Piano Lesson(ピアノレッスン)――言語で音楽を描写する
 
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[Kinderszenen][子供の情景]シューマンの難しさ

 先日のレッスンでは『子供の情景』Op.15-9を持って練習に望んだが、"手の効率的な動き"の話になり、急遽Op.15-6 "Wichtige Begebenheit"もレッスンにとりあげた。

 2小節のA:V→III/VII→IIIの部分。すなわち付点が着いている部分であるが、Vに相当する和音をペダルで音を伸ばし、次に打鍵する和音まで手をその時点で移動し、次の次の音までの運動を頭の中できちんと描いてから弾く。そうでないと、手が忙しすぎて、音の流れが阻害され、リズムがきちんと取れない。

 この曲では、同じ構造の部分が展開部前までに4箇所あり、音の構成のみを考えれば2箇所のみ。この部分をどう料理するかで冒頭部の演奏は決まってくる。

 なお3小節までのアナリゼは以下に記載した。続くアナリゼは宿題。
A: I-V-III/VII-III-V/II-V/V-V
A :Cis-mol:E-dur

(下線部;Cis-moll→E-durに転調していることを示す)

アナリゼをしてみると転調のすごさがわかるし、こういった変則的変態的転調をするシューマンの楽曲は理解しないと弾けない。

[Kinderszenen][子供の情景]Op.15-9

R.Schumann(シューマン)の"Kinderszenen"Op.15(『子供の情景』)より。

第9曲目"Ritter vom Stecknpferd"と第6曲"Wichtige Begebenheit"を題材にレッスンへ。使用楽譜はHenle原典版。

"Ritter......."について。
事前の譜読み+練習にて注意した点は、対位法的に弾くこと。対位法的構造を意識的にひきわけること。
そうでなければ、ただただうるさくなってしまう(師匠が仰るには「バカみたい」になってしまう)。

1小節―4小節は、
G-Fis-G-G-G-G
E-Dis-E-C-H-C
/C(bass) の3声。
5-8小節は、E-F-E-C-D-E-C/G(bass)の2声。
いずれもバスはそれほど強調せずに内声部をうまく鳴らすことに腐心した。

レッスンでは、音楽的な解釈よりもむしろ演奏における技術的な問題を指摘していただいた。基本的に、よい演奏家の演奏を観ていて気がつくのは、例えば、剣道の達人や防御のうまいボクサーのように、余計な動きがほとんどないこと。
今回のレッスンにおいては、主に運指と手の運動が問題だった。
運指は言うに及ばず、手の移動距離が大きくなればなるほど、演奏制御能力が落ち、安定性に欠け、次に弾く音の準備がおろそかになる。

"Ritter......"9小節以降の手の動きに注目して、
(1) 左手 9-12小節のバスパートの旋律を一つの構造として演奏し、
(2) 12-13,13-14,14-15,15-16小節にそれぞれにまたがる音群を(手の動きとして)一つの構造としてとらえる。(譜面を持っている人は譜面をご参照ください)

これらのことに注意するだけで手の余計な運動が抑えられる。

[Memo][Compose]作曲

浮かんだ曲想をとりあえず書き留めて、しばらく放っておく。たぶん文章と同じである程度は書き続けなければうまくならない。才能がなければある程度しかのびない。まあそんなものだろう。どうしてもたどりつけない領域/境地というのがあるのだ。選ばれたものしかみることが出来ないもの。選ばれたものは消耗しすり減りながらもそこをうつしとらなければならない領域。選ばれたのかそうではないのかの判断は、100年以上のときの審判が必要。従って、単なる私といった個はそういったくだらないことを考える必要はない。ただただ赴くままにやること。

世の中にこれほど才能豊かな人がたくさんいて、実際にそういった類い(といっては失礼だが、要するに与えられた才能を持つ人)の人に私淑していると、その幸福をありがたくおもうとともに、いくら時間があっても足りないと思う。

少しずつ書きためて、考えていくこと。

ドラクロワがショパンに、「音楽においては何が論理を定めるのか」と尋ねたところ「それは和声と対位法だ」とショパンは語ったという。「フーガは音楽における純粋論理のようであり、フーガに精通することは音楽における全ての論理的前提と帰結についての基本的原理を知ることになる」と。またモーツァルトを例に挙げ、「どの部分にも手順というものがあり、全てが他の部分との調和を保ってメロディーを形作り、手順を完全に踏むのです。それが、対立法、(すなわち)プント・コンタラプントなのです」と言ったそうだ。

あくまでも極めて限定された、かつ、幅広い領野において、部分と全体を有機的に作り上げるか。それは単に音楽ではなくある意味生命の表出である。

グレングールドのバッハを聴きながら思うこと

Glenn Gould; Partita IV in D-dur BWV.828
http://www.youtube.com/watch?v=sfFKjgREXJk&feature=related

グレン・グールドが演奏するバッハのパルティータ D-dur BWV.828.を楽譜を読みながら聴き/観ていておもったこと。

グールドはほとんどペダルを踏まない。
バッハの演奏というのはそういうものだと思っていた。しかしいろいろな人の演奏を聴き、さまざまなスコアを読んだりしているうちにそれは主流ではないということに気がついた。

そもそもグールドの演奏自体は非常に素晴らしいものであるが、オーソドックスではない。オーソドックス云々という話は、演奏についての概念が変わ るたびに演奏法の評価基準がころころかわっていくので、あまり重要ではないが、グールドはクラシックのピアニストとしては異端であり、それと同時に彼の バッハはone and only の演奏である。

何故か。

低い椅子に座ることで必然的に手(腕)の位置が低くなり、手のひらは大体において鍵盤より低い位置におかれる。
そして、おそらく、ピアノはチェンバロのように触れるとすぐに音がでるように密に調整されているのだろう。彼のピアノは、下手に引くとすぐに二度うちに
なってしまうことで有名である(インヴェンションとシンフォニアでは二度打ちしているのを聴くことができる)。

ペダルを踏まないゆえに、フレーズのアーティキュレーションや音楽の表情のすべては、手の運動とそのように調整されたピアノによって決定される。

ピアノの演奏において、ペダリングはかかせない。
逆にいえば、グールドのような演奏スタイルのピアニストは、ショパンやシューマンといったロマン派の作品を演奏することはないし、実際いわゆるピアノ曲の録音はほとんど残されていない。

彼の演奏を見ていると、ペダルを踏むことは、踏まないことと同じように難しいことだと感じる。極端なことを言えば、減衰音しか出せないピアノとい う楽器の特性をぎりぎりまで抽出したともいえるし、オルガン奏者だった影響もあるのかもしれない(これはリヒターやコープマンの演奏を見ていると、オルガ ンという楽器の特性とそのための演奏法、ピアノ演奏との差異を感じることができる。)

KoopmanとKarl Richterの演奏(オルガン、チェンバロ)
T. Koopman: Nun komm, der Heiden Heiland BWV 659 - J.S.Bach
http://www.youtube.com/watch?v=d9mEI28XR7c&feature=related
Karl Richter - Bach - BWV 915 - Toccata in G-moll
http://www.youtube.com/watch?v=N5JD-HejeWg
J.S.Bach-Toccata e Fuga BWV 565-Karl Richter
http://www.youtube.com/watch?v=Zd_oIFy1mxM&feature=related

virtuosoと評され、演奏の映像が公開されたときは同じく「邪道」と評されたVladimir Horowitzは、グールドのそれとまったく異なったベクトルで表現されている。

やはり頭の中でどういう音が鳴っているかがすべてだ。
旋律をどのように弾けばどのように響くかをしること。
ピアノの演奏はやはり身体性の要素が大きい。
まず概念ありき。概念の運動たる身体性を鍛えよ。

[CD]コルトーのマスタークラス

巨匠アルフレッド・コルトーが晩年期の1954年から60年にかけて、パリのエコール・ノルマル音楽院で行った講義録。

もともとコルトーは、作曲家になりたくて挫折し、指揮者になろうとして見習い指揮者までこなして、これまた挫折。食うためにピアニストになったという人だが、挫折したおかげで巨匠の演奏を聴くことができるのだから、運命というのは皮肉なものだ。

19世紀の巨匠の演奏を聴いていていつも思うことは、音楽を表現するということが、単に演奏するということだけではなく、音楽全体を表象していることだ。

コルトーの場合、作曲家、指揮者を志したということもあり、演奏家としてだけではなく、音楽をあらゆる側面から眺める資質がもともと備わっていたのかもしれない。

音楽表現以外にも、執筆、講演、講義などにも旺盛に取り組み、音楽の教育、普及にも尽力したといわれている。

このようなコルトーの姿勢が、この講義録にも現れている。

晩年の演奏故か、講義録といういわば非公式の録音故か、その演奏ではさすがに全盛期の輝きは失われ、ミスタッチも多い。
しかしそんなことはどうでもいいことのように思えてしまう。
むしろミスタッチがあるゆえに、音楽の表情がよりはっきりと際立ってきているような気さえする。

この録音は非公式の録音であるから、ミスタッチ云々というのはこのアルバムを評する上では意味をなさない。コルトーの珠玉の演奏をきくのであれば、正規録音盤を聴くべきである。
しかしそれらを差し引いてみても、コルトーというピアニスト/音楽家は、タッチや音、音質ということ以上に、音楽表現、とりわけ「よく歌うこと」 を追求した人ではないかと思う。まるで「ここでこの音を弾かなければならない必然性があり、そのためにはミスタッチも厭わない」というくらいに。

ピアノを演奏していて思うのは、音質を極めることと、朗々と歌い上げることを両立させるのはきわめて難しい。

公式に録音が残されていないバッハ(パルティータNo.1 BMW825)、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ(Op.110)、ショパンのマズルカ、またシューマンの"fantasie op.17"など、内容もさることながら、コルトーの音楽教育および演奏の姿勢が細かく記録されており、ピアノを演奏するものにとっては大変貴重な記録。

学生に向けて話している内容も、翻訳されライナーノートに掲載されているので、公開講義をみているようでもある(ただし、学生の演奏などはカットされているため、コルトーがどんな演奏に対してどのように指摘しているのかはわからない)。
すばらしい記録であり、ピアノをひく人には是非聴いてほしいアルバム。

[CD] The Last Recording. Vladimir Horowitz 


1989年11月5日、心臓発作のため85歳で逝去したウラディミール・ホロヴィッツの最後の録音。このアルバムは自宅に録音機材を持ち込み、89年10月20日から同年11月1日まで自宅録音されたもので、文字通り<白鳥の歌>である。
死の直前に録音された、とも言えるし、この作品を録音してからこの世を去ったとも言える作品。
晩年になりホロヴィッツは今までにあまり演奏されなかったモーツァルトをレパートリーに取り上げるようになった。とはいえ、公式に発表を許さなかっただけで、おそらく彼が得意にしたショパン、スクリャービン、スカルラッティのように長いあいだ弾き続けていたにちがいないのだが……
このアルバムには、ハイドンのピアノ・ソナタ、そして生涯弾きつづけた作曲家であるショパンのマズルカ、即興曲、エチュード、ノクターン、バッハ=リストのカンタータ、ワーグナー=リストの『トリスタンとイゾルデ』より「イゾルデの愛の死」が収録されている。
軽やかなハイドン、透明で触れれば壊れそうなほど繊細な演奏であるにもかかわらず荘厳さと静けさが溢れるショパンは、全盛期に聴くことができるあの異常な、悪夢のような、悪魔のような、妖艶さあるいは触れれば発火するほどの蒼い炎はもはや失われているものの、その時代には表現できなかったであろう静けさが漂っている。まさに境地とも言える。
そしてリスト編曲によるバッハのカンタータとワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』はこのアルバムのハイライトである。テクニック的にも、音色も、そして通奏低音として響く静謐と荘厳は、まさにスワンソングにふさわしい。こんな怖ろしい演奏をするのは、まさに命を削るようなものだったのではなかろうか。

[レッスン記録] ショパン マズルカ Op.67-2

引き続きレッスン記録を記す。
ショパンのマズルカ OP.67-2より。

ペダリング、中段のアナリゼ、ソロパートは大体仕上がった。(楽章は後述します)
この日は装飾音の弾きかたについて集中的にレッスンを受けた。

装飾音はあくまで装飾音であり、楽譜上でも他の♪と比較して小さく描写されているが、演奏時にどうしても装飾音に気がとられ、装飾音というよりむしろメインフレーズのように弾いてしまうことがある。

例えば、マズルカOp.67-2の冒頭部:


♪ : ♪♪♪:

と記述されているテクストでは、すべて同じ♪であるが、装飾音符がついていることでそこに意識が集中してしまう。

そのため、
♪♪♪♪ではなくて、
.♪♪♪のように、すなわち附点がついているように弾いてしまう。

半ば手が自動化しつつある段階でこういう悪い癖を矯正するのはなかなか難しい。頭で音を鳴らし、イメージを作る。
そして、フレーズを右手と左手で、ただし、左手は装飾音をつけずに弾くと、右手と左手のフレーズの長さ、リズムの狂いが顕在化する。
しばし、この方法で練習し、再び頭の中でイメージを作り、再度練習する。

一度弾けてしまえばなんということはないのだが、<とらわれた状態>にあると、なかなか見えてこず、弾けなくなる。
あたかも錯視のように。


[レッスン記録] ショパン マズルカ Op.67-2 -- ペダリングについて

ショパンのマズルカ、Op.67-2についてのレッスン記録。

およそ1時間弱、大体45分程度のレッスンを意義深いものにするためには、その短い時間内でどれほど集中し、そして内容をfocusingすることができるかである。

この日は、シューマンの『子供の情景』Op.15とショパンの『マズルカ』Op.67-2を持っていった。一つの作品を数回に分けてレッスンをつけてもらい、仕上げまで持っていく。レッスンとレッスンの間に問題点の補強、新たな問題点の抽出、練習、というサイクルを繰り返している。

今回、ショパンのマズルカを弾くにあたって、主にペダリングに重きを置いた。
楽譜はパデレフスキ編のCHOPIN Mazurki を使用。

ペダリングの際に基本的な注意点として、
○ 打鍵してから踏む
○ 和声/和音が濁らないようにこまめに踏みかえる。その際ペダルを踏む深さは楽器に依存するが、1.5-2.5cm範囲内で十分だと思う。この範囲内で踏むというよりは、ペダルを踏んだときにどの程度音が響くのかを注意深く聴き、楽器の性質をよく理解して、ペダル本来の機能である音が減衰する時間を延ばし、響かせ、かつ流れるようにフレージングできる程度でペダリングをするためには、せいぜい1.5cm程度の上下で十分かと思われる。
○ 減衰音しか出せないピアノという楽器の特性を鑑みて、あたかも歌うように弾くためにペダルを使うという点を常に意識して、自分の音をよく聴くこと。

楽譜に記載してあるペダリングの記号はあくまでも参考にとどめておく程度のほうがよいのかもしれない。というのは、けして原典版をないがしろにしているのではなく、記述上の問題である。

ペダリングと一口に言っても、「どこで」(例:フレーズのはじめの音の打鍵直後、など)「どの程度の深さで踏み、どこで離すか」といった細かい指示を楽譜で表すのはとても難しいことだし、ピアノ演奏上ペダリングだけ独立して扱える問題でもない。あくまでも幾つかの原則があるにせよ、ペダリングそのものは、いかに表現するかの手段の一つで、それだけで音楽が創られるわけではない。

逆に言えば、こうした還元できないテクニカルな要素であるがゆえにペダリングについて書くのは難しいともいえる。結局のところ、楽器演奏といったものは、師弟制度のもとで伝えるのが一番効率がいいのかもしれない。

[練習] 演奏スタイルとレパートリー

シューマンの『子供の情景』(op.15)とともに、いくつか小品を練習し、師に聴いていただいている。いわば、二本の線を描くようにレッスンに望み、練習を少しずつ重ねている。

一本の線は、シューマンである。
シューマンの音楽に特徴的な、ある種、躁鬱病的な激しい高揚感とロマンティシズム/メランコリックが同居した面にとても惹かれる一方、その音楽的な難しさ(或いはピアノ演奏上の難しさ、あるいは一種偏執狂的な精緻さ)にいささか辟易している。それでも、この作品を、師につきながら、全曲通して弾いてみたいと願う。

アルフレッド・コルトーの録音においてたかだが15分ほどに過ぎないこの小品集は、ピアノ演奏における技法/ピアニズムの宝庫であるが、ギミックの多い構造は、単に歌うように弾くことを許さない。それと同時に歌うように弾くことも求められる作品である。

こういった練習方法は、読書に譬えれば精読に近い。
精読ばかりしていると疲れてしまうし、他の本も読みたくなる。
そこでもう一本の線として、ショパンのマズルカを選んだ。
民族舞踊を原点とし、ショパンがロマン派芸術作品まで止揚したこの小品群は、けして簡単ではないが、弾きやすいように思う。

とはいえ結局のところやはり精読になってしまうのだが、シューマンの作品もショパンの作品と比べようがないくらい好きであるにもかかわらず、弾きやすさ/弾き難さ、或いは、頭に入りやすいか否かという違いがあるようだ。少なくとも僕にとっては、シューマンよりもショパンのほうが体になじむ。

ピアニストによってレパートリーがあるのは、個々のピアニストの好みもあるのだろうが、優れたピアニストは何を選んで弾けば個々のピアニズムをもっともよく表すことができるかをよく知っているのだろう。

例えばグレン・グールドのような演奏スタイルは、オーソドックスなピアノ演奏法からみればかなり特殊ではあるが、バッハを弾くためには極めて合理的である(逆に言えば、あのスタイルではショパンを弾くのは難しい。グールドがショパンを弾くとは思えないが)。

またヴラディミール・ホロヴィッツは演奏スタイルの変遷こそあれ、そのレパートリーは晩年にモーツァルトを録音したことを除き、その生涯でほとんど変わっていない。リヒテルのように、幅広いレパートリーをもつピアニストは例外として、体になじむ作曲家や作品というのがあるようだ。

今はまだレパートリー云々の時期ではないが、何が向いているのか、あっているのかを知るのが大切なことは、ピアノ演奏においてだけではない。




[レッスン記録] Schumann Kinderszenen op.15

■シューマンの『子供の情景』(op.15)

シューマン『子供の情景』より"Fuerchtmachen"(op.15-11)

以前、12月25日にも書いたことをゆっくりと身体化すべく研究する。


<楽譜4段目の21小節から28小節目のいわばこの小品の主旋律部:フォルテシモの指示がある演奏される冒頭部、すなわち、H-(C)-A-(H)-Gを左手(D-(E)-C-(D)-H)と右手が協調して弾き、括弧をつけた音をパッセージ・ノートとして弱拍で弾き、かつ、小粒に音を弾き分けなければならないのだが、なかなかうまくいかない。>


この部分がどうしてもうまくいかない。なぜか頭にすっとはいってこないのだ。何故うまくいかないのか?を考えてみる。


右手単独では演奏できるし、左手だけでも演奏できる。だが、両手であわせようとするとなぜか粒がそろわない。片手だけで演奏するのと両手で演奏することのちがいは、単に1+1=2ではないことを示唆している。


左手の運指は、バスパートは5の指の持続音、(D-(E)-C-(D)-H)は2-1-2-1-3だ。

まずは、D-C-Hの音を、2-2-3の運指で両手であわせる。

次に、付点をつけて弾き、(♪. ♪)ゆっくりあわせる。

次第にテンポを速めていく。

そしておなじところでつっかかる。

まったく、ここまで弾けないと不思議で仕方がない。


指の運動だけを考えれば、左手の小指がGの鍵盤をおさえ続けていることによって、3-2-1の指の運動がうまくいかないように思える。指がそれぞれ独立しておらず、もたついているようにさえ思える。それぞれの指が独立して動くように辛抱強く練習するしかないのかもしれない。


シューマンはその著作の中で、作曲をする際にピアノを使うと作曲者の手癖が出てしまうので、ピアノを弾きながら(あるいはピアノを用いて)作曲するのは避けるべきだと書いているそうだ。シューマンは頭の中で音を組み立て、それを譜面の上に記号化していたらしい。一方ショパンは、ピアノを弾きながら作曲していたそうだ。


いい悪いはともかく、シューマンのこういった作曲スタイルが、演奏技法に及ぼす影響は大きい。もしシューマンが、ピアノを用いずにピアノ曲を作曲していたのだとすれば、なるほど、このあまりにも考え抜かれた和声構造や旋律、ひらたくいえば、頭でっかち的なところ、それが作曲技法上の精緻巧妙さや構成上の面白さになるのだが、弾くほうとしては技巧的/技法的にすぎて弾きにくい(と思える)のはもっともだともいえる(この際、演奏者の技術不足は否めないのだがこのことは脇においておく)。

 

例えば、『子供の情景』の「おにごっこ」("Hasche-Mann")の3段目もそういう意味では似たようなもので、僕にとってはあまりに技巧的すぎてすぐ忘れてしまう。頭に入っていないのだ。要するに暗譜ができていないということではあるのだが。

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