母国語をもっと大事に
我が息子を見ていると、国語の大切さを痛感します。母国語の駆使能力が低いので、すべての科目の成績が悪い。ばかりでなく思考が狭く浅い。
母国語は思考に必要なツールです。これが使いこなせない者は、思考できないということですよね。後先を考えたり、相手の気持ちを推し量ったりすることができなくなってしまいます。嫌味や皮肉を言われていることに気づかないならまだしも、自分が気付かないで嫌味や皮肉を言ってしまっているとしたら、怖いですよね。
こんな状況の中、義務教育の世界では英語教育の早期開始が踏み切られました。日本語での思考もままならないのに、もう2つ目の言葉ですか。英語の教育を早めるのではなく、国語の教育をしっかりするべきと感じます。日本語が優れているから、日本語をしっかりと言っているのではありません。まず第一言語としての母国語をしっかりするべきです。グローバル化への対応はその後です。英語ができても論議にならないじゃぁ、本末転倒です。
https://shimirubon.jp/columns/1687931
自分に「先生」をつける恥ずかしさ
前々から感じていたことですが、子供の学校等に行ったりすることが多くなって、違和感が強くなってきましたので書きたいと思います。
学校の教師が自分を「○○先生」と言っていることです。「先生」という言葉は、職業を指す言葉ではなく、政治家、医師、教師に使われる敬称であり、本人は通常使わないですよね。敬意序列が異なる隣国では自分の父が不在の旨を伝える際、「父上は今いらっしゃいません。」となり、日本人にとって甚だ違和感を感じるのですがそれでも自分に敬称はつけません。「敬愛なる首領様」の方がまだマシということです。学校の教師の職名は「教諭」であり、名前に職名をつける慣習に従うなら「教諭」をつけるべきですよね。生徒や学生が「先生」付けせて呼ぶのは全く問題ありません、正常です。しかし、「先生が見てあげるよ」とやると違和感というか聞いているこちらが恥ずかしい。目上の者に敬意を払うことを習慣として躾けるのが目的で、恥ずかしさいっぱいで頑張ってやってるのならば、小学校までで十分です。
この慣習、なんとかならんですかねぇ。
評論家にこき下ろされ三流品と呼ばれたとしても、料理自体のほうが評論より意味がある
「評論家というのは気楽な稼業だ。
危険を冒すこともなく、料理人の努力の結晶に審判を下すだけでいい。
辛口な評論は書くのも読むのも楽しいし、商売になる。
だが、評論家には苦々しい真実がつきまとう。
たとえ評論家にこき下ろされ三流品と呼ばれたとしても、料理自体のほうが評論より意味があるのだ。」
映画「レミーのおいしいレストラン」から
料理評論家 アントン・イーゴ
SNSが普及して、意見を発信することが容易になった昨今ですが、スポーツのプレイに始まり、映画や小説、芸人さんの芸に至るまであらゆるものが批評の対象となり、膨大な数の名前と顔を隠した評論家の皆様に評されています。その一部はファンであり、マニアであり、サポーターという名前で積極的関与をしたりもしています。そして、批判し攻撃したりもします。「私でもできる。」に至っては、最高の批判とも言えるでしょう。
ただ、ここで気を付けたいことは、実際に手足を動かして行動した事が尊いのであることです。どんなにまずい創造物でも、創造主が創り出さなければ存在し得ないのです。消費者主導の昨今、「高い」「平凡」と価値を引下げ、価格を下げようとする傾向が強いですが、考えても見れば製造者が作らなければ、幾ら払っても手にする事はできないのです。
また、実際にやってみてわかる難しさというものもあります。聞きかじり、動画でチラ見でできる気になっているなんてのはよくあることですよね。「見るよりやる派」という言葉を耳にしますが、見るだけで一方的に批評するより余程前向きな姿勢だと思います。
今一度、自分を振り返って、発言・発信に気をつけようと思います。
「たとえ評論家にこき下ろされ三流品と呼ばれたとしても、料理自体のほうが評論より意味がある」