なぜマスコミの官邸叩きは盛り上がらないのか

――核保有発言を叩きたがる人々の醜悪さ――

12月18日、朝日新聞は、首相官邸の幹部が報道陣に対し、‘’個人の見解としつつ、「日本は核兵器を保有すべきだ」との考えを示した。“”と報じました。これに対し同新聞をはじめとする一部の新聞社や系列テレビ局は強い批判を展開しています。

しかし、その批判はほとんど盛り上がっていません。世論は大きく動かず、内閣支持率にも目立った変化は見られません。かつて2005年に、北朝鮮の核実験を受け、故・中川昭一代議士が「日本も核保有について議論を始めるべきだ」と発言した際、彼はマスコミによる激しいバッシングを受け、自死に追い込まれました。当時と比較すると、現在の状況は隔世の感があります。
 

では、なぜマスコミの官邸叩きは盛り上がらないのでしょうか?
筆者は、その理由は大きく二つあると考えています。


国民が安全保障の現実に自覚的になった

第一の理由は、日本国民が置かれている安全保障環境の厳しさを、もはや誤魔化せなくなったという点にあります。

中国は軍事力・経済力の両面で急速に強大化しており、台湾有事や日本有事、文化・経済力による周辺国の併呑は、もはや机上の空論ではありません。一方で、これまで日本が当然のように頼り切ってきた欧米、特にアメリカの実態が、コロナ禍とウクライナ戦争を通じて明らかになりました。

彼らは、長年信じられてきたほど盤石な存在ではありませんでした。

産業基盤の消滅

コロナ禍では、先進国と呼ばれる国々が、マスク一枚すら自国で安定的に生産できない現実を露呈しました。自国の産業は空洞化し、国民は生産現場から遠ざかり、これまで見下してきた新興国や発展途上国の生産力に依存しなければ、生活すら成り立たないことが白日の下にさらされたのです。

さらに、ウクライナ戦争は、軍事分野においても同様の問題が存在することを示しました。弾薬は慢性的に不足し、兵器の増産は遅れ、戦争を継続するために不可欠な工業力や国民動員力が著しく低下していることが明らかになりました(旧西側諸国の製造能力を合わせても、北朝鮮一国の生産力に敵わない!)。単純な消耗品だけでなく、ミサイルや戦闘機といった高度な技術を要する分野ですら、「本当に量産できるのか?」という疑念が生じています。

戦う覚悟の欠如

ウクライナ戦争を巡る欧州各国の反応は、「戦う覚悟」の欠如をも示しました。徴兵制導入に対する強い反発や、国民世論の動揺は、その象徴と言えるでしょう(ロシアに対して威勢のいいことを言うくせに、命が掛かる実際の戦闘はウクライナ人に押し付ける)。

これらを見て、多くの日本人は「有事の際、アメリカを代表する旧西側諸国は必ずしも命を懸けて日本を守ってくれる存在ではないし、仮に助けてくれたとしても頼りにならない。」という現実に気づいています。

中国が現実的な脅威となる中で、「自分たちのことは自分たちで守らなければならない」という結論に、国民が到達しつつあります。そして、その変化を、マスコミはもはや隠すことができなくなっています。


被爆者団体の醜悪さに国民が気づき始めた

第二の理由は、被爆者団体の在り方そのものに、国民が強い違和感を覚え始めていることです。

彼らは声高に反核を訴えますが、彼らの活動には大きな特徴があります。
それは、安全が保障された場所でしか活動しないという点です。

日米欧といった、言論の自由が守られ、身の安全が確保された国々では積極的に活動する一方で、より露骨に核の恫喝を行っているロシアや中国では、ほとんど活動していません。そこでは、逮捕や投獄のリスクが現実的に存在するからです。

彼らは「被爆者」という立場を看板にし、日本国内の批判しづらい空気を十分に理解したうえで、安全圏から異なる意見を持つ人々を攻撃します。しかし、日本が無防備なままでいることによって、将来世代が被る不利益には、驚くほど無責任です。

要するに、国内ではリベラル系マスコミという後ろ盾の力を借りて、相対的に立場の弱い人々を叩く一方で、その権力が通用しない場所、実際に命の危険が伴う国や地域では沈黙するのです。

彼らの関心は、核の脅威を現実に減らすことでも、将来世代を守ることでもありません。自己顕示欲を満たすこと、称賛を浴びること、ノーベル賞のようなブランドに近づくことにあるように見えます。(その在り様は、自分たちの尊厳を守るため、天安門広場で焼身自殺すら厭わない、チベットの人たちとは全く違います。)

弱いものに居丈高になり、強いものに媚びる姿勢は、筆者がこれまで批判してきた、いわゆるエリート層と本質的に同じです。そして今、多くの国民が、その醜悪な在り方に気づき、生理的な嫌悪感を抱き始めています。


一般国民の感覚こそが最後の砦

マスコミ、政治家、官僚組織、その他の国家のエスタブリッシュメントが、真実を国民に伝えないどころか、時には明らかな虚偽を交えて世論を誘導しようとする中で、専門的な教育を受けていなくとも、状況を正確に見抜いている日本の一般国民は、率直に言って非常に優れています。

この健全な感覚こそが、日本人の生存のために残された最後の砦です。
筆者は、そのように確信しています。