6月からゲスに生きるライター・・・
いや、すでにプロモーターなべまきです。


今月から定期的に千葉出張がはいるため、
その仕事のものを作っていたのですが。

自分の人生に(母も妹もですが)、
父の自殺という項目が追加され
「おお、、、なんだか深い人生になってきたな。」
と思ったわけです。


人に伝えられることは
体験したこと以外ない


というのがライターになってから
絶対譲れないことの一つなんですが
調べてみると


自殺遺族


という単語が出てきて
それをケアする会なのか、
なんだかいろんなものが出てきました。


未だに洗濯モノをしていると
自分の父親がぶら下がってる場面が
フラッシュバックしてくるんです。


これが気持ちが悪いとか、怖いとか
そういうことでは一切ないというか。


写真を切り取ったみたいに
ふっと出てくる記憶断片であって
それを
「どーしてあんなことに」
と追求して生きてる側が気持ちを病んでも
死んだって答えなんか出てきやしないわけです。


うちは遺書もなかったから。
血が繋がっていたって、
遺伝子の半分が一緒であっても
一度体から切り離された単体となれば
自分以外の人を理解できると思ってるとしたら
それはずっと自分を苦しめることになると思う。


これは生きてる者同士でも同じことが言えるけれど。


事態はひとつ。
解釈は無限。
経験としてひとつ。
記憶として刻印。


相変わらず、
うちの家族が変わってるのかもしれない。
たまに母親が欝っぽさを醸し出す時もあるが。。。


人間、大事な人がいなくなりゃ、
相手が生きていようと死んでいようと
寂しいと感じるレベルは「一緒」だ。


結婚式でよくある
「死が二人を分かつその日まで」
じゃないんだけれど、
生きてて心が離れていればもっと寂しいし。


自殺遺族


って自分たちの気持ちにカタをつけるために
色々なパターンの人が集まって
自分の中で決着のつく解釈が欲しいんだろうなとは思う。


理解できないっていうのは
生きてる人間が死ぬまで感じ続ける
ある意味「苦」のひとつなんだと思う。
理解できないというのは苦しいものですから。


私が代わってあげたかった。
といって代わってあげられるような苦しみなら
当の本人はその選択をしないわけで、
生きてる側がどう苦しもうが解釈しようが


やっちゃった本人がきめた
一番苦しいことから
楽になるための選択


であること以外の事実ってない。


ふっとそりゃ家族だったんで
「なんであーなったんかな。」
と急に頭をよぎる時もあるし、
父を思い出すような場面だったりモノだったり、
記憶を刺激するようなことがあると


「あああああ、ぜんっぜんわかんね。」


とわからないことに不快感は感じるものの、
それは


わからないことがあると
経験の中からわからない部分の情報を
引っ張り出して埋めようとするも、
経験がないために代替えで埋め込める情報が
過去から引っ張り出せないことによる空白を
埋められないと知ってしまったゆえのジレンマ



にすぎない。


自責の念


て日本らしい言葉なんだが、
「もっと理解してあげられてたら」
って気持ちが当事者を救ってるかなと思うと


「わかってほしいけど、
わかろうとされることすら苦痛」


というレベルが死ぬ手前で
あるんじゃないかなとすら感じたことがあった。


「俺にしかわかんねーんだ。」


って一言に凝縮してるとしか
今となっては思えないわけで。


ケースバイケースで
これはあくまでうちのパターンであり、
「お前みたいな冷淡な娘がいる親がかわいそうだ」
という声も日本のどこかから聞こえてきそうだが。


正直、こういう経験をした人は
みんなカウンセリングに行くものなのかな?
と経験する前は思っていた。


ふと仕事先に向かう中で

「あ・・・ここ葬式にいくまでにバスで通った・・・」

昔大事な人が自殺をした時に通った道に
20年ぶりくらいに出くわして
それもまた不思議な思いだったけど、
単なる大事な人と家族かどうかでも
自殺一つの捉え方は違って感じた。


あんまりこういうことをオープンに
書く人もいないかもしれないけど、
世の中には私みたいな感じ方の人もいる。


あまりに周りで「かわいそう」という人もいて
かわいそうな人の振りせないかんのか?
と疑問に思ったこともあり、それはそれで嫌だった。


なんでもありブログなので、
6月始めってことで書いてみた。


別個違うブログを立ち上げて書いていこうかなーなんて。