老いて尚

 山本瑠璃子は迫田京介と乾杯した。

 瑠璃子も京介も自由だった。

 京介は配偶者を亡くしていた。

 瑠璃子は結婚はしなかったが、年相応な男性を見つけては人生を楽しみ、お相手の奥方にばれては別れ、三人の男性と喜びをわかちあった。しかしもう係わったどなたも生きてはいない。

 瑠璃子と京介は、高校の時、同じ学校に通った仲。もう二人とも八十歳になっていた。

  瑠璃子は、喜寿を迎えた時

「落日や砂にもぐれる蜆貝」

と書いて、絵も添え京介に葉書を送った。

 なかなか返事は来なかったが、ある朝

「蜆貝もぐりても尚姿見ゆ」

と達筆な筆さばきで書かれたはがきがポストの中にあった。瑠璃子は門から玄関へと続く飛び石を葉書を抱いて右左にかしぎながら飛んで家に入った。

 瑠璃子の足元に家猫のくうが寄ってきた。瑠璃子はくうを抱き上げ膝に乗せダイニングテーブルに葉書を置き、じっと眺めた。

 京介は知っているはずだった。瑠璃子が京介を恋焦がれていることを。瑠璃子がふと同級生に漏らした、京介が好きだということを、その女友達は、皆に触れて回った。同窓会で知らぬ人はないほど有名になっていた。

 もうそんなことはどうでもいい。あの世にいってしまった友も多いのだもの。

「ねえ」

と瑠璃子は「くう」に語りかけた。「もう、好きなように生きてもいいよね」と言いながら、無意識にくうを撫でると、くうは喉をごろごろ鳴らした。

「酔芙蓉路傍にありて幾星霜」

あなた様が傍らをお通りになって、酔芙蓉に気づいて下さるのをじっと待っておりました。

 酔芙蓉の花が散ってしまう頃に返事が来た。

「酔芙蓉知らずに過ぎし夜の闇に」

 嘘、嘘。

 瑠璃子は京介からのポストカードを、卓上に滑らせるように投げた。

 ちょうど、くうが外から帰ってきて、中に入りたいと、ガラス戸をひっかいた。

 瑠璃子はくうを頭上高く抱き上げた。

「くう、悲しいわ。知ってたのに知らないふりよ」

 くうは言った。そんなことどっちでもいいよ。これからじゃないかな。

 ああ、これからなんてこともあるかな、もうとっくに喜寿は過ぎたのに。でも、くう、ありがとう。

 瑠璃子は気を取り直し、京介からの葉書を大切に引き出しにしまい込んだ。

 思いを送り、遅い返事を待ってむなしく日々を過ごしていることに、瑠璃子は耐えられなくなってきた。半年が過ぎてしまったのだ。瑠璃子は、くうを友達に預け、名古屋を後にして上京した。

 葉書の住所を頼りに、東海道線「藤沢駅」に降り立った。改札を出たものの、右も左もわからない。瑠璃子はタクシーに乗って京介の家まで連れて行ってもらった。

 瑠璃子は、レンガ塀に鉄の門扉のある家の前におろされていた。その前に立った時、要塞のような気がして、瑠璃子は自分が拒否されているかのように感じた。

 でもここでひるんではならない。瑠璃子は意を決してベルを押した。

「はい」

「おっ」

インターホーンは切れて、足音がし、門扉が開かれた。

「どうしたの?来たのか。まあ上がれや」

そう言って京介は先に立って家に入った。

「そこに座って」

「はい」

 瑠璃子は京介の指さしたソファに座って部屋を眺めまわした。

 ソファといい、サイドボードといい、カーテンといい、年季の入ったものではあるが、実に豪華なものであった。海外生活の長かった京介一家の高尚な趣味がうかがえる。瑠璃子は嫉妬のようなものを感じた。

「待ってて、今お茶を入れるから」

そう言って京介は出ていく。瑠璃子はさっとたち上がり「お手伝いするわ」と、京介の後について出た。京介の後ろ姿は、がっしりとしたものだった。高校時代野球部にいた京介の肉体は衰えていなかった。瑠璃子はややこごみがちの背をすっと伸ばした。

 「迫田さん」と瑠璃子は呼びかけた。

「うん、何」

「ありがとう」

「何が?」

「突然なのに、おうちに上げてくださって」

「だって、わかっていたよ」

「なにが?」

「来ると思っていたよ」

「やだ、どうして?」

瑠璃子はちょっと甘えたおちょぼ口になった。

「どうしてって言われても、ただの第六感だ」

「恥ずかしいわ、見抜かれてたのね」

 瑠璃子は急に若い時と変わらないような、気持ちになってしまった。

若い時にはまだ自制力や恥じらいがあったから、気持ちはあっても行動はためらわれた。しかし今はもう厚顔な傘寿近くのお婆さんだった。瑠璃子は京介の背中を後ろから撫でた.

「瑠璃ちゃんや、瑠璃ちゃんは高校ではおとなしかったよね」

「そうね、目立たない子だった」

「だから、気が付かなかったんだよ。瑠璃ちゃんのこと」

「今更、もういいわよ」

「遠いところ来てくださったんだから、楽しくティータイムにしよう」

「ありがとう」

 瑠璃子は素直にお礼を言って、コーヒー出しを手伝った。

「久しぶりだね、今日出てきたの?」

「そうよ、逢いたかったの」

「うん、僕も逢いたかったよ。コロナで同窓会もできなかったものね。もう三年も会えなかったね」

「その間に、佳代子さんも雪子さんも益太君もなくなってしまったわね」

「寂しいね」

「うん」

 話は途切れてしまって、コーヒーを飲む音だけが聞こえた。

「ところで今日二時から、町内会の役員会があるのよ。一時間ぐらいで終わるから待っててくれる。晩飯おごるわ。今晩泊まって行っても差し支えないよ」

 瑠璃子はコーヒーで喉が詰まりそうになった。

「瑠璃ちゃんだって、誰が待ってるわけでもないだろ」

「くうが待ってるわ」とかろうじてコーヒーを飲み込んで言った。

「くうって誰だい?」

「猫」

「猫?猫なんか人間じゃないんだからいいじゃん。嫉妬しないだろ?」

「やな迫田さん。くうでも嫉妬するかもよ」

「うちでもね、去年までジェラシーという名のトイプードルがいてね」

 瑠璃子は、こんな軽口を京介が叩くことは今までにないことだったので、嬉しくて仕方がなかった。

「京介さん、本当に泊まらせて下さるの」と甘え声で言った。

「本気だとも。僕はもう一人ぽっち。ほら、一人息子の勉はシンガポールに赴任で、一年に一回しか帰らないし」

「そうだって黒木さんから聞いていたわ」

「女性はどうか知らないが、男が夜一人ぽっちというのは年をとっても寂しいものよ」

「そりゃあ、女性だって寂しくないことはないわ」

「ここにはテレビか新聞か碁盤か、暇つぶしはそれしかないけど、すぐ帰るから待ててね」

「はい」

 瑠璃子はしおらしく答えて、帽子をかぶって出ていく京介を見送った。 

 瑠璃子はどうしていいかわからなかった。窓辺により庭を眺めた。

 芝生は青々として手入れが行き届いていた。枯れ木が芽吹き始めていた。清楚な水仙があちこちに塊になって揺れていた。瑠璃子は高校時代憧れていた繊細でたくましい京介が今も生きていると思った。熟れつくした京介への思いを、京介が人生の終わりになって気づき受け入れてくれたことが、嬉しい。今夜泊まっておいきと、ごくごく当たり前のようにつぶやいてくれたことによって、瑠璃子は京介の愛に全身がすっぽりと包まれている幸福を感じた。

「お待たせ」と言って京介が会合から帰ってきた。

 京介はジャケットのポケットから、半紙に包まれたものを出してきて、

「これ、会で出たお茶菓子。食べる?」と言ってテーブルの上に広げた。

 金平糖やおこしや小さいお饅頭が現れた。瑠璃子は、今まで知らなかった京介の庶民的な感覚に驚いた。微笑ましい気がする。

 瑠璃子がお茶を入れて二人は談笑しながらいただいた。

 「そろそろ出かけよう」

 京介は春コートを羽織り、タクシーを呼んで有名らしいフランス料理店に瑠璃子を連れて行った。

 京介は瑠璃子の知らない銘柄のワインを頼み、

「さっ、今夜のために乾杯よ」と小さい声で言う。

 瑠璃子は頬に血が上った。でも、気を取り直し、京介のご馳走してくれる最高級のフランス料理を一生懸命に食べた。

 このようなことが、せめて二十年前に起こっていたなら、どんなにか幸せだっただろう。でも、それはかなわぬことだった。京介にとっては妻は絶対だったのだ。

 食事を終えて家に帰った。

「おいしいお料理ありがとう」と瑠璃子は二十歳の娘が甘えるような口調になって言った。

「いえいえ、なんのなんの」と京介は恐縮して言った。

「お風呂に入るよ」と京介は言って立ち上がった。

「あら、では、お湯を張ってきます」と言って、瑠璃子は先回りした。

「瑠璃ちゃん、先にお入り」

「いえいえそんなこと駄目です。京介さんが先よ」

「なら一緒に入ろうか」

 瑠璃子はワインの酔いも手伝って真っ赤になった。いまさらしなびたリンゴみたいな体を、白日の下に晒すことはできない。四十年前の自分なら、京介の前に一糸まとわぬ姿で身を横たえても、恥はしなかっただろう。だがどうにもならないことに、その時の京介は自分を一顧だにしなかった。妻に夢中だったのだ。家庭を壊すようなことはしないから、ただ一度でいい、京介と交わりたかった。京介は同窓会中で噂になっても、知らぬ顔であった。

 お湯は風呂になみなみと注がれた。

「じゃ、お先に」と言って京介は浴室に消えた。

 次に瑠璃子が上がってきたとき、

「なんだかまばゆすぎるなあ」と言い、

「瑠璃ちゃんがそばにいるなんて、はずかしいなあ」と言って、もう一杯飲もうと、ワインを注いだのだった。

「瑠璃ちゃんとの再会に乾杯」と恭介は言った。

「来てくれてありがとう」とも京介は言った。

 そして、

「年取ってのいきなりの一人所帯は寂しいよ」と弱音を吐いた。

「殿方はそうよね。女の方が一人暮らしに強いかもね」

「息子の使っていたベッドも空いているけど、瑠璃ちゃん、僕のダブルベッドで寝てくれないか。寂しくてね」

 瑠璃子にとってそれはずっと夢見ていたことだった。

 嬉しい気持ちをかくし、

「よろしくお願いします」といった。

「じゃあ」と、京介はワイングラスを置き、瑠璃子を二階に案内した。

 寝室は広かった。真ん中にダブルベッドがドカンと置かれていた。ここで一人では寂しいだろう。

「瑠璃ちゃん男物しかないけど、大きすぎると思うけど、僕のパジャマで我慢して」とクリーニングに出したストライプのパジャマを置いてくれた。

 瑠璃子は部屋の隅で後ろ向きになってパジャマに着かえた。裾も腕も長すぎる部分は端折った。そして京介の横に滑り込んだ。

 京介に抱きしめられたとき、失神しそうになった。十七の時から思い詰めていた人が今自分を抱きしめていてくれる。ただそれだけしかできないが、それだけで取り乱しそうになるほど、幸せだった。瑠璃子は自らしっかりと京介にしがみついていった。

 瑠璃子は月の半分はくうを連れて京介の家に泊まった。半分は、兄や兄嫁の目を気にして名古屋の家で過ごすのだった。

 京介の家に住んでいる時は、くうは京介によく懐いた。京介の膝の上で寝ることもしばしばだった。それにくうは台所に立っている瑠璃子の足元に身を擦り付けてきてにゃあと鳴く。その時瑠璃子ははっと気づくのであった。京介が退屈して待っていると。振り返ると窓の外で、京介がしゃがみ込んで、花をのぞき込んでいる。瑠璃子は、その京介の背に寂しさを感ずるのだった。瑠璃子は超特急で洗い物を済ませ、京介のわきにしゃがみ込んで、京介の背中に手をかける。京介は瑠璃子の方に面を向け、にっと笑うのだった。その皺に包まれた面の中に、高校時代の溌溂とした顔が浮かび上がる。瑠璃子は甘えるように京介にすり寄っていって、背中に頬を寄せるのだった。

 幸せな時が流れ、また桜の季節がやってき、瑠璃子の化粧品やパジャマが当然のように京介の家に置かれた。夕食の時はいつも京介がワインを注いでくれ、「瑠璃子に乾杯」というのだった。時にはシャンパンの時もあった。そして毎夜京介のベッドに入れてもらい、小柄な瑠璃子は京介の脇の下で丸まっているのだった。

「瑠璃子は猫のようにしなやかだ」と言って、京介が互いに一糸もつけていない体で、呟くこともあった。ああこのようなことが、あこがれ渡った十八歳の時に起こっていたら、どんなにか幸せだっただろうと、涙が浮かぶ。京介には、その思いはないとわかっている。この人は私のこと何とも思ってなかったのだから。京介を恨む気はなかった。妻を亡くし、息子も海外でいて、孤独で寂しくなっても、自分を受け入れてくれないことだってあったのだ。むしろこんな婆さんを、おうちに入れてくださっただけで、感謝だ。瑠璃子は心身ともに、京介が宝石のようにありがたい存在だった。京介に好かれることのみを考え、甘えた。京介もいつも猫をかわいがるように、ベッドの瑠璃子を愛してくれた。

 もう、半月半月の生活は我慢できなくなあっていた。名古屋に帰っていた瑠璃子はくうに語りかけた。

「くうや、もう母ちゃんは、おじさんの所にずっと居たいの。くうもそれでいい?そうしたら母ちゃんは今よりももっと幸せになれると思うのよ」

 語りかける瑠璃子の膝の上で、くうは眠っているみたいだ。喉をごろごろ鳴らしてくれなかった。

 瑠璃子は拍子抜けした。くうは気が進まないのだなと。

 しかし、瑠璃子は京介と一緒に長年連れ添った夫婦のように暮らしたかった。

 きっと、くうは眠くて反応しなかったのよ。今度行ったら、京介に絶対言ってみるわ。名古屋の家を閉めて京介さんとずっと一緒に居たいと。

 もうあと五日待てば、京介さんの所にいける。その時にはこの家を閉めて京介さんと一緒になりたいと言ってみよう。瑠璃子の心は弾んだ。

 るんるん気分で瑠璃子は家を片付け始めた。

  その時携帯が鳴った。

  番号を見てみると、知らない番号だった。瑠璃子は不審に思いつつも出てみた。

「山本瑠璃子さんですか?」

「はい」

「こちら迫田京介の息子の迫田勉と申します」 

「は、はい」

「父は四日前に、お風呂の事故で亡くなりました。昨日葬儀も済ませました。父の日記にあなたのことが書かれていましたので、一報差し上げました。後、四、五日致しましたら、急いでシンガポールに帰ります」

「え、えっ!」

瑠璃子は腰を抜かして、座敷に倒れ込んだ。

「もしもし、もしもし、何かお話がありましたら、帰るまでにこちらにお出かけください」

「わ、わかりました」

瑠璃子は電話を切って茫然としていた。