前回より、家族について、経文にも御書の各所にも事例を挙げて、「親子となり、兄弟・姉妹となり、夫婦となるのも縮世の因縁に因るもので、遠く昔より具わるところであるから、決して一朝一夕の愛情や好き嫌いで夫婦になるものではない。全て過去世からの因縁であるから軽々しく考えてはならない」(取意)といさめられている。
現在自分がいると云う事は、古代の先祖から様々な因縁を辿って現在の自分に継続している事は疑う余地のない事実であるが、遠い先祖は知る由もない。一般的に知っているのは、祖父母・父母・自分・子供・孫の五代くらいであるが、それも祖父母や孫の代はよく判らない。
だから昔の先祖からどんな経過を辿って自分に継続しているのか知る由もない。日蓮大聖人は、御書には現在の親が子として生まれる時もあれば、夫婦が兄弟・姉妹・親族の時や、知人として生まれる時もあると述べられている。
どれほどの先祖がいるのか、自分たち夫婦を一代として、父母を二代として逆算して見ると、自分にも妻にも父母がいる訳だから、一代遡る毎に倍々に増えて行く。
二〇代まで遡ると104万8576人の直系の先祖がいる事になる。二〇代遡っても約500年くらいであろうか?僅か500年前後で100万人都市が一つ出来るほどの直系の先祖がいるのだ。
ここから一代遡る毎に200万・400万と物凄い数に増えて行くのだ。兄弟・姉妹等の傍系を計算すると天文学的な物凄い数字になる。
いずれにしても久遠の昔から様々な経過を辿って現在に至っている事は間違いない。
自分も含めてこれほどの先祖がいる訳だから、御書に「捨てる屍は須弥山よりも高く、流す血や涙は四大海の水よりも多し」とある。
久遠の昔からすれば決してオーバーな表現ではない。故に昔は教訓に「四海兄弟」と云って無縁な者はいない。
だから仲良くしなければいけないと云われた。それが朧気に知っていても五代くらいだから、「赤の他人だ」などと争いをしているのは嘆かわしい事である。
さて父母は過去背からの宿縁で子供に肉体を提供するだけで、その他は何一つ与える事は出来ないのだ。
時折り「子供は親を選べない」などと聞くが、因果の法則と因縁からすると、過去世の業因によって自分に最適な親を選んだ事になる。
故に各人の命も、宿業も、思想も、価値観も、人生観も、幸・不幸も皆違うのだ。だから子供は享楽の副産物でもなければ親の所有物でもない。それなのに世の親たちは自分の所有物か、享楽の副産物の様に思って、子供を殺したり、捨てたりする親がいる。それなら生まなければよいのに、と思うのだが、これも因縁なのである。
昔は何等かの事情で、どうしても子供を手放さなければならない場合は、福祉施設がなかったから、子供が無事に育って欲しいと願って、富裕な家とか、この人なら育ててくれるだろうと思われる人の門口にそっと置いて来たのである。
これを「捨て子」と云っていたが、現在の様に邪魔者扱いにして殺す親はいなかった。いずれにしても、それによって子は一生親を恨むだろうし、親は子を思って一生悩む事は間違いない。これも親子共に過去背からの業因である。続く。
