昨夜、被災支援の物資搬送をしている仙台の友人から電話があり、かれこれ1時間半も話したかな。
GWに入り、ツアーボランティアが現地に殺到してるらしいとニュースで見て、これで瓦礫撤去もちょっと進むかなぁと思っていたけど、現地では、まだ十分に復旧の進んでいない狭い道を大型バスが占領したり、芸能人が支援に来るという事で、近隣から見物にやってくる車が大きな渋滞を招いたりして、自衛隊や復旧作業の重機の邪魔になったりしているそうで、ツアーというのも善し悪しな様子。
GWのボランティアツアーもそうですが、色々な人が色々な「自分に出来る事」を考える中で、被災地の人々を見続けている彼女たちは、支援の姿に深く思うものがあるようです。
「被災地の人の立場になって考えよう」と言うけれど、実際にあの日あの時を体感していない人には、被災者の気持ちは、理解しようと思っても出来るものではないと思うと。
「被災地の支援」と銘打って、お祭り騒ぎをしたがる人も多くいます。
それって、どう被災地の為になるの?と理解できない活動も、世の中にはあります。
ボランティアや支援というのは、「施し」ではなく、双方がお互いに「相手に感謝する気持ち」を通わせなければいけないものだと感じるのです。
多額の寄付を無記名でする。
が、その行為に評価を求める人は、「施し」の気持ちがある人でしょう。
こんな支援を思いつきましたと、ブログで拡散を呼びかける。
が、そこに自分の名前を刻む事を求める人は、「施し」の気持ちがある人でしょう。
友人が募った物資に対し、「被災者に物資を渡してる写真を撮って来て欲しい。渡してる様子が分かればもっと協力する。」とおっしゃる方もいるそうですが、それも「施し」の気持ちから来るものでしょう。
熱を出して、点滴打って、物資を待ってる人たちの為に駆けずり回る、私の友人を手助けして欲しいと思う気持ちはあるけれど、「施し」の気持ちを持って物資や寄付金を差し出す人を、彼女は必要としていません。
名声や地位や評価を求めず、感謝されない事に憤怒せず、「私の差し伸べた手を握ってくれてありがとう。」という気持ちで支援を続けていきたいし、ボランティストにはそうあって欲しいと願います。
泥水を飲み溺死した我が子の顔についたヘドロを、舐めて拭い取る母親がいたそうです。
そう聞いて言葉を無くす。。。。というのは、結局私自身にはその痛み苦しみをどうしてあげる事も出来ないと感じるからだろうなと。
セラピストとして、こういう事を言ってはいけないのかもしれませんが。。。。この状況の中で、私には、誰かを苦しみの縁から救うというような偉業は達せられそうにありません。
ただ、人の苦しみに対してどうしようもない自分を知り、涙を流す。
揺れる自分の気持ちに、じっと向き合うので精一杯。
でも、そうやって人の苦しみや痛みを知り、涙がこぼれるという事で、私の心はきっと大きく育っています。
育った気持ちを、周りの方にお返しする事。
大切な人をより大切にする事。
地球を愛しむ気持ちを忘れない事。
震災で無くした物は多いけど、震災から得た物も大きい事に気が付く。
そんな連休初日でした。
GWに入り、ツアーボランティアが現地に殺到してるらしいとニュースで見て、これで瓦礫撤去もちょっと進むかなぁと思っていたけど、現地では、まだ十分に復旧の進んでいない狭い道を大型バスが占領したり、芸能人が支援に来るという事で、近隣から見物にやってくる車が大きな渋滞を招いたりして、自衛隊や復旧作業の重機の邪魔になったりしているそうで、ツアーというのも善し悪しな様子。
GWのボランティアツアーもそうですが、色々な人が色々な「自分に出来る事」を考える中で、被災地の人々を見続けている彼女たちは、支援の姿に深く思うものがあるようです。
「被災地の人の立場になって考えよう」と言うけれど、実際にあの日あの時を体感していない人には、被災者の気持ちは、理解しようと思っても出来るものではないと思うと。
「被災地の支援」と銘打って、お祭り騒ぎをしたがる人も多くいます。
それって、どう被災地の為になるの?と理解できない活動も、世の中にはあります。
ボランティアや支援というのは、「施し」ではなく、双方がお互いに「相手に感謝する気持ち」を通わせなければいけないものだと感じるのです。
多額の寄付を無記名でする。
が、その行為に評価を求める人は、「施し」の気持ちがある人でしょう。
こんな支援を思いつきましたと、ブログで拡散を呼びかける。
が、そこに自分の名前を刻む事を求める人は、「施し」の気持ちがある人でしょう。
友人が募った物資に対し、「被災者に物資を渡してる写真を撮って来て欲しい。渡してる様子が分かればもっと協力する。」とおっしゃる方もいるそうですが、それも「施し」の気持ちから来るものでしょう。
熱を出して、点滴打って、物資を待ってる人たちの為に駆けずり回る、私の友人を手助けして欲しいと思う気持ちはあるけれど、「施し」の気持ちを持って物資や寄付金を差し出す人を、彼女は必要としていません。
名声や地位や評価を求めず、感謝されない事に憤怒せず、「私の差し伸べた手を握ってくれてありがとう。」という気持ちで支援を続けていきたいし、ボランティストにはそうあって欲しいと願います。
泥水を飲み溺死した我が子の顔についたヘドロを、舐めて拭い取る母親がいたそうです。
そう聞いて言葉を無くす。。。。というのは、結局私自身にはその痛み苦しみをどうしてあげる事も出来ないと感じるからだろうなと。
セラピストとして、こういう事を言ってはいけないのかもしれませんが。。。。この状況の中で、私には、誰かを苦しみの縁から救うというような偉業は達せられそうにありません。
ただ、人の苦しみに対してどうしようもない自分を知り、涙を流す。
揺れる自分の気持ちに、じっと向き合うので精一杯。
でも、そうやって人の苦しみや痛みを知り、涙がこぼれるという事で、私の心はきっと大きく育っています。
育った気持ちを、周りの方にお返しする事。
大切な人をより大切にする事。
地球を愛しむ気持ちを忘れない事。
震災で無くした物は多いけど、震災から得た物も大きい事に気が付く。
そんな連休初日でした。