久々の更新は、ちょっと論文っぽく

 

明らかに成長したと感じる。それは考え方、すなわち脳や心の部分だろう。確かに経験や異文化理解等の体験や知識の向上は、実感しやすいし結果にも表れやすいので、今までもこれからもこのセクターにおいては、向上し続けるだろう。

 しかしながら、脳や心の部分の成長というのは簡単ではない。必死でもがきながらも目の前のことにも全力で取り組み、自分の内面に全力で向き合ったことが、あるひとつの境地にたどり着いたといえる。

 さまざまな人との出会いとさまざまな書物との出会いが相乗効果となって現れた結果、私にとっては数十年にも勝るものが得られたのではないかと感じている。

 この脳や心の部分の成長は、不思議なことに一気に現れる。徐々にではない。自分でもどう説明するべきかわからないが、レベルが急に上がるのだ。しかし、それは少しの努力で得られるものではない。あたかも、未確認の物質を追いかける研究のような、いつ結果が出るかわからないようなものである。複雑な要素が組み合わさり、最後はシンプルな物事に収束するというプロセスを踏んだような気がするが、そして恐らく、早く大成する人物はそれをいつの間にか会得している、もしくは早く気付いた人物なのであろう。

 しかし、私はこの28年間の寄り道が無駄だったとは一切思っていない。寧ろ誰も歩んだことのない道の一つだとして、誇りを感じている。何故ならば、それだけ他者の気持ちに近付くことができるからであり、より自分が情熱を傾けられることは何か、という可能性を一つ一つ潰していけることができたからだ。

 齢28にして、やっとあるレベルの境地にたどり着いたことに大きな喜びを感じると同時に次の登るべき高い山が見えようとしている。

 その山を見つける望遠鏡は私の心であり、そして、その山は確かに現実世界にあると同時に現実世界にはない。つまり、私の心の望遠鏡の焦点距離と現実世界にある非現実的な山とを結ぶ焦点距離が一致したとき、初めてその山が見える感覚だ。

 まだ、見えないが必ず見える。しかも、かなり近いうちに。

 

今は、28年掛けてやっとたどり着いたある山の頂上から見えるこの景色に浸りたい。

 

沖縄から得たもの

 

 沖縄に感謝したいので、この文章を綴りたい。

 沖縄は、私に生きることの厳しさと楽しさを、そして全てを受け入れる寛容さと忍耐を教えてくれた。特に生徒たちには、あまりに多くのことを貰った。彼らの姿は純であり、何者にも汚されていないものであり、すなわちそれは崇高なものである。歯に衣着せぬ物言いというレベルではない。そこには、地域性が現れ、その根底にあるうちなー魂が垣間見れる。

 うちなー魂とは何か?という問いに対しては、残念ながら定義づけるべきものではないので、ここでは綴ることもできない。

 言える事は、ひたすらに不安定で揺れ動くものであり、そして中心となる軸は一切ぶれないもの、ということなのだろう。不安定性ゆえの恒久。無重力空間の振り子ともいうべきもの。特異な地理的環境が生んだ産物であろうが、中継貿易の盛んな島の人々が持つべき精神的な拠り所ともいうべきなのだろうか? 敗戦を一気に背負った人々が、生き残るために培われざるを得なかったものなのだろうか?儚さと悲しさとの間に垣間見られるその誇りは、私の心を常に後押しし、無償の愛とは何かを教えてくれた。

力ではなく、権力でもない。本当の強さで何かに立ち向かう強さが欲しかった。その強さを持ってこそ、力や権力が生きるのだろうと思っているからだ。

この土地に生きる全ての命は、私にそれを教えてくれようとしている。もっと大きい人間になりたい。小事は全て笑い飛ばせ、小事の範囲は誰よりも広く、大事に関しての対処は迅速かつ大胆で、それを見極める目は常に鋭い。そのような人物になりたい。そのような人物でありたい。