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「1998年のクロアチアは、戦争が終わったばかりで、国民もまだまだ貧しかった。ワールドカップに挑むヴァトレニを応援するために、最後の貯金をはたいてフランスの渡航費に費やした人がほとんどだった。それだけじゃない。お金もチケットも持たずに現地に行った人もたくさんいたよ(笑)
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会でのクロアチア代表のドキュメンタリー『ヴァトレニ クロアチアの炎』のプロデューサー、ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ氏が今回の語り手である。
この名を聞いて、ピンと来るサッカーファンも多いだろう。彼の父親は、FIFAワールドカップ・フランス大会で、ヴァトレニ(クロアチア代表の愛称で「炎」の意味)を3位に導いた、ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ氏。親子とも同じ名前なので、本稿ではそれぞれの愛称である「チーロ(父)」「ミロ(子)」と呼ぶことにする。
ミロ氏は1972年生まれの47歳。チーロ氏の仕事の都合でスイスのシオンに生まれ、フランスのナントでセカンドチームの一員となったものの、20歳で早々にプレーヤーとしてのキャリアを終えている。その後、ボルドーの大学で経済学を修め、ディナモ・ザグレブに広報スタッフとして迎えられる。
「私がディナモで働いていたのは、1993年から1996年まで。ちょうど父が監督をしていた時に、私は広報の仕事をしながら、クラブの新しいインフラ作りに没頭していた。当時のディナモからは、多くの選手がビッグクラブに羽ばたき、1998年のヴァトレニに加わった。マリオ・スタニッチ、ゴラン・ヴラオヴィッチ、ダリオ・シミッチ、ズヴォニミル・ソルド。私が来る2年前には、ダヴォール・シューケルとズボニミール・ボバンもいたね」
もっとも、当時のクラブ名は『クロアチア・ザグレブ』だった。これはクロアチア初代大統領のフラニョ・トゥジマンが「クロアチアの名を世界に示すために」無理やり改名。これにはサポーターが大反発し、トゥジマンが死去した翌年の2001年、ようやくディナモの名を取り戻している。「トゥジマン自身も1998年の成功により、クロアチアの名を知らしめるのはクラブチームではなく代表チームであることを理解できたと思う」というのがミロ氏の意見である。
 クロアチアの独立をめぐり内戦が勃発。祖国は戦火にまみれた。シュケルの故郷オシエクは、激戦地の一つだった。
 あの忌まわしい争いにピリオドが打たれてから、ほんの数年しか経っていない。シュケルを含む、チームの面々には、この大会に懸ける強い使命感があった。
1998 フランスワールドカップ
1998年6月14日
21:00 ジャマイカ1 - 3 クロアチア
アール 45分にゴール 45分    レポート    スタニッチ 27分にゴール 27分
プロシネチキ 53分にゴール 53分
シューケル 69分にゴール 69分
スタッド・フェリス・ボレール(ランス)
観客数: 38,058人
クロアチアの初陣は6月14日。同じ初出場のジャマイカを3-1で下し、好スタートを切った。この試合でダメ押しの3点目を決めたシュケル続く第2戦で、これまた初参加の日本から値千金の決勝ゴールをかすめ取る。酷暑の中、味方が消耗し、チャンスは数えるほど。その一つを、涼しい顔で物にしてみせた。
1998年6月20日
14:30
日本     0 - 1    クロアチア
レポート    シューケル 77分にゴール 77分
スタッド・ド・ボージョワール(ナント)
観客数: 35,500人 この現場で観戦 酷暑の中日本に有利な天候だった。前日ポンコツの車でクロアチアからやってきたサポーターをみたネクタイをしめていたのが印象的でしたね。彼らは試合を見れたのだろうか?
1998年6月26日
16:00
アルゼンチン     1 - 0    クロアチア
ピネダ 36分にゴール 36分    レポート    
スタッド・シャバン・デルマ(ボルドー)
観客数: 31,800人
これで2戦2勝。大国アルゼンチンとの第3戦(●0-1)を待たず、早々とベスト16への切符をつかんだ。 決勝トーナメント1回戦の相手は、幸運にも強豪イングランドではなく、同じ東欧のルーマニア。勝機は十分だった。
1998年6月30日16:30
ルーマニア     0 - 1    クロアチア
レポート    シューケル 45+2分にゴール 45+2分 (PK)
スタッド・シャバン・デルマ(ボルドー)
観客数: 31,800人 結果は1-0の僅差勝ち。この虎の子の1点もまた、シュケルが奪った。前半ロスタイムにアリオシャ・アサノビッチが倒されて得たPKを、冷静に蹴り込んだ。
 この現場で観戦1998年ワールドカップフランス大会6月30日 ボルドー クロアチア 1-0 ルーマニアの試合の後にレストランでワインを飲みながら牡蠣をたべました。レストランのTVではアルゼンチンイングランドの死闘が放映されていた。
これで8強入り。世界の頂点まで、あと3つである。だが、続く準々決勝で強豪が待っていた。
ドイツだ。クロアチアにとって彼らは、単に大国というだけではない。是が非でも倒したい、因縁の相手でもあった。 クロアチアは2年前のEURO準々決勝でドイツに敗れ、ベスト4入りを逃していた。今回の準々決勝は言わばリベンジ(復讐戦)である。
 ドイツは旧ユーゴスラビア時代からの天敵だ。イビチャ・オシムが率いた1990年イタリア大会の初戦でも、西ドイツ(当時)に1-4と大敗している。

 だが、今回のクロアチアの面々には、若い頃からドイツに対する苦手意識はない。かつてドイツを破り、世界に覇を唱えた成功体験があるからだ。
 1987年に南米チリで開催されたワールドユース(現在のU-20ワールドカップ)がそれである。ユーゴスラビアの若い世代が決勝で西ドイツを破り、初の栄冠を手にしていた。プロシネツキ、ズボニミル・ボバン、ロベルト・ヤルニ、イゴール・スティマッチに、あのシュケルを加えた5人が、やがて独立を果たす祖国の推進力となっていく。まさに「黄金世代」というわけだ。
1998年7月4日
21:00
ドイツ 0 - 3    クロアチア
レポート    ヤルニ 45+3分にゴール 45+3分
ヴラオヴィッチ 80分にゴール 80分
シューケル 85分にゴール 85分
スタッド・ジェルラン(リヨン)
観客数: 39,100人
ともかく、攻守に高密度で連動する黄金世代は、因縁のドイツに位負けすることなく、互角以上に渡り合う。序盤から何かが起こる予感に満ちていた。
 その結果が、3-0。一方的なスコアによる快勝だった。40分、シュケルの巧みな突破がDFクリスチャン・ベアンスの一発退場を誘い、ドイツを戦慄させるゴールラッシュの引き金となった。
 ヤルニ、ゴラン・ブラオビッチが鮮烈なミドルを突き刺し2-0。さらに85分、エリア内の混戦から、したたかにシュケルが押し込み、粘るドイツの息の根を止めた。
1998年7月8日21:00
フランス 2 - 1クロアチア
テュラム 47分にゴール 47分, 69分    レポート    シューケル 46分にゴール 46分
スタッド・ド・フランス(サン=ドニ)
観客数: 76,000人
 7月8日の準決勝、舞台はサンドゥニ。立ち上がりから慎重策に徹し、フランスの攻めをやり過ごしたクロアチアは、後半に入ると一転、ラッシュをかけた。
 異才アサノビッチの縦パスからフランス守備陣の背後へ抜け出したシュケルが、GKバルテズをもかわし、無人のゴールへ。クロアチアの誇る弓(アサノビッチ)と矢(シュケル)が見事にフランスの急所を射抜いた。
 「ポル・コントラ」堅守速攻――。東欧勢のお家芸と言っていい。システムはいつでも5バックへ変更できる3-5-2。堅陣を固め、球を奪い、手の込んだカウンターアタックから、勝機を探っていく。
 ただし、同じ速攻でも、クロアチアの売り物はロング(長距離)でも、ショート(短距離)でもない。その中間のハーフ(中距離)のカウンターである。
待望の先制点はしかし、悪夢の入り口だった。クロアチアの失点は先制からわずか66秒後。ボバンが自陣ゴール前でボールを失い、リリアン・チュランに同点ゴールを蹴り込まれた。勢いに乗るフランス、焦るクロアチア――。
 最初の失点から22分後、ついにスコアをひっくり返される。再び攻め上がったチュランに決められて1-2。クロアチアの面々は、がっくり肩を落とした。
5分後、フランスのDFローラン・ブランが一発退場。数的優位に立ったものの、総攻撃をかける余力は残っていなかった。結局、スコアは動かずにタイムアップ。失意のクロアチアは3日後の3位決定戦に回った
相手はオランダ。準決勝で王者ブラジルに屈した(現場で観戦)。それもPK戦の末に敗れるという、心身両面でダメージの大きいものだった。
3位決定戦
1998年7月11日21:00
オランダ     1 - 2    クロアチア
ゼンデン 21分にゴール 21分    レポート    プロシネチキ 13分にゴール 13分
シューケル 35分にゴール 35分
パルク・デ・プランス(パリ)
観客数: 45,500人
 結果、銅メダルを手にしたのはクロアチアである。2-1。オランダを突き放す決勝点は、またもシュケルの左足から生まれた。
 クロアチアの放ったシュートは、わずか5本。オランダの4分の1に過ぎない。それでも少ない決定機を物にする強みが際立った。
 全7試合で6ゴールを量産したシュケルは、得点王の栄誉を手にする。しかし、本人の喜びは別のところにあった。
「得点王よりも、銅メダルがうれしい。命を落とした多くの人々を思うと、中途半端な結果では終われなかった」
 クロアチアの独立をめぐり内戦が勃発。祖国は戦火にまみれた。シュケルの故郷オシエクは、激戦地の一つだった。
 あの忌まわしい争いにピリオドが打たれてから、ほんの数年しか経っていない。シュケルを含む、チームの面々には、この大会に懸ける強い使命感があった。
「いったい、僕らに何ができるのか。そう考えたとき、国民が誇りにできるような何かをもたらしたいと思った。代表チームの快進撃を、国家の再生と発展に重ねる。僕らはその一念でプレーした」
 シュケルの言葉は、仲間の思いを代弁するものでもある。天賦の才に加え、同胞に寄り添い、祖国を愛する強い気持ちが、チームを駆動していた。
 苦しみを経ての独立から7年目の夏。クロアチアに歓喜と誇りをもたらした快進撃は、輝かしい未来を暗示してきた「黄金世代」の集大成と呼ぶにふさわしかった。
むしろ個人的には、政治的にもサッカー観でも相容れない関係にあるビリッチとイゴール・シュティマッツが、歴史を乗り越えて未来を前向きに捉える必要性を揃って説いていたことに感動を覚えた。
「ビリッチもシュティマッツも『人々はお互いに寛容にならないといけない』というコメントを残している。彼らはこの映画で、クロアチアの未来について語ってくれた。第二次世界大戦後の日本人もそうだったと思うが、われわれも未来に向けて歩みを進めなければならなかった。今の若者たちは、戦争もユーゴスラビアも知らない。1998年の快挙も、歴史として知っているだけだ。