皆さまとんでもなくお久しぶりです。


超ド級ものぐさ病兼寝落ち常習犯
pina子です。


今日は薄れてきた記憶を元に当時のことを書こうと思います。


ここでワンクッションをば。

地震の際の具体的な表現もありますので精神的に読むのが辛い方は予めご遠慮頂いた方がよろしいと思われます。


宜しいでしょうか?





タイトルにもありますが8年前の今日、14時46分にM9.0の地震が起きました。


東日本大震災


当時は宮城県沖地震、とか三陸沖大地震、と報道されてました。


しかしながら関東地方にも液状化等の被害が拡大していたため、三度目の訂正が掛けられ上の名称に変更されました。


当時私は学童保育で仕事をしており、低学年の子たちの宿題を見ていました。


初めは、あれ?地震かな?というような小さな揺れでした。


それから緊急地震速報のアラームが鳴り出し同僚とおかしいね、大きいのが来るのかな?と言いつつ子どもたちをゆっくりテーブルの下に誘導していた時でした。


突然、雷のような轟音の地鳴りとともに最大震度震度6強の地震が福島を襲いました。
(私の住んでいたところは6弱でした)


このままでは建物の中にいるのは危険と判断し恐怖と不安でギャン泣きする子どもを一瞬揺れが収まった時に校庭へ移動。


玄関を出た途端再び立っていられない程の激震。
1分程の揺れでしたが10分程に感じるほど長かったのを覚えています。


しゃがむ子どもの頭に覆い被さるようにして必死に揺れが収まるのを待ち、揺れが収まったら急いで校庭へダッシュ。


同僚が先を走り私も2人の手をしっかりと握って走り出したときでした。


右側からバキバキバキとコンクリートの割れる音がし、プール側の壁に亀裂が走りました。
(この時の揺れでプールが損壊し亀裂から水漏れが起きました。)


同時にコンクリートの通路と土の校庭に繋がる境目が子どもが跨いだ瞬間に地割れ。
(当然のことながら跨いでいた子はパニック状態になりギャン泣きしました)


困惑しながらも持ち出した携帯を取り出してワンセグで地震速報を見ると本当にとんでもないことが起きていました。


子どもたちも今何が起きているのか知りたいと言い出し同僚と見せました。
(この頃には校内にいた先生や高学年の子たちも続々校庭に避難してきていました。常日頃避難訓練してる賜物ですね)


そして目に飛び込んできたのは黒い波


初め、これが津波と分かりませんでした。
コンクリートの壁に見えたのです。


ヘリコプターに乗った現場のアナウンサーが伝える津波の言葉に頭が追い付きませんでした。


子どもたちが泣きながら
「ここまで津波来る!?僕たちのとこまで津波来ちゃう!?」
という言葉で現実に引き戻され、落ち着かせるようにゆっくりとしっかりした口調で「大丈夫」と繰り返しました。


そして雪が降ってきました。


雪除けのためにブルーシートを座る子どもたちの頭上に広げ、ホッカイロを持っている人は子どもたちに配りました。


それから数時間して18時に一旦帰宅。


帰る途中の橋が大きくずれており、車が跳ね上がりとんでもなく驚いたのを覚えています。


停電はしておらず、ガスもプロパンだったため問題ありませんでしたが、水は止まっていました。


うちのおばば(モモ・当時2歳)は同居していた父方の祖母の膝から離れず、ガタガタ震えていました。
(動物にしてみたら何が起こったか理解できませんし、何より人間すら混乱している状態でした)


帰ってからも数分ごとに余震が続いており、パジャマに着替えることすら怖かったので、何時でも外に出れるよう普段着のまま枕元に靴を置いて寝ました。




あれから8年…ゆっくり少しずつ前に進みつつありますが、時間が止まってしまった場所もあります。


風化してしまう記憶を絶やさないためにも、毎年思いを馳せたいと思います。


明日からブログ頑張るは言いません!
きっと不定期まっしぐらなので(笑)
それでもポツポツ続けていこうと思います。


長くなりましたが今日はこの辺で。


おやすみなさい。