結構な時間、引きこもりになっていたようです。

年が改まり、逃げる月も尻尾のほうです。

あいかわらず、私は何も理解しないまま年齢だけは、また一つ増やしている。

世の中は理不尽なことだらけ。

と、私には映っているのですが、それは間違っているでしょうか?

 

 

水が入った鍋にカエルを入れたら喜んで泳ぎ回るのかもしれません。

その鍋を火にかけるとしても、カエルは自分が茹でられていることに気づかない。

ゆっくりと茹でガエルが出来上がるというお話。

絶望的な境涯を認識せずして絶望から抜け出すことはできないのですね。

 

政府が人間を「茹でガエル」みたいに扱うのを私は止めることすらできないのです。

自分が茹でられていることに気づき始めている人はまだ僅かかもしれません。

仲間たちが茹でられていることに気づいている人は、もっと少ないのでしょう。

 

私たちの祖先はアフリカで誕生し、世界中に拡散していったようです。

ヒマラヤの北ルートと南ルートを通って、過酷な気候条件をものともせず、

3~4万年前にホモサピエンスは日本へとたどり着いたのだそうです。

北海道、対馬、沖縄の3つのルートから列島に拡散していった祖先たち。

驚くべきことに既に航海の方法を会得していたらしい。

 

その時代(3~5万年前)の海面は現在より80メートルほど低かったそうで、

北海道は大陸と地続きだったようですが、沖縄は島嶼ぐんがいくらか繋がってはいるものの海が隔てていた。

対馬も朝鮮半島が間近に見えるほどに陸地が拡がっていたそうです。

石器時代のことです。黒曜石などの加工に適した石を船を使って運んだらしいことが分かっているのです。

 

日本には原人、旧人が存在しなかったか、もし存在してもごく僅かだったかもしれません。

そういった遺跡がほとんど無いに等しい。

ホモサピエンスについては沖縄が化石人骨発見ラッシュが続き、聖地のごとく言われているそうです。

サンゴ礁を起源とする石灰岩のアルカリ質が化石骨の保存に適していたというのです。

政府はサンゴ礁を破壊しようとしているというのに、なんとも皮肉めいた話です。

 

さあて、もう私は何が正しくて、何が間違っているのかを測る定規に自信が持てなくなっております。

人類は皆兄弟とは言いますが、本当にアフリカを起源とした人間は世界中に拡散し、

ローカルな特色を具え、各々独自の発展を遂げて今日に至ったということなのでしょう。

それが今、相争う国家絶対主義的な状況となっている。

同じ種族でありながら政府は沖縄をいじめに虐めている。

安倍君の祖先も沖縄ルートでやって来たのかもしれないのに、彼は沖縄人をいじめて喜んでいる。

菅君はもしかしたら原人系かもしれないけれど。(顔で判断してはイケないけれど)

 

私たちは固定化された常識を疑うということが下手かもしれないです。

猫は犬と仲が悪いか。犬猿の仲は本当か。

夜、爪切ると不幸になるか。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるか。

靴下を履いて寝ると親の死に目に会えないか。

クマに出会ったら死んだふりをするのがいいのか。

それとも白い貝殻のイヤリングを落とすのがいいのか。(それだと追いかけてくるか)

国は国民のためにあるのか。

日本国民は善良で勤勉で恥を知る民族なのか。

 

疑う材料は売るほどあるのです。

私が日本人か…どうか。なんてもう問題じゃないかもしれないです。

こうしてブログに戻ってきた以上、ちゃんと真面目に更新できるのかどうか。

自信はないけれど、見る前に飛んで火にいる春の虫にも五分の魂が叫ぶのだからしょうがない。

始まりの終わりは、終わりの始まりでもあるのだ。

 

Don't Explain ( ´⊿`)y-~~

砂粒並みの人間が、またぞろ不平を言葉にするのです。

月刊ブログになってしまいました。

口中に言いたいことはリス以上に詰め込んではいるのですが、

吐き出すのが虚しいというのもありますが、

上手く伝わらないように思えて、なかなか指が動いてくれません。

 

政権運営が姑息で、誠実さがなく、まったく見苦しいわけです。

自民、公明、維新の傲慢さ加減にはほんとに虫唾が走るのですが、

野党の頼りなさにもイライラが募るのです。

そして、こういう状況を作り出してしまった多数決民主主義に対しても反吐が出そうです。

民主主義が絶対正義とは考えていないであろう政治屋の皆さん。

だからこそマイノリティーに対しても充分な配慮が必要だというのが世界標準。

だと思っているのですが、どうも世界のリーダーたちは否定的考えのようです。

 

政治も社会も過去の教訓を生かしてより良くなっているのか?

確かに暮らしは技術革新のおかげで便利になりはしました。

でも、それで人としての幸せは大きく、豊かになったでしょうか?

社会の不正が正されたでしょうか?

技能実習の名のもとで低賃金で働かされる外国人労働者をもっと増やそうという。

NPO法人の不正な資格取得と放漫経営は?

大企業等による派遣や偽装請負による労働者差別は?

天下りは官業の専売特許ではなく、大企業においても隠然たる現実ですが?

年金問題はいったい解決したのでしょうか。

無年金期間を個人年金企業が宣伝に使っているわけで、

誰も「百年安心」なんて思っていないと思うのですがね。

 

日本も無責任国家の仲間入りをして、世界中が無責任なリーダーに引っ張られ、

さてこの世界が迎える因果応報をどなたが受け取るのでしょうね。

外国人労働者でしょうか、年金受給者でしょうか、次代を担う若者でしょうか、

低所得者でしょうか、これから生まれてくる子どもたちでしょうか。

 

人間は精神的には退化していると思わずにはいられない現実があります。

5歳児が死んでしまうほどの躾と称する暴力を加える親。

我々の常識が崩壊している現実を「神」と呼ばれる存在は何も知らない。

『神の亡霊 近代という物語』という本を東京大学出版会が出しておりまして、

異様に注釈の多いというか、注釈が本文を圧倒している本ですが、

私としてはなかなか面白い内容だと思ったのです。

過去から未来へと受け継がれていく非現実な世界のいかがわしさ。

それはどこで正されるのでしょう。

まあ、宮内庁なんてものがあるうちは正されることはないのでしょうねぇ。

 

Don't Explain ( ´⊿`)y-~~

「誤解×信頼」

 

誤解を解かない、解くための努力をしないということは、

嘘をついているのとなんら変わらない。

 

誰が言った言葉なのか忘れてしまったけれど、なるほどと思う。

世の中には誤解というものは星の数ほどもあるのかもしれない。

私たちは誰かについて、何かについて完全に知ることはできない。

良くも悪くも誤解はついて回るものだ。

 

自分が他人からどのように思われているかを知り、

その過ちを全て正そうとすることはまったく不毛な努力だと言えるのかもしれない。

しかし、自分にとって大切と思えることは、

その誤解を解き、あるいは解く努力をするべきだろうと思う。

 

話せば解るなどということは全てに当てはまるわけではない。

話しても分かってもらえないことはある。

話すことが苦手な人だっているのだし、それは面倒なことでもある。

けれど誤解を解く、そのための努力をしないならば、

そのことによる不利益は全て自身が負う覚悟を決めておかなければならない。

 

「武士道とは死ぬこととみつけたり」

誤解を解くことをよしとしなかった侍は、死をもって潔白を主張したようだが、

それは自身の公的な立場というものを重要視していたが故なのだろう。

今の時代にそんな行為を誰も望みはしない。

 

「信なくば立たず」

とは、政治屋の常套句のようになっているのだけれど、

彼らがこの言葉を使うことによってその重みは削り取られ、薄っぺらになってしまった。

 

誤解の上に成り立つ信頼もあるのだと思う。

否、誤解を利用した信頼というべきか。

強弁によって都合のいい誤解をまねき、信頼に変える手法は珍しくない。

政治屋なんてものはそれで出来上がっていると言っていいのだろう。

律儀で固定観念に縛られやすい日本人なら血統書付きは大好きなんだから、

二世、三世はバカでもチョンでも受けがいい。

少々のことは強弁でもって乗り切れるのかもしれない。

 

しかし、平の国会議員ならいざ知らず、

議員の中の議員。国政のトップともなればどうだろう。

モリカケ問題、自衛隊日報問題など、まったく釈然としない。

 

事ここに至れば、これは良識が問われていると感じる。

誰の良識か?

もちろん、国民の良識がどれほどのものかが問われている。

 

Don't Explain ( ´⊿`)y-~~

「Nobody …」

 

人心が政治を離れたのではない。政治が人心を切り離した。

何が正しくて、何が間違っているのかを知ること。それはこの国に暮らす人間なら誰もが考えなくてはならない問題じゃないか。でも僕は何も分かっていない。

沖縄のことも福島のことも他人ごとでしかなく、何も分かっていない。僕は分かっていない。

知ること、知らせること。

公平公正に知る権利というものがあるのだとしたら、それを阻んでいる国を民主国家と呼んでいいのだろうか。

 

民主主義。それは一朝一夕には成らないものだろう。

それを求める者がいて、激しい闘いを繰り返し、犠牲の血を塗り重ね、それが乾ききってボロボロと剥がれ落ちるほどの時を経て、ようやく成るものなのかもしれない。

人は食うに困らなければ明日のことを考えない。痛くなければ傷の深さを心配しない。

一粒の散沙は互いに結び合うことなく、サラサラと手から零れ落ちるのみ。

国という皿が傾き、零れ落ちる砂粒があっても嘆くほどのこともないのだろう。自分が皿から滑り落ちない限り。

 

眼のない者は見えず、耳のない者は聞こえず、口のない者は語る言葉がない。さて、眼もあり耳もあり口もある僕たち。政治に対して何ができるのだろう。

僕たちが誰とも結び合わず、散沙であり続けることは国にとっては都合がいい。成熟しない国家とはそういうものなのだろう。

皿が傾いても零れ落ちるのは知らない誰かであり、自分ではないと思いたいし、そんなことは考えもしないのが散沙なのだからね。

 

散沙が集う大企業では、いかにもらしい職場環境が出来上がっているようである。結び合わず、縦割りの指揮命令系統、見て見ぬふりで問題を先送り。データを適当に作り上げる現場と、粉飾決算で世を騒がせながらコンプライアンス教育を社員に建前で済ませる幹部。

教育を受けなければならないのはお前たちだろう。とは従業員の隠れた声である。

砂は集えど、固まらず。楼閣を支えるに心許なし。さて次は、どこの企業が傾くのだろう。国が国なら民も民…なのだろうか。

 

「Everybody…」

 

IR法案なんて狡い言い方はやめよう。賭博を言い換えただけなのだから。賭博がリゾートになるのだとしたら、ヤクザは早くからリゾートに取り組んでいたというわけだ。

親父が賭け事で借金を作らなければ大学にも行けていたのに…。という家庭は探せば結構あるかもしれない。

ちゃんと真面目に仕事をしてくれていたら…幸せに暮らせたのに…。それでも頑張って大学を卒業したけれど社会人として借金を抱えてのスタート。珍しくもないのだろう。

 

国がこの社会を壊してでも得たいものとはなんだろう。未来を潰してでも欲しい今日の成果とはどんなものだろう。

美しかった国は政治によって汚されてきた。

政治家が敢えて言葉にすることは得てして反意を表しているという教訓から安倍が「美しい国」と語ったところで僕にはわかっていた。爛れていくこの国の運命が。

 

既に国民は思っている。

野党がだらしないから強行採決された。委員長の不信任や内閣不信任などでしか対応できないとは情けない。

そう思っている人は多いのではないか。

だけど、そう仕向けたのは僕たち国民なのだということをわかっていない。

6割以上の人がIR法案に反対で、参議院の定数6増にも反対している。6割以上の人たちは次の選挙でどういう行動をとるのだろう。

 

翁長さんが辺野古埋め立ての承認取り消しを表明した。菅はこれまで「丁寧に、丁寧に」説明をしてきたそうだが、誰がそれを了とするだろう。仲井間の決めた承認に反対であるから翁長さんが県民によって知事となった。県民の意思は既に示されている。

民主主義を建前であれ掲げる国はこれを尊重せずにはいられないはず。民主主義を戴く国民は国の欺瞞に対して何を思い、どういう行動をとるべきだろう。

 

完全無欠の正義なんてものは存在しない。戦前ならば、お国のいうことはすべて正しいと考えるバカも多かったろうけれど、今となっては殆どの人は分かっている。国家が何をしてきたのか。世界に散らばる国々でその指導者たちがどれほどのバカぞろいなのかを。

 

Don't Explain ( ´⊿`)y-~~ 

「民主国家の従僕」

 

変わり映えのしない、プログラムされたような1週間が過ぎ去っていく。

次々に記憶から消えていく日常と干乾びながら残っていくイメージ。

あるいは無意識のうちに自分の都合に合わせてバイアスがかかった記憶。

そんなものは再検証に値しないものかもしれない。

 

僕の記憶にある父親はギャンブル好きだけどちゃんと働いてはいた。

ただ、借金をしてまで競輪競馬に投資していたのはいただけなかった。

どうにも返済できなくなって初めてそれが発覚。

結局は家族に迷惑をかけてしまうことになった。

まあ、そのことが反面教師となってうちの兄弟は誰もギャンブルに手を出さない。

 

想像力のない者はクリエイターにはなれないし、統率者になるには心許ない。

情報の海は限りなく広がっているけれど、衆目に晒されないものも多い。

一部の人間にしか閲覧不可能な情報は僕たちが考えているより多い。

一部の人間とは…。

そんなことは誰でも察することができるだろうけれど、

大衆というものは自分に関係のないことには鈍感にできている。

 

カジノ法案が委員会強行採決で衆院に送られる運びとなった。

自民、公明、維新の賛成多数で押し切られた。

彼等に想像力があるかないかは頭の中を覗いてみないと断定できない。

けれど状況証拠は想像力に欠陥があるか、情報操作があるか、

はたまた悪意が脳を支配しているかを示している。

 

働かせ方改革』といい、『カジノ法案』といい、

民主的思考回路から紡ぎ出されたものとは信じ難いというのが僕の意見。

もちろん、僕の意見に同意しない人たちもいるのだと想像する。

 

ギャンブルが人に夢と希望と幸せをもたらすと考える人がどれほどいるだろう。

確かに勝った時の達成感と、そこに至る執念のようなものには頭が下がる思いがする。

予想を的中させた喜び。短時間で金を儲けた達成感。

そこに至るまでの負けても負けても屈しない根性は素晴らしい。

それを他の分野に回せば、人生も少し違ったものになっていたと思うのだけど。

 

民主主義のお手本であったアメリカにおいては銃乱射事件が繰り返され、

黒人への人種差別意識もいまだ根強く残っていて、

K・K・Kだって根絶やしになったわけではないようだ。

アメリカと一口に言っても、思想や利害は組織毎に異なるのだ。

軍部には軍部の思惑があるのが当然ではあるのだが。

 

日米合同委員会なる組織が『カジノ法案』『働かせ方改革』にまで口出ししている。

とは考えにくいけれど、それがないとも断定できない。

これまで多くの密約を生んできた組織なのだから。

制服組が銃を構えて現地で汗をかき、挙句にPTSDを患う中、

背広組はいかに日本という国を陰で統治するかに苦心している。

彼ら背広組に言わせれば日本は独立国などではないのだろうけれど、

アメリカという国の闇はあまりにも深いと感じざるを得ない。

 

戦後、日本は密約によって再復興の確かな道を歩いてきたのだろう。

けれど、その慣例が「日米合同委員会」によって今も残り続けている。

日米安保、地位協定など密約は日本政治の無能を露呈している。

日本政府はそれを認めないのだけれど、

アメリカの開示情報は密約の存在を明確に示しているのだそうだ。

 

僕は考える、

密約はアメリカにおいて情報開示が成された時点で密約ではなくなっていると。

これまで交わされてきた密約で情報公開が成されたものは、

全てが密約としての効力を失うのではないのか。

日本も「砂川裁判」を再度見直し、憲法のありどころを考えるべきではないかと。

識者たちの奮起を祈るばかりである。

 

Don’t Explain ( ´⊿`)y-~~