原爆3世

otoseデス。

 広島に原爆が落ちて今年、2026年8月6日で81年目を迎えるのだが…。


 戦争のイメージは、高齢の叔母に東京大空襲の話を聞かされてはいた。

 全てが焼け野原だったことや食べ物がない、馬が立ったままに焼けてお尻の部位だけ誰かが食べたであろう光景が忘れられない等、多くを聞かされた覚えがある。

 その叔母は数年前に95歳で他界した。

 昭和40年生まれの私にはもちろん教科書の上でしかない話だった。


 関東の商社勤務だった私は、旦那さんに出会って結婚して寿退社後、2年ほど広島に住んだ。

今はリニューアルされ綺麗に生まれ変わっている原爆記念館にはその頃はじめて入った。


 上のお姉ちゃんが産まれてから2年後旦那さんが関西転勤。転勤後すぐに息子ちゃんが生まれた。





 息子ちゃんが血液難病で生まれたことで、そこではじめて聞くことになるのだが。


 旦那さんのお父さん、(息子ちゃんからしたら祖父)が原爆投下位置から750メートルのところで被曝、ブロック塀によって自身は助かったが父や兄弟は亡くなっていた。火葬は中学生の自身がその場にて終えたらしい。旦那さんいわく義父はその時のことを昔から語りたがらないと。

 10年ほど前、亡くなる少し前に初めて戦争体験を文章にて記念館に寄贈したと後に聞かされた。

 義父は原爆手帳を持っているが、特に今まで何も病状が出なかったことや手帳は所得しなかったが旦那さんが被曝2世ということを知った。


 義父は、自身に被曝して何も出なかった。いつか何か?誰か?に出るんじゃないかとずっと思っていたらしい。

そして…。

 息子ちゃんが生まれ「わしのせいじゃ」と何度も繰り返していた。



 今は亡き義父ではあるが、義父のためにも、「なぜ?息子ちゃんが?」の問いに答えてあげたく、放射線影響研究所(放影研)に問い合わせをした覚えがある。

 放影研は国の機関だけあって「息子の病気は原爆が関係しているのでは?」の問いに…。

回答はさすがに冷たかった。

「原爆が関係しているか証明はできない。」と繰り返された。

それはそうだと。認めたら国の責任になってしまいますものね。現在でも同じ理由で3世は手帳を取れていない…。



 決して義父のせいではない。

全て戦争のせい。

原爆を受け細胞が傷つく可能性は、もう証明することは出来ない。

息子ちゃんが生まれて初めて遺伝子レベルで引き継がれ、今も戦っている気がする。80年経った今も戦争の傷跡がまだ続いているのだと。

義父が亡くなる前に伝えられたら…よかった…。



【話ちょこっと変わりますが…。】

若い頃銀座の占い師さんに占ってもらった時、私の生まれ変わりって「闘う戦士」だったらしい…(笑)

一瞬かっこいいって思ったけれど

前世は繰り返し休みなく何かしらといつも闘ってきたらしい…。

その時の占い…今もたまに思い出してしまうけど、生まれ変わった今世でも結局私は闘っている?って。ついつい思い出してしまう(笑)

いつかの時代に闘いが終結して成就出来るといいなー。って。









 残念ながら、30年前は今ほど障害への理解が広まっていないことが多く、障害児を産むと全て母親のせいにされがちでした。

現在でもまだまだではありますが…。


 まして田舎の嫁だったので(笑)

親戚中から離婚を薦められましたよ。旦那さんはいなかのおぼっちゃまで…。健常児を育てている間は120点の旦那さんだったんですが、息子ちゃんが生まれてからは、残念ながら0点でした。

そうですよね。障害児育てたことは通常ないですから。

Specialなことですからね。


 当初は嫁をかばうこともなく、伝書鳩のように言われたままに私に言うだけで。最悪な状態の方でした。

 亭主関白が当たり前の田舎なので、息子ちゃんが痙攣している時でもご飯の心配をさせられる事態で、私にしたら緊急事態でしたね。

 そんな私の様子を見て私の実家と親族からも離婚しろと繰り返されました。

 私にとっては「紙切れ1枚のことはどうでもいいです!」それより手を貸してくれーって!(笑)

 明日生きれるかどうかもわからない状況の息子ちゃんを前に、愛する娘ちゃんのために、私は理解なき親戚たち理解ない人々にはその時から私は鬼と化しました。(笑)



 もともと私は思っていることを言えない方で…。

ぐっと我慢することしか出来ない人でした。生まれて初めてあえて爆発させましたよ。頑張りました(笑)



 今のようにネットで調べることもなく、大手の書店で片っ端から病気のこと、これから関係あるようなこと探しまくりました。それでもやはりもともとが難病なので、生まれてまもなくは八重洲ブックセンターで分厚い数万円する医学辞書に病名くらいでしたね。わからないことばかりで辛かったですね。海外の症例まで必死に辞書で調べながら翻訳しながら…。探すことに必死でしたね。(笑)

 

 今は言えるようにというか言わないとって思えるのですが、もともと考えすぎる嫌いもあってその頃は言えなかったです。


 生きていくにはこの「辛かった」って言える環境がとても必要と思います。数年に渡って円形脱毛症が3回ほど続いて出来ていましたね。(笑)