新しい小説を始めます。どうぞお付き合いください。
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語学探偵・ユミ(スペイン語編)
プロローグ
「うーん、やっぱり難しいなぁ・・・。」
染矢有海(ゆみ)は、世田谷区内の閑静な住宅街にある分譲マンションの一室で、パソコン画面に映る電子書籍からふっと目を離して、テーブルの上の冷めたカフェオレに手を伸ばす。
有海はまあそこそこ売れている小説家である。ミステリーの短編が多い。
彼女は昔から謎解きが好きだった。テレビでも「名探偵ポワロ」だの「シャーロック・ホームズ」だのを好んで観ていた。
地元の大学では国文学科を卒業したが、それは結果的には役に立っているなと今振り返ると思う。元々は心理学を学びたかったのだが、彼女が住んでいた街には大学は4校しかなく、心理学科は存在しなかった。彼女が体が弱いため、家族も高校の教師たちも、県外への進学は全く考えていなかった。彼女自身も将来のことはさほど切迫していなかったため、何となく勧められるままに近隣の国文学科に進学した。
建設会社の資料室勤務を経て、五十代に、心の中に溜め込んだものを書き進めて小説にまとめたところ、それが評判となり、彼女は小説家を名乗るに至ったのである。
しかし今、彼女が頭を悩ませているのは小説のネタ探しではない。私的な理由でスペイン語を学び直しているのだ。
今年還暦を迎える彼女には匠という二つ下の弟が一人いて、彼が半年ほど前に再婚した相手というのが、南米育ちの日系人女性・エステルだったのだ。
エステルは、南米の比較的暑い地域で育ったが、別の日本人男性との結婚を機に20年前に来日、その後離婚して、有海の弟・匠と出会って再婚した。前夫との間に娘がいるが、エンジニアの職を得て現在は名古屋市内に住んでいる、とのことだ。有海も、二人の結婚式の時に引き合わされたことがある。黒髪の、明るい娘に見えた。
エステルは日本語にかなり長けており、有海との会話でも、ほとんどが日本語である。会話をするのにも不自由は全くない。
しかし、そうは言っても、母国から遠く離れた東洋の地で母国語を話してくれる相手が一人でも多ければ、やはり嬉しかろうと思うし、何よりも有海にとって外国語を話す機会ができたことは心底から好ましいことなのだ。
実は、有海には吃音がある。それ故にか、大学時代のフランス語とロシア語を皮切りに、1年に1カ国語のペースでNHKの語学講座はほとんど学び終えた。スペイン語もその一つだ。
しかし、記憶力はもう若い頃のようにはいかぬものらしい。単語がなかなか頭の中に残っていてくれない。自分が年を取ったことを改めて実感させられる。