
バルバラ・コンスタンティーヌ 著 堀内久美子 訳
70歳のフェルディナンは頑固な性格が災いし、息子夫婦から見放され、ひとりで広い農場に住んでいる。自分の人生にはもう何も残されていないと諦めきっていたとき、奇妙な老婦人が現れる。その日を境に彼の周辺で大小様々な事件が起こり、誰もいなかった家に変わり者の「ひとりぼっち」たちが集い、肩を寄せ合って(当然、反発しつつも)暮らすようになる。そして、最後にやってきたのは……。
本書はごくごく身近で平凡な人たちを徹底してユーモラスに描いた「日常の物語」なのだ。
二ヶ月前に息子一家と別居し、農場の広い家にひとりで暮らす七十歳のフェルディナン。嵐に屋根を飛ばされてしまった隣人の女性マルスリーヌは六十代。フェルディナンと折り合いのよくない息子夫婦、おじいちゃんが大好きな小学校三年生と一年生の孫息子たち。看護学生のミュリエル、連れ合いを亡くしたばかりのギー......物語の序盤は、そんな人々の生活のひとコマひとコマが点描のように綴られる。速いテンポで視点が切り替わり、それぞれの心の声が語られ、場面がどんどん転換する。
登場人物たちの置かれている環境はそこで見当がつくものの、話がどちらに向かっているのかしばらく見えてこない。しかし飄々とした語り口調を楽しんでいるうちに、点描がひとつの流れを作っていくことに気づくのである。
嵐で屋根が飛んでしまい、寒さと湿気の中で震えているマルスリーヌを見て、フェルディナンの幼い孫息子は無邪気にこう言う。
「どうしてマルスリーヌおばさんをここに呼んであげないの、一緒に住めばいいのに」「ここは大きくて、部屋がいっぱいあるし、おばさんちみたいに屋根は飛んでないし」
そのときフェルディナンは「ふつう一緒に暮らすのは家族や親戚で、知らない人と暮らすことはめったにないんだ」と極めて常識的な返事をするのだが、その夜、雨が激しく降り続ける中で、屋根に穴の空いた隣家が気になってしかたなくなるのだ。そしてついに、自分の家への避難を持ちかける。変に思われないよう細心の注意を払って、口上を練習して。
だが、読者は気づいている。息子一家と別居してから、フェルディナンは寂しくて寂しくてしかたなかったのだと。ただ人恋しいだけではなく、困った人を助けてやれることで、自分もまた救われようとしていたのだと。
緊急避難的に始まったふたりの同居はそこから思わぬ展開を見せる。これが面白い。妻を亡くして何もする気力がなくなったギーを半ば強制的に同居させたのをきっかけに、どんどん同居人は膨れ上がり、気づけば七人と犬と猫とロバの大所帯になっていたのである。
この共同生活の様子が実にいいのだ。フェルディナンとギーは、クイズ番組を見逃す手はないとばかりにプラム酒の瓶を掴んでふたりで居間に駆け込む。「いたずら小僧がそのまま歳をとったようなもの」という一文に、幼い頃、仲のいい従妹と親戚の家に一緒に泊まった楽しい夜が思い出された。学生時代に寮や合宿で、友人と夜っぴて語り合った頃のワクワクが蘇った。それを七十歳で味わっている彼らの、なんて素敵な。
九十五歳の老女が七十代を指して「年寄りどもはもうたくさん!」と言い、若者は「じじばばたちはとてもクールだけどキャラが濃くて面倒だ」と苦笑する。高校生はインターネット導入を提案、ギーがハマって「じじばば連帯ドットコム」なんてサイトを作ろうと言い出す。おとぎ話のような、とても幸せな構図。
そう、これはひとつの楽園だ。寓話的ですらあるが、それでも同居生活が彼らに与えた変化は実にリアルなものに立脚していることに気づかれたい。
終盤、この楽園の平均年齢を劇的に下げる出来事が発生する。そのときギーがこんなことを言う場面がある。
「おもしろいじゃないか、もう自分の出番はないと思っていたのに、いきなり駆り出されるってこともあるんだな......」
登場人物は皆、傷や喪失を抱えている。同居したからといって傷が癒えるわけでも喪失が埋まるわけでもない。だが誰かに必要とされている、誰かの役に立っているという思いが、もう一度彼らを立ち上がらせる。やるべきことがある、喜んでくれる人がいるという思いが、もう一度彼らを歩き出させる。その歓びがページから溢れているのだ。
しかし、それらのメッセージはことさら構えずとも自然と伝わってくるので、むしろ私は、賑やかで優しいこの同居生活をピュアに楽しむことをお勧めしたい。
個性的なじじばばたち、小粋な子供たち、自信家の若者たち、右往左往する中年たち。世代が違うからこそ、向き合ったときに気づくことがある。ぶつかったときに見えるものがある。交じり合い、反発し、認め合い、導き、見守る。その素晴らしさを軽妙かつコージーに謳いあげた本書は、すべての世代に向けた応援歌なのである。