こんにちは フローネです。
前回「人生の幕引き」の続きとなります。
入院している叔母が危篤状態だと
連絡が入ったのが先週の水曜日。
その日から毎日、面会に行き
叔母に色々と話をしています。
前回も言ったように面会時間が限られているので
たくさん話すことはできないけれど
今までたくさんしてくれたことや
私の叔母への想いを伝えています。
今日、看護師さんが
「息の仕方もあまりよくないの、、だけどね
なかなかいけないみたいで、、。」
って言っているのを聞いて
叔母の想いはなんなんだろうかと
改めて考えてしまいました。
先週はずっと
会いたい人がいるの?
なにかやりたかったことがあるの?
心配なこととかある?
などなど、いろんなことを聞いていたんだけれど
もしかして、もしかして
死ねないくらいの何かがあるのかな、なんて
考えてしまったりするのです。
もうそろそろだけど
お迎えがこないだけなのかもしれない
だけど、ここまで頑張るって
なんでなんだろう・・って思ってしまいます。
今日は、右目が少しだけ開いていて
眼球まわりの筋肉が微かに動いていたんです。
昨日までそんなことなかったのに
意識がちゃんとあるっていうか
私が言っていることがわかってる感じ
質問をしてみると
おおきなため息をして声を出してくれたり
絶対、意思の疎通ができていたと思う。
毎回、伝えているけれど
また今日も感謝の気持ちを何度も伝えて
また明日くるねと言って帰ってきました。
命の灯火が少しずつ細く細くなっているけれど
そんな中でも、停止していた体の機能が
動き出すこともあるんだな、と
少し嬉しくなった。
だからと言って
元気になってくるわけではないと
現実に戻って気持ちが落ちるんだけれどね・・💦
言葉は交わせなくても
そこには確かにその人の「これまで」がにじんでいるように感じます。
ふと、父のときのことも思い出しながら
「死に際って、その人を表すのかもしれない」と思いました。
穏やかな空気の中で旅立つ人。
最後まで強く在ろうとする人。
誰かを気遣うような表情を見せる人。
どれも、その人がどう生きてきたかの延長線にあるように感じます。
もちろん、すべてをわかったように言うことはできないし、
正解なんてない!とわたしは思う。
でも、こうして“最期の時間”に立ち会わせてもらっていると、
生き方はそのまま、最期の姿にもあらわれるのかな、と静かに思うのです。
だからこそ、
「どう生きるか」は「どう終わるか」につながっているのかもしれない。
今この瞬間を、どんなふうに過ごしていきたいか。
そんなことを、改めて自分に問いかけています。




