February 2009

遺影、撮ります。―76人のふだん着の死と生/野寺 夕子
¥2,100
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図書館でカメラや写真集のコーナーを見ていたら見つけた。
芸能人でもなんでもない普通の人たちの遺影なんだけど、セピア色ですごく魅力的な表情を写した写真だった。
ぴもーもこんな遺影がいいな、と思って借りてみた。

文章はすべて普通の人の言葉。一人一人を訪ねて、じっくりと会話することでそれを引き出したのが作者。

遺影は人生のパスポートかも。。。そういった方がいた。そんなことを考えたこともなかった。
5年や10年に1度、撮りなおしていくのも楽しいかもね。結局、本当に死ぬときには10枚も20枚も遺影が並んだりして。それこそおもしろいね。
毎年お正月や誕生日に遺言を作ったり、遺影を撮ったりしている人が多かった。
もちろん、ここで出てきた人たちは普通の人よりもずっと死を身近に感じている事情があるのだろうけど、それは誰もがしても当たり前のことだとも思った。
誰にでも死は必ず訪れるのに、その準備をしていない方がかえっておかしいことなのかな。

死のための準備か、それも楽しいことかも。
延命治療はしないでください・・移植できるものがあれば全部あげます・・遺影はどうしようか・・葬式はしなくていいよ・・お墓はいらないから、骨はどこにまいてらって・・大事なあの品はどうしようかな・・
実際、自分が死んだらうちの家族はちゃんと友人たちにぴもーの死を伝えてくれるかな?
きっとばたばたして伝えて欲しかった人に伝わらないこともあるだろう。
自分の死を伝えて欲しい人たち。それはどういう人たちだろう。そんなことを考えるのも楽しいことだ。

「ひとつひとつ、身軽になっていきます」と言った人がいた。
生きることは捨てられないものが増え、身動きがとれなくなっていくことだと日々感じていたけど、死に向かっているという意識を持てれば、ずっと身軽になれるかな。
何も所有しないという自由。そういう自由も与えられているんだ。

「がんでよかったと思えるのは命の猶予期間があること」という方。
「憂きもひとときうれしきも思い醒ませば夢候よ」という司馬遼太郎の言葉が好きだという方。
告知された夫。何かできること、望むことを教えてと言った妻に、「普通にしてたらいいよ」と笑って、何も言い残していかなかった夫。その夫の死の年齢に近づいて遺影を撮ろうと思った方。
「実は花火の音は焼夷弾を思い出して苦手・・」考えてみたら人には話さぬままの思いというものが意外に多いですねぇ。と言った方。
「自分のための食卓を丁寧に整えることを大事にしたい」という、夫に先立たれた方。
「治るよね?」という病気の友人の問いに答えられないかわりに、「私はここにいるよ。」と言って手を握ってあげた方。

人それぞれの死への思いは、完全に私的なことなのに、なぜか普遍性を秘めている。

自分の死をいかにして受け入れるか、それは人生最大の試練だけど、死を少しでも身近に普通に考え続けていくことが大事。
死を意識したらきっと人生は変わったものに見える。今は若さと健康を謳歌していて、死を意識しようとしても難しいけど、意識しようとすることが人生を豊かにする。
この世に無限なものはないのに、なぜ自分の生だけは例外かのように振舞ってしまうのだろう。
いつ死ぬかわからないから、やりたいことは先延ばしにしたくない。単なるわがままと紙一重だけどね 笑
あとどれだけ生きられるか、考えたらいろんなものを厳選することになるだろう。
自分のために、やりたいことは「やりたいです」、できないことは「できません」という強さを持ちたい。

この本を読んだ後、「おくりびと」を観た。
この本に触発されて観に行ったわけでもなかったけど、結果的にはこの本とリンクして、「死は生の連続の中にある」、となんだか確信してしまった。われながら単純・・・

明日の持ち物を準備するのと同じ感じで、「その時」の準備をしていこう。