幸せとはなにか、という問はおそらく多くの人が一度は考えたことがあり、
答えを出したり出せなかったり、出さないことを答えとしてきたテーマだと思います。
答えのない哲学的な問を扱うときに、「〇〇とは、XXではない」という形が使われることがよくあります。
たとえば、
・幸せとは、お金/富/名声ではない
・幸せとは、恋人/結婚ではない
のような解はだいたいの人がたどり着くのではないかと思います。
ここから、
・幸せとはお金があることではないが、お金で避けられる不幸はある
・幸せとは結婚することではなく、互いの努力によってその結婚を幸せにするのである
のように発展することもあると思います。
最近私が考えることは、
「幸せとは、かけがえのないものではない」
です。
もっと言うと、かけがえのないものであるべきではない、あたりまえであるべきだ、です。
幸せとあたりまえについて考えたことを書いてみようと思います。
※惚気と転職成功の話がでてきますので、
その結論に脱力してしまう方は、ここから先の理屈っぽい長い文章を読み進めることを推奨しません。
うるしーの近況はどうでもよくて、考えても考えなくてもいいことをこねくり回すのが好きな方、
ぜひ続きを読み進めてください。
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「あたりまえだと思っていた日々がかけがえのないものであったと気付いた」
よく見るフレーズだと思います。
だいたい、卒業/別れの場面か、不幸に見舞われた/誰かの不幸を目の当たりにした場面ででてくるかなと思います。
幸せをあたりまえに享受していた日々は、幸せを実感することがなかったとしてもそれは幸せであり、
幸せがかけがえのないものであったと気づいてしまった瞬間、幸せと不幸を強く意識することになります。
近しい人と離別したときや、スポーツ少年が外で遊べない虚弱体質少年に出会った、みたいなケースです。
このフレーズをひっくり返してみます。
「得られないと思っていたものは、実はあたりまえに得られるものだった」
これが幸せになった瞬間なのかもしれないと思ったのです。
私は新卒で入った会社を1年半で辞めて現職に勤めているのですが、
お給料が変わらないのに、マネジメントしなくてよくて、優秀な上司や先輩にまだまだ教わる立場でいてよいこと、
下積みからできて、わからない業務はなんでも相談できる環境があることに感動しました。
こんな働きやすくていいんだろうか、こんな成長環境をもらえていいんだろうかと
「幸せ」を意識して、噛み締めていたはまだ呪われていたのだと思います。
本来2年目なんて、下積みだし、まだまだ教わって吸収して成長していかなければならない人材だし、責任をとってくれる上司がいるもので、
これらは本来あたりまえに享受できるものなのです。
これがあたりまえの環境に来れてよかった、と思えたときに呪が解けたと思います。
入社して4ヶ月目になる今では、この環境にとても感謝はしていますが、幸せを意識することはありません。
もしかしたら、1年目から裁量権持って働きたい、マネジメントまでやってみたいという人にとっては、
それがあたりまえに与えられる私の前職のような職場が幸せになるかもしれません。
いずれにせよ、焦がれるものではなく、あたりまえに得られるものであるべきなのです。
今お付き合いしている恋人は、私があれ見たいこれ食べたいと言ったものにたいてい付き合ってくれるのですが、
大学院生の頃お付き合いしていた人はとてもこだわりの強い人で、頑なに植物を見に行くことを拒否する人でした。
桜の季節と紅葉の季節に必ず思い出すのですが、お花見デートを近所の道路を5分散歩するだけまで譲歩してもなお、
頑なに拒否され、丸一日押し問答する(5分散歩するほうが絶対楽なのに)ということもありました。
(彼と当時の私の名誉のために言っておくと、彼との日々もとても幸せな日々でしたが、それはまた別の機会に)
今の恋人と付き合い始めたとき、
桜も、チューリップも、ネモフィラも、浴衣で花火も、自分の出演する吹奏楽の演奏会に招待も、
銀杏も、クリスマスマーケットも、誕生日旅行も、テーマパークも、テーマパークでカチューシャすることも、
ずっと焦がれていたことが、恋愛が夢物語だったときから憧れたことが、
あまりに簡単に叶うので、とても驚きました。
一方で職場恋愛だったこともあり、仕事終わりのラーメンデートだけはどうしても叶わず、
些細なのに叶わない夢に、焦れるような思いをする(=呪われる)ことにもなりました。
結局、こういったものはどこからかバレてそして広がるもので、
職場で冷やかされすらしないほど公認になったころに、ラーメンデートもできるようになりました。
そんな日々で気づいたことは、
些細な夢ほど、叶わないときの痛みが大きく、
些細な夢は、いざ叶ってしまうとなんてことないことでした。
些細な夢を叶えようとする営みは、
あたりまえに得られるものが、あたりまえに得られない不幸をつきつけられることと、
あたりまえに得られるものを、やっぱりあたりまえだったね、たいしたことなかったねと確認することでした。
この確認作業こそ、呪いを解くことであり、幸せへの一歩になるというのが、今回私の言いたいことです。
幸せをくれる相手への感謝をすることはもちろん必要であり重要なことですが、
その幸せをかけがえのないものとして、それを得られない状態にある人と同じくらい焦がれるのではなく、
あたりまえのことを、あたりまえに享受することこそが、幸せな状態だと思うのです。
享受しているしていないにかかわらず、感情が揺さぶれられているうちはまだ呪われていると思います。
これは余談ですが、
この気付きを得たあと、私は妙な自責と自己犠牲をしなくなりました。
自分の持っている幸せを持っていない人がいることが、自分が幸せになってはいけない理由にはならないと気づいたからだと思います。
また、自分の持つ幸せに感謝することと、これを享受することに申し訳なさや後ろめたさを抱えてしまうことはまったく別物であると気づいたからだと思います。
これからも感謝だけは忘れず、呪に負けないように、あたりまえの幸せをあたりまえに享受する、
そんな幸せ純度高くつつましい日々を送りたいと思います。

