2021/5月以降:


5月の緊急事態以降はいったい何をしていたのやら、万事が予定通りにいかなかったのは確かだが、記憶は既にどうにも曖昧模糊として朧げで…


何かと例外的対応に追われ始終多忙であった様でもあり、平時と異なる時間の流れの中で、あるいは物憂い気分からの逃避なのか、絶えずゆらゆらと微睡んでいたかの様でもある…



そんな中で、確かこんな夢を見た。



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菊池川の支流、木護川を無心に釣り上っている。


『渓流釣り師の部屋』では平凡な渓と評された支流ではあるが、苔生した阿蘇溶岩流由来の岩盤や豊富な水量は私的にむしろ非凡の感あって、景観に溶け込んだ堰堤さえも珍しく好ましい印象である。



木護川といえば…と、こんな 九州脊梁通信の記事もチラリと頭をよぎった。成る程、流れ下る水は本流さながらに蒼く澄んでいる。渓に響くミソサザイの軽やかな美声が心地良い。

良い川である。

堰堤を経て以降も繰り返し小滝に遡行を阻まれるものの、何せ川沿い道が通っているので巻くのに苦労はない。


木護川での漁協放流は近年無いと聞いていて、さすがに今やニジマスは釣れないものの、それでもポツリポツリと稀にではあるがエノハはちゃんと出る。


とはいえ、釣れるサイズはチビから7寸程度までと物足りず…であるが故に良型求めて足は自然と奥へと向かう。

マチマチのサイズが釣れるという事は再生産している証か、あるいは地元の方々が定期的に放流しているのか。サイズ狙いならむしろ下流域で本流遡上を狙うべきだろうか…

などと考えつつ、歩みを進めていた時であった。渓沿いの照葉樹林はいつしか密度を増して周囲は随分薄暗い。

ーあんたエノハば取りに来たんじゃろ? 


と声がした方を驚きつつ見てみれば、川辺に10才くらいの痩せた小柄な男の子が立っていた。

ボサボサの髪に妙に赤黒い肌、足元は裸足。所々破れた麻地の袖無し半纏一枚身につけた姿は、まるで明治以前の寒村の子といった風情である。

ーこの辺まで釣り人来たんは久々じゃなぁ…

ボサボサの髪に半ば隠れた眼は妙にギラギラして、口元にはニタニタとした笑みを浮かべ、実際時折ケケッとこちらを揶揄うような調子で笑う。

驚きと当惑入り交じる一方で、その子から受ける印象がどうにも居心地が悪くて、とにかく妙に厭な気持ちが募って仕方ない…


ーエノハば取りに来たんじゃろ?よかヤツが釣れたらな、そいばオレにくれんかなぁ?

甲高いくせにやたら粘っこい声の調子も生理的に厭な心持ちがして、どうにもその子を直視出来ず目を逸らしがちになる。

ーオレは独りぼっちでなぁ、たいがい腹がすいとるんじゃあ…釣れたらきっとくれるよなぁ…

うんとも否とも言い兼ねていると、一段強い調子の「きっとエノハくれよなぁ!」という声が渓に響き渡り、唐突にザザザっと音がして…

ハッと周囲を見てみれば、その子の姿はもうなかった。

私は薄暗い渓の中、独り。キツネにつままれた様な気分でしばらく佇んでいたが…


ふと、ヤマワロという言葉が思い浮かんだ。

言葉が思い浮かぶと、そうか成る程アレがヤマワロだったか、安易に返答しなくて良かったなぁ、と我ながら不思議なくらい自然に納得している。


そしてまるで何事もなかった体で、再び上流を目指して歩みを進めていた。



その後も繰り返し小滝を巻きつつ、奥へ奥へと無心に釣り上がるものの、釣れるのはほぼアブラメで、稀にエノハが釣れてもチビばかり。


奥へ向かう程に照葉樹林は更に密度を増し、苔生す岩盤の緑もまた色濃さを増す。


絶えずキセキレイやミソサザイが美声を響かせ、私は誘われる様に、夢遊病者の如くやはり奥へ奥へと…


やがて最早どれ程の距離を遡行してきたのか判然としなくなった頃であった。



最源流域には未だ程遠いはずだが、水量も随分と減じた感がある。幾分冷静になって復路の時間を考えてみれば、遡行もそろそろ限界である。


しかし真摯な粘りには川も応じてくれるとみえ、これが最後の一投という所で待望の手応えアリ…

で、幾分細身ではあるが8寸越えの菊池川らしい褐色エノハにてようやく満足感を得た、その時であった。


ミソサザイが一際強く鳴いたかと思うと…

ーやっと釣れたなぁ、ちょっと痩せとるが良いエノハじゃなぁ…くれるよなぁ?

と声がした方を見ればあの子供がいて、眼を爛々と輝かせて立っている。

ーくれると言ってくれんでも、もうオレが貰うからなぁ!

刹那、子供は身震い一つすると、まるで袖無し半纏からするりと抜け出る様にこちらへ飛び掛かり、あっという間にエノハを手に取って口に咥え直したかと思うと、驚く程の身軽さで右手の斜面を登り照葉樹林の中へと姿を消した。

その姿はハッキリと目に焼きついて、全身赤褐色の毛覆われて顔の肌は赤黒く、尻には短めの尾が揺れて…

気が付けばミソサザイは既に鳴くのを止めている。

呆然と立ち尽くすばかり私の耳には、木護川を流れる水の音だけが聞こえていた。