今更、気がついた事なんだけどさ。


人に「助けて」って言ったら、助けてもらえるんだね。




本題おわり






キューンキューンキューン



予告


以下、上手く話をまとめられない話を書いていく。

私が話をまとめられないのは、私の中に生まれたばかりの価値観だから、まだ、人に伝える言葉も赤ちゃんなんだよ 笑


後日、修正かける。

私は下書きにしておくと、見直すこのなく、「お蔵入り」する癖があるから、自分の再考察のために、乱文のまま載せることにする。



予告終了。
















まだ、テーマ下書き中。

未修正


人に「助けて」って言ったら、助けてもらえるんだね。



もちろん、相手にも事情かあるから、いつでもどこでも、絶対ではない。

だからこそ、助けを求める事が出来る相手は、多い方がいい。



相手に負担をかけたく無いから、「助けを求めない」じゃなくて、

相手に負担をかけないためにも「助けを求められる対象は数多く持っておいた方がいい」。

「1人に断られても、他もいる」、コレがあると、頼む方も緩く頼めるし、断る方も断りやすい。

今回は無理だけど、次回何かあったとき、埋め合わせしようって、なるよね? きっと。

私も断られたことが絶望に感じなくて済む。


日頃から、辛い時は「助けを求めることかできる人間」でありたい。


「助けを求めることかできる」ことは、「力」 だ。

人を信頼して身を委ねるんだから、スゴイことだよ。


私は、「人に助けを求める」ことが、

「人に頼む」ことがてきる人間になりたい。


。。。



今まで、私が人に何かを頼むときは、自分の中での「悲壮感」「追い詰められた感」でいっぱいだった。

誰も何も思ってなくても、私には余裕がなく、必死過ぎて、惨めだった。



2025年。

意図したわけじゃないけど、対等の「助けの求め方」デビューの年になった。

人に助けを求めることは、悲壮感も惨めさも、ギリギリ感も必要なかった。

必要なものは純粋な素直さだった‪💧‬


たぶん、私が人に助けを求めても、いずれ自分に対価を返せるだけの自信がついたんだろうかはてなマーク


返せる宛が無いと、友達にお金を借りれないのと一緒だ www 


私は貸すことはあったが、借りたことは無いよ。

むしろ「貸すよ」と言われて、「返せる宛が無いから無理」と断ったくちだ。

私に返せる当てが無いのに、怖いだろ。

ちなみに、今の私は「貸して」と言って来る奴は、断った上でフェードアウトする事にしてる。

残念、貸さないよ。


経験上、友達が「貸して」と言った時を境に、相手の人間性が変わった思わざるを得ないことばかりだった。私個人の偏見として、「相手がお金の話が出た時点で、相手にとって私は友達ではなくなってる」。

と、そのような判断基準を持つに至る。


現代版「走れメロス」的な関係を築いている人達もいるだろうけど、私は逢えなかったし、私にそこまでの人徳は無い ので、ソコは勘定に入れないのだ 。



助けが必要な時に「助けが欲しい」と頼めるのは、人間力のひとつなんだ。

頼んだことき萎縮する必要はない。

感謝して喜ぶだけでいい。

大事なことは、もらった助けを最大限に活用して、自分の手と足で行動を起こすことだ。

人からの援助があっても、自分の行動と意思がなければ、望みは形を成さない。


最初、自分の願いはその望みは、自分だけのものだった。

でも、誰かに助けを求め、力を貸してくれた人がいるのなら、それはその人の望みの1部にもなってる。

助けを求めた以上、ちゃと責任を持って目的を果たさなくてはならない責任が生まれるんだ。

結果はともかく、真摯に望みを手にするために、行動したという実績が。。。



やっと、その入り口に立てた2025年だなって、思った。

助けを求める事が許される自分でいられるように、もっとギアを上げて人間性を育てたいなぁ。。。


文句いいながら w

サボりながら w 

悪態つきながら www 

この言葉のどこに、人間性を磨き上げる要素が有るんだ 笑

コレが私だ。


私はね、優しいだけの、暖かいだけの人間が怖いんだ。

理由を聞かれても「わからない」としか言えないんだけどね‪💧‬