2009年12月22日 講談師:田辺一鶴さんがお亡くなりになりました。81歳でした。
僕と一鶴さん。さくまひでお君は僕の友達でした。
僕の実家は喫茶店です。EAST東京の陸の孤島「平井島」にあります。
2006年11月 僕の親父(ろまんていのマスター)が死にました。
店が開かなくなりました。
僕は自分の仕事がフリーランスだったこともあり、ある決意をしました。
「店をなんとかしよう。店は潰したらもう開けられない。。対してフリーランスな俺はなんとかなるかな?」と、、
実家の仕事をしながら、自分の仕事をしていました。
「店舗に人が集まるためには町に通りに活気がないと、、」
僕の住んでいる町はもともと下請けや製造業を中心とした工場街でした。
近年、土地の確保が比較的簡単なので集合住宅が増え、とても人口が増えました。
商店街はそんな方々の利用でなんとかまだ生きています。が、活気は薄かったです。
僕は怒りを持って行動しました。そうしないと身体が動かなかったのです。
実家の掃除なんてほとんどした事がなかった僕は「何故?」と思いました。
「なんで俺がこんなことしなけりゃならないんだ?」と、でもそれはかつての僕が決意してしまったのです。。
2008年 夏のある日、、
僕は徹夜の仕事がはけ実家の前でぼんやりとリズムについて考えていました。
「1ぱくを任意の時間として仮定し3と2の倍数で、、、、とするならルーツなリズムからノイズテクノなリズムも、、、」
そんな事を考えながら太鼓をダラダラいじくっていると、
「何を考え何をしているんだ?」と田辺一鶴(以下いっかくさん)です。
なんだこのじいさんは?
そうだ、、古本屋のじいさんだ。。
僕は親父が死んでからのいろいろを彼に話しました。
平井島と商店街と住宅街、カルチャーと東京下町、離島と大陸。。そしてメディア。
いっかくさんは自分は講談師という職業であると言いました、
講談って?と聞くととりあえず魅せてくれました。
僕は彼をファッションモデルにできないかと考えました。
イメージ先行のファッションではなく、ガチなどうしようもない不良ジジイです。
ひさびさに出会った好みのビジュアルであると僕は感じました。
とりあえずは友達になることにしました。
いっかくさんはどうやらやりたいことがあるようで、こう言いました。
いっかくさん「来年80歳なんだ、そんで記念寄席をやりたいんだよね。」
僕「いいじゃん、やった方がいいよ。んでいつから宣伝すんの?」
いっかくさん「2週間前には、、。」
僕「いやいやとりあえず今から動こうよ。俺手伝うよ」
いっかくさん「なにからやろっか?」
僕「とりあえず考えとくよ」
彼は町を良く見ていました。平井島を見て、人の流れを良く見ていました。
老舗中村屋そしてカズンにコモディが加わりスーパーの三角地帯の真ん中にある喫茶店に目を付けました。これは僕も考えていた事なので少し面白くなりました。
店のカウンターのはじっこに彼の居場所をオーナーが用意しました。
この店は先代の親父が死んで、母親が継ぎましたがまだ不安定でした。
僕はこの店にカルチャーをと考えていました。
これは親父のともだちである染ちんさん達が言っていた事でもあります。
以前からお世話になっている代理店の方がポケットカルチャー「ポケカル」を立ち上げたとたまたま話が来ました。「僕の地元に講談師がいるよ、爺さんで面白いよ」そう彼女に伝えると、是非一度会いたいとの事で、とりあえずは一鶴さんの寄席を企画しました。
ここからが僕の知っている田辺一鶴最後の一年です。
ポケカルさんは一鶴さんを大事にしてくれました。これは本当に感謝です。
人が集まるかどうかもわからないロートルの講談師の寄席を読売新聞に広告しました。ぜったい赤字です。でも一鶴さんに何かをみたのか感じたのか行動してくれました。結果これが彼の転機です。
その広告を見た方々から仕事の依頼がやってきました。もしくは一鶴さんが現役であると知り良い仕事がいろいろやってきました。古くから彼を知り、彼の事を気になっていて好きな人が沢山いたのです。
彼は喫茶店のカウンターで原稿用紙に向かって書き物をし、いろいろな年齢の人といろいろな職業の方とお話しをし、時にはショートの講談をみせたりしました。最初は「なんだ?」と思っていた方もだんだんと田辺一鶴にさくまひでおを見るようになりました。
僕との絡み
ポケカル寄席 2回
ろまんていでの寄席 3回
喫茶店で写真撮影 1回
これだけだったのですが、彼は僕にとってとても良い友達でした。
ろまんていでの寄席は常に満員でした。そしてお客さんは楽しそうに帰って行きます。
それをみて彼はまた楽しそうでした。僕は感心しました。エンターテイメントとはこういう事か、、。
ろまんてい寄席は金にならない仕事です。この町のためにそして自分のためだと彼は言っていました。
たしかに365日この町から出ない人がいる。平井島は陸の離島で孤島かもしれないな。。
僕の婆さんは息子を亡くしいつも悲しんでいました。でも、
「ほらほらオバアちゃん」といっかくさんに言われ憤慨していました。そして寄席では笑っていました。これが彼の講談という芸の一部なのだとそのときに確信しました。
芸人とは辛いぐねった一本道であると僕は思います。どんな仕事も大変で難しいと思いますが、彼のその考えと行動を考えると僕にはできないなーと今でも思います。彼は講談界では異色なようで、人によっては講談という芸を値下げした男として蔑む人もいます。僕はそうは考えません。普及と認知に関して彼は裏で下支えし、そのカルチャーをとても愛していました。
僕のみる一鶴さんはひでおクンです。
僕自身、ハタチにころ仕事について凄く悩みました。
撮影スタジオに電話しても「専門学校以上」にはばまれ、「口の聞き方が無理」などの理由でどこにも入れませんでした。今考えれば当たり前の事なのですがそのときはどうして良いか全く解りませんでした。それまでの経歴は高校卒→平井ひまっこ倶楽部→ユニットバス施行見習い→何でも屋(掃除、犬散歩など)
そんな僕は自分で仕事をする事に決め、編集プロダクションやたまたま出会った出版社からカメラマンとして仕事をもらい生活できるようになり結婚しましたが、写真に振り回されて離婚しました。
家族にとって一鶴さんのような芸人は大変な存在だったと思います。彼はちょこっとだけ本音を漏らしていました。「このままじゃ家族にみせられない」「弟子が育つまでは死ねない」これはオトコノコとしての本音だと思います。僕もここ最近それを考えていました。自分が80歳の時にこんなこと考えられるかな?と深く考えました。。
2008年12月 写真撮影
そろそチラシを作ろうと考えました。
僕はビューティーを仕事にしていたのでとりあえずはメイクさんをよぼうと考えました。
今回のモデルは平井島在住の仙人です。
カウンター常連の駅前にある美容室の社長が美容師さいとーくんをまわしてくれました。
平井島産の美容室がスタイリングをし、
平井島産の喫茶店でそこの息子が写真を撮り
平井島産のモデルです。
めいどいん平井島
しかも撮影は観客つき、アースの美容師ちゃん2名が盛り上げます。
めいどいん平井4丁目
これがポスターチラシ制作です。
本人も気に入ってくれて自分の写真を再確認しました。
デジタルだのアナログだのどうのこうのよりも、その1カットを大事にしてくれる事は嬉しい事です。
店(実家)での僕の見方も喫茶店の息子からフォトグラファーになりました。
みんな親戚のおっさんおばさんみたいなもんで僕はいつまでたっても5歳児扱いです。
やっとサテンのガキからフォトグラファーと認識が変わりました。ちょっと楽になりました。
これが僕にとって一鶴さんからもらった最大のプレゼントです。
田辺一鶴80歳記念寄席
彼は亀戸のカメリアホールに目をつけ自分で予約をしてきました。チラシは両面で僕の撮影した写真と駅前にあるマスダ学園の息子さんの作った文字情報をのせプリントパック営業所に直に彼が伺い印刷しました。仕事に関しては全て自分でやろうと行動する人で誰の言う事も聞きません。NHKのアナウンサーだった友達にこーしてあーしてと喫茶店のカウンターで企画した内容は当日お弟子さん達の協力のもとすばらしい者になりました。自分で企画して、自分で交渉して、自分で歩いて、、セルフプロデュースで客が500人超えれば関心せざるおえません。これが夏に彼が言っていたやりたい事の一部です。
ちゃんこ鍋に招待された
両国で鍋をごちそうになりました。一鶴さんに飯をゴチになるなんて、そしてトゲトゲ感もないひでおくんは鍋の前でボソボソ語りました。自分の事、家族の事、弟子の事、友達の事、、、。
要約すると、息子に過度の期待をし続けるという決意ととても愛しているという事、そして弟子も同じように考えているという事でした。「結局、なんでも良いんだ。なにかでいつか身を立てられればそれがあれを呼ぶ」わかるような解らないような?でもとりあえずやりたい事が上手くいってごきげんなんだろうな、、。
最後のろまんてい寄席
客は満員、ゲストもよんで大にぎわい。しかもNHKの取材付き。
彼はお店に何かをしようとしてくれていました。それは十分にいただきました。とても、、。
田辺一鶴は地元に愛される講談師です。
その後、、
この辺で僕は僕の事で忙しくなりあまり実家にもいかず会わなくなりました。
彼の仕事が順調そうだと噂で聞き安心していました。
夏が過ぎて、墨田区の資料館で展示をすると言っていました。
来年の3月にロンドンで公演が決定していました。
弟子の駿之助クンにばったり会いました。
彼はめずらしく言葉荒げにどうしようどうしようとオロオロしていました。
どうやら秋になり一鶴さんの調子が悪いようでした。
彼は一鶴さんを自分のじーさんのように慕っていました。
僕が何か言っても「あの人はすごいんですよ、こーであーで」
一鶴さんも駿之助クンの将来を心配していました。
なんとか101歳まで生きないと、、、。
僕は講談という道も門というカルチャーもよくわからないのでなんとなく
心配しあう姿をみて一門とは良いものだなと思いました。
ずっと生涯現役と叫んでいました。じっさい生涯現役でした。
幸せな一生と思います。息子たちにみとられて享年81歳。
彼の最後の1年を部分的にでも見れた事に感謝します。
森山越
僕と一鶴さん。さくまひでお君は僕の友達でした。
僕の実家は喫茶店です。EAST東京の陸の孤島「平井島」にあります。
2006年11月 僕の親父(ろまんていのマスター)が死にました。
店が開かなくなりました。
僕は自分の仕事がフリーランスだったこともあり、ある決意をしました。
「店をなんとかしよう。店は潰したらもう開けられない。。対してフリーランスな俺はなんとかなるかな?」と、、
実家の仕事をしながら、自分の仕事をしていました。
「店舗に人が集まるためには町に通りに活気がないと、、」
僕の住んでいる町はもともと下請けや製造業を中心とした工場街でした。
近年、土地の確保が比較的簡単なので集合住宅が増え、とても人口が増えました。
商店街はそんな方々の利用でなんとかまだ生きています。が、活気は薄かったです。
僕は怒りを持って行動しました。そうしないと身体が動かなかったのです。
実家の掃除なんてほとんどした事がなかった僕は「何故?」と思いました。
「なんで俺がこんなことしなけりゃならないんだ?」と、でもそれはかつての僕が決意してしまったのです。。
2008年 夏のある日、、
僕は徹夜の仕事がはけ実家の前でぼんやりとリズムについて考えていました。
「1ぱくを任意の時間として仮定し3と2の倍数で、、、、とするならルーツなリズムからノイズテクノなリズムも、、、」
そんな事を考えながら太鼓をダラダラいじくっていると、
「何を考え何をしているんだ?」と田辺一鶴(以下いっかくさん)です。
なんだこのじいさんは?
そうだ、、古本屋のじいさんだ。。
僕は親父が死んでからのいろいろを彼に話しました。
平井島と商店街と住宅街、カルチャーと東京下町、離島と大陸。。そしてメディア。
いっかくさんは自分は講談師という職業であると言いました、
講談って?と聞くととりあえず魅せてくれました。
僕は彼をファッションモデルにできないかと考えました。
イメージ先行のファッションではなく、ガチなどうしようもない不良ジジイです。
ひさびさに出会った好みのビジュアルであると僕は感じました。
とりあえずは友達になることにしました。
いっかくさんはどうやらやりたいことがあるようで、こう言いました。
いっかくさん「来年80歳なんだ、そんで記念寄席をやりたいんだよね。」
僕「いいじゃん、やった方がいいよ。んでいつから宣伝すんの?」
いっかくさん「2週間前には、、。」
僕「いやいやとりあえず今から動こうよ。俺手伝うよ」
いっかくさん「なにからやろっか?」
僕「とりあえず考えとくよ」
彼は町を良く見ていました。平井島を見て、人の流れを良く見ていました。
老舗中村屋そしてカズンにコモディが加わりスーパーの三角地帯の真ん中にある喫茶店に目を付けました。これは僕も考えていた事なので少し面白くなりました。
店のカウンターのはじっこに彼の居場所をオーナーが用意しました。
この店は先代の親父が死んで、母親が継ぎましたがまだ不安定でした。
僕はこの店にカルチャーをと考えていました。
これは親父のともだちである染ちんさん達が言っていた事でもあります。
以前からお世話になっている代理店の方がポケットカルチャー「ポケカル」を立ち上げたとたまたま話が来ました。「僕の地元に講談師がいるよ、爺さんで面白いよ」そう彼女に伝えると、是非一度会いたいとの事で、とりあえずは一鶴さんの寄席を企画しました。
ここからが僕の知っている田辺一鶴最後の一年です。
ポケカルさんは一鶴さんを大事にしてくれました。これは本当に感謝です。
人が集まるかどうかもわからないロートルの講談師の寄席を読売新聞に広告しました。ぜったい赤字です。でも一鶴さんに何かをみたのか感じたのか行動してくれました。結果これが彼の転機です。
その広告を見た方々から仕事の依頼がやってきました。もしくは一鶴さんが現役であると知り良い仕事がいろいろやってきました。古くから彼を知り、彼の事を気になっていて好きな人が沢山いたのです。
彼は喫茶店のカウンターで原稿用紙に向かって書き物をし、いろいろな年齢の人といろいろな職業の方とお話しをし、時にはショートの講談をみせたりしました。最初は「なんだ?」と思っていた方もだんだんと田辺一鶴にさくまひでおを見るようになりました。
僕との絡み
ポケカル寄席 2回
ろまんていでの寄席 3回
喫茶店で写真撮影 1回
これだけだったのですが、彼は僕にとってとても良い友達でした。
ろまんていでの寄席は常に満員でした。そしてお客さんは楽しそうに帰って行きます。
それをみて彼はまた楽しそうでした。僕は感心しました。エンターテイメントとはこういう事か、、。
ろまんてい寄席は金にならない仕事です。この町のためにそして自分のためだと彼は言っていました。
たしかに365日この町から出ない人がいる。平井島は陸の離島で孤島かもしれないな。。
僕の婆さんは息子を亡くしいつも悲しんでいました。でも、
「ほらほらオバアちゃん」といっかくさんに言われ憤慨していました。そして寄席では笑っていました。これが彼の講談という芸の一部なのだとそのときに確信しました。
芸人とは辛いぐねった一本道であると僕は思います。どんな仕事も大変で難しいと思いますが、彼のその考えと行動を考えると僕にはできないなーと今でも思います。彼は講談界では異色なようで、人によっては講談という芸を値下げした男として蔑む人もいます。僕はそうは考えません。普及と認知に関して彼は裏で下支えし、そのカルチャーをとても愛していました。
僕のみる一鶴さんはひでおクンです。
僕自身、ハタチにころ仕事について凄く悩みました。
撮影スタジオに電話しても「専門学校以上」にはばまれ、「口の聞き方が無理」などの理由でどこにも入れませんでした。今考えれば当たり前の事なのですがそのときはどうして良いか全く解りませんでした。それまでの経歴は高校卒→平井ひまっこ倶楽部→ユニットバス施行見習い→何でも屋(掃除、犬散歩など)
そんな僕は自分で仕事をする事に決め、編集プロダクションやたまたま出会った出版社からカメラマンとして仕事をもらい生活できるようになり結婚しましたが、写真に振り回されて離婚しました。
家族にとって一鶴さんのような芸人は大変な存在だったと思います。彼はちょこっとだけ本音を漏らしていました。「このままじゃ家族にみせられない」「弟子が育つまでは死ねない」これはオトコノコとしての本音だと思います。僕もここ最近それを考えていました。自分が80歳の時にこんなこと考えられるかな?と深く考えました。。
2008年12月 写真撮影
そろそチラシを作ろうと考えました。
僕はビューティーを仕事にしていたのでとりあえずはメイクさんをよぼうと考えました。
今回のモデルは平井島在住の仙人です。
カウンター常連の駅前にある美容室の社長が美容師さいとーくんをまわしてくれました。
平井島産の美容室がスタイリングをし、
平井島産の喫茶店でそこの息子が写真を撮り
平井島産のモデルです。
めいどいん平井島
しかも撮影は観客つき、アースの美容師ちゃん2名が盛り上げます。
めいどいん平井4丁目
これがポスターチラシ制作です。
本人も気に入ってくれて自分の写真を再確認しました。
デジタルだのアナログだのどうのこうのよりも、その1カットを大事にしてくれる事は嬉しい事です。
店(実家)での僕の見方も喫茶店の息子からフォトグラファーになりました。
みんな親戚のおっさんおばさんみたいなもんで僕はいつまでたっても5歳児扱いです。
やっとサテンのガキからフォトグラファーと認識が変わりました。ちょっと楽になりました。
これが僕にとって一鶴さんからもらった最大のプレゼントです。
田辺一鶴80歳記念寄席
彼は亀戸のカメリアホールに目をつけ自分で予約をしてきました。チラシは両面で僕の撮影した写真と駅前にあるマスダ学園の息子さんの作った文字情報をのせプリントパック営業所に直に彼が伺い印刷しました。仕事に関しては全て自分でやろうと行動する人で誰の言う事も聞きません。NHKのアナウンサーだった友達にこーしてあーしてと喫茶店のカウンターで企画した内容は当日お弟子さん達の協力のもとすばらしい者になりました。自分で企画して、自分で交渉して、自分で歩いて、、セルフプロデュースで客が500人超えれば関心せざるおえません。これが夏に彼が言っていたやりたい事の一部です。
ちゃんこ鍋に招待された
両国で鍋をごちそうになりました。一鶴さんに飯をゴチになるなんて、そしてトゲトゲ感もないひでおくんは鍋の前でボソボソ語りました。自分の事、家族の事、弟子の事、友達の事、、、。
要約すると、息子に過度の期待をし続けるという決意ととても愛しているという事、そして弟子も同じように考えているという事でした。「結局、なんでも良いんだ。なにかでいつか身を立てられればそれがあれを呼ぶ」わかるような解らないような?でもとりあえずやりたい事が上手くいってごきげんなんだろうな、、。
最後のろまんてい寄席
客は満員、ゲストもよんで大にぎわい。しかもNHKの取材付き。
彼はお店に何かをしようとしてくれていました。それは十分にいただきました。とても、、。
田辺一鶴は地元に愛される講談師です。
その後、、
この辺で僕は僕の事で忙しくなりあまり実家にもいかず会わなくなりました。
彼の仕事が順調そうだと噂で聞き安心していました。
夏が過ぎて、墨田区の資料館で展示をすると言っていました。
来年の3月にロンドンで公演が決定していました。
弟子の駿之助クンにばったり会いました。
彼はめずらしく言葉荒げにどうしようどうしようとオロオロしていました。
どうやら秋になり一鶴さんの調子が悪いようでした。
彼は一鶴さんを自分のじーさんのように慕っていました。
僕が何か言っても「あの人はすごいんですよ、こーであーで」
一鶴さんも駿之助クンの将来を心配していました。
なんとか101歳まで生きないと、、、。
僕は講談という道も門というカルチャーもよくわからないのでなんとなく
心配しあう姿をみて一門とは良いものだなと思いました。
ずっと生涯現役と叫んでいました。じっさい生涯現役でした。
幸せな一生と思います。息子たちにみとられて享年81歳。
彼の最後の1年を部分的にでも見れた事に感謝します。
森山越
明日はろまんないとです。お誘いあわせの上あそびにきてくだい。
場所ろまんてい
江戸川区平井4ー6ー5
総武線平井駅下車南口商店街を徒歩5分
18時オープン
メヲコラソン
LIVE
19時~
21時~
チャージ1500
下町は元気だぜ!イベントです。明日の夜は平井島へどうぞ。











