March 2012

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)/河合 隼雄
¥460
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村上春樹の物語を何か読もうと思って検索していたら、この本が出てきて、河合隼雄も好きなので、物語はおいておいて、まずこれを読むことにした。

全体を通して、あぁ、そういう風に考えればいいのか、というような、今まで答えを見いだせずにいながらほっておいたことについてのヒントがたくさん出てきた。基本的に会話を本にしたものなので、噛み合っているのか、どうしてそういう表現に結びつくのか、など、よくわからないところもある。そこはたぶん、微妙に考え方が違うことであってもそれを否定するのではなく、違う切り口で自然に別の意見を述べる会話の手法であったり、表情や声のトーンなどの情報が欠落して単なる文字情報になってしまっているからそう感じるのかもしれない。


気になったところをいくつか列挙。内容はちょっと要約。

・矛盾を許容してやっていくのがいい。ただし、それが解決ではないことを認識し、矛盾の解決策などを模索し続けることが大事。解決を急ぐ必要はないけど、矛盾にこだわり続けることが必要。

・小説(フィクション)の意味とメリットは、対応性の遅さと、その情報量の少なさと、手工業的しんどさにある。現代のさまざまなメディアから取り残されているように見えるこれらの点は、時が経って直接的な情報が全部なくなったときに何が残るかを考えればわかる、とのこと。フィクションは力を失っていない。力を失っているのはその産業体質とそれに寄りかかってきた人々。

・現代の「できるだけ早い対応、多い情報の獲得、大量生産」を目指す風潮が人間一人一人のたましいを傷つけている。これらの思想が、”個人主義”を尊重する欧米から生まれてきたというアイロニーについてよく考える必要がある。個人をもっとも大切とする生き方がが、個人をもっとも傷つける傾向を生み出しているのだ。

・人間はいろいろに病んでいるが、その根底は、人間は自分が死ぬということを知っているという点にある。自分が死ぬということを、自分の人生観に取り入れて生きていかなければならない。近代は人間の生の可能性が格段に広がって、死ぬことをなるべく考えないようにしてきた、でも死の自覚無しでは人間の本当の病を語ることはできない。

・納得がなければ簡単には動けない。たとえそれに長い時間がかかったとしても。 (→ 村上春樹は「とにかく動かなければ何も始まらない」とは思わないそうだ。確かにそうだ。最近の風潮というか社会は、動きを求める。個人個人の深い思慮に基づかなくても簡単にムーヴメントが起こる。考えるより動く方がよっぽど楽だからね。私自信への戒めの言葉だ。)

・芸術家というのは、個人的な病いを超えた、時代の病いや文化の病いを引き受ける力を持っている人。それを感じることでその表現に普遍性が出てくる。

・結婚というのはお互いの欠落を埋めるものだと考えていたが、実はお互いの欠落を暴き立てる過程の連続なのかもしれない。自分の欠落を埋めるには結局自分で埋めるしかないから、その大きさや場所を自分できっちり認識する必要がある。結婚生活というのはそのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎないのかもしれない。 (→ なるほどね。幸せになるために結婚するとか、そういうのは妄想だ。結婚生活は自分の欠落を埋める作業をきっちり手伝ってもらうために必要なものだと考えれば、非常におもしろい。そう考えると結婚をしない手はないな 笑)

この作中でよく話題になった村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読みたくなった。こういう本のリレーもおもしろい。