりせず、従順に歩んでいく者でありたいと思います。罪咎を覚える事柄があるならば、主の御前に告白し、赦しを求め、悔い改めていきましょう。(第一ヨハネ1:9−10


[ヨハネの手紙 第一 1:9-10]

〈もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。〉


 今の時代は、主の御言葉が語られない暗黒の時代ではなく、一人一人が「聖書」を持ち、神さまの語りかけを聴くことが出来る幸いな時代です。またダビデよりも勝る主イエスさまを知ることが出来る時代です。この幸いを、日々自分のものにしていけるように、聖書をよく読み、主の語りかけに耳を傾けていきたいと思います。