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LOVE & PEACE

スピリチュアルな毎日

ここ最近。

 

やたらと マスクをするしないに

ついての あれこれを目にするような

気がするんだケド。

 

そんなことない?

 

phaballaの見るところが

そういうところばかりなのかも

しれないんだけれど。

 

とにかく なんかスッキリしない

というのか。

 

あれこれと思いが出てくるというのか。

 

 

ということで。

 

今日は その辺りの話を書いて

いこうと思うよ。

 

 

 

 

 

 

まず一つには

マスク警察的な 絶対を気にして

いる人の話。

 

マスクすることが絶対に必要!!

だから みんなするべき~!!って

いう感じの。

 

後は マスク神話とか。

 

マスクをしていれば とりあえず

安心だし 決まりを守っている感

があるから これでいいよねぇ的な。

 

みんながしているからする方が

問題ないよねぇ的な。

 

 

それから。

 

その反対に 何の意味もない

マスクなんて つけてる方がバカ

なんじゃいの?的なやつとか。

 

我慢して みんなでマスクしてる姿は 

ある意味 全体主義的な

洗脳的な B層的な 気持悪い系な。

 

そういう感じの話。

 

 

 

 

 

 

う~ん。

 

どうなんだろう?

 

ま 確かに 欧米なんかの

元々マスクが習慣にない国の

マスク義務化とか。

 

日本でも 皆がマスクしている姿

が 変だよねっていうのは

 

共感できるものでもあるケド。

 

 

 

 

そもそも というか。

 

外国はさて置き。

 

花粉症とかで ある時期には

マスク率高いという お国柄の日本だし。

 

上に書いたような理由な人の他に

「人に迷惑が掛かる」とか

「他の人が嫌な気持ちになる」とか。

 

どちらかというと 他者を思いやる

気持の人が多い気もするというか。

 

上に書いたような感じの

マスクに そこまでかき回されてる

人いるのかな?と疑問もあるというのか。

 

 

 

phaballaも

外出するときは マスクをするし。

 

それは

みんなと一緒とか 安心とか

そういうものではなくて。

 

エチケット的なものとか

 

行く場所が 病院の付き添いや

スーパーなんかが中心で。

 

その方がメンドクサイくないから

っていうのがある。

 

 

夏の暑い日なんかは

外を歩くときには マスクを外して

歩くけど 建物の中とかでは

マスクを着けていたり。

 

今は マスクのお陰で

寒くないみたいな。

 

 

そんな感じで。

 

phaballaの場合は我慢する

しないという問題はあまりなくて

 

必要な時にする感じなんだけれど。

 

 

 

だし。

 

すでに マスクで 遊んでいる人

がいるというか。

 

色々な柄マスクとか出てきたり

より 心地よいマスクとか。

 

何か それはそれで楽しんでる人

いるよねぇ。

 

マスクして YouTubeって人も

元々いたりするし。

 

マスク文化?みたいな。

 

 

 

 

 

といいつつも。

 

そういえば 少し前に

幼馴染と電話で話した時に

 

彼女の会社でも 一日中マスク

着用で 辛いという話を聞いた

ことがあって。

 

(あれ?もしかしたら 過去記事にも

 書いたかも。。。)

 

やはり 「我慢」しながらマスク

をしている人も多いことを知った

というのか。

 

ある意味の 強制的なものがあって

「我慢」する。

 

 

で。

 

彼女は こうも言った。

 

「マスクするのが 辛いから

 早くワクチン打ちたいんだよね。

 注射打ったら マスク外せるんだよね?」

 

これ phaballaには 

結構 衝撃だったんだケド。

 

マスクの強制化で ワクチンは

自ら打つ人が結構いるのかも

しれない。

 

これぞ 支配者層の思うツボ的な。

 

 

 

 

 

 

 

ま そういうことで。

 

マスクするから○○とか。

しないから△△とか。

 

そういう見方って 疑問だな

というのか。

 

見渡すと マスクしていないのは

私だけ~

 

なんでみんな 洗脳されてるの?とか。

 

逆に

 

マスクしてない奴は 反逆罪だ~的

強制とか。

 

 

そんなことで 判断するのって

何か おかしくね?というか。

 

一つの指標には成り得るけど

あまりに 表面的すぎるという。

 

色々な 意味や 考えがある

人たちがいるわけで。

 

 

 

 

phaballaは超絶アレルギー持ちで

もちろん花粉症でもあって。

 

phaballaの場合は マスクよりも

薬を飲むことで 抑えていて。

 

でも 友人の中には

マスクでしのいでいる人も多かったし。

 

だから どうのこうのなんて

なかったわけだし。

 

マスクすることで 抑えられるなら

それに越したことはないよね。

 

 

 

 

同じように というのか。

 

新コロナが 大したことないとか

日本人はすでに免疫があるとか。

 

色々な意見や研究があって。

 

でも 本当のところは いまだに

分からない中で

 

掛かると その後どうなるのか?

っていところも いまだにハッキリ

しないわけで。

 

 

他の病気と同じレベルじゃね?

ということだったとしても

 

掛からないに越したことはない

というのか。

 

インフルエンザも 普通の風邪も

普通の肺炎も

 

掛からない方が良いわけで。

 

 

 

マスクしたから掛からないわけ

でもないだろうケド。

 

そういう 一つの方法ならアリかも

しれないというのか。

 

別に それ以上でもないというのか。

 

 

ふ~ん。

 

それで終わり。

 

みたいな。

 

 

 

あとは

 

新コロナに 恐怖を感じていて

その恐怖が マスクで軽減するなら

それはそれで アリというのもある。

 

そんな恐怖を どれだけの人が

感じているのかは 分からないケド。

 

 

というのも。

 

phaballaの住んでいる 地方の

小さな町でも

 

小さいながら イベントを打って

集客するということをやっているけれど。

 

そこそこの人が集まるのは

新コロナになっても  あまり変わらない

気がするというのか。

 

新コロナが出始めの 春ごろに

比べれば

 

割と 普通に人が集まっているし。

 

もちろん みんなマスクしてるけど(笑)

ワイワイ楽しくやってるみたいな。

 

 

本当に恐怖感があるなら

そんなに出かけないよね?みたいな。

 

それこそ マスクしてるし大丈夫じゃね?

的な雰囲気というのか。

 

 

マスクしなくちゃいけないとか。

マスクしなくていいとか。

 

そこまで考えて無さそうな。。。

 

 

 

上から言われたから

みんなが そうだから

 

そういう考えはあるかもしれないケド。

 

そして それが問題でしょ?って

いうのも分かるケド。

 

 

そんなこと言いだしたら

 

そもそも そういう世界じゃないの?

という感じで。

 

服の流行や アイドルや

音楽や 本に至るまで

 

人気があること ポピュラーなもの

が幅を利かすみたいに

 

言い出したら切りがないほど

埋め尽くされているし。

 

そういう意味において

日本という国ほど 「個」の意識が

低い国は無いかも?ぐらいの。

 

 

もちろん 世界の国も ある意味

同じかもしれないケド。

 

どちらかというと もっと癖がある

というか。

 

こだわりとか 個性とか

それが認められているところがあるし

 

日本とは 少し違う気がする。

 

 

ま その辺は どうでもイイんだけど。

 

 

 

 

 

 

という感じで。

 

表面的なものに 左右されるより

本質的なものが しっかりすれば

問題ないんじゃないかと。

 

マスクするしないも

ある意味 どっちでもイイんじゃね?

という感じの。

 

問題は 内面や精神的な部分で

マスクしているかどうかみたいな。

 

 

 

マスクをするしないって

どちらの側からでも問題視している人って

 

もしかしたら ある意味での「絶対」を

求める心が強いのかもしれないなと。

 

 

 

思い出すのは

 

少し前に 知人と話をしていて

 

その人は ジャッジが強い

所のある人で 支配されることを

気にしていたんだよね。

 

私たちの世界が すでに「支配」を

受けているという話だったんだケド。

 

で。

 

物理的な支配と 精神的な支配

があるよねって話になった。

 

もっというと

 

目に見えない世界が先にあって

それが 物理世界に現象化してくる。

 

ということは 精神的な支配を

受けるかどうかで

 

物理的な世界が変化してくる。

 

そういうことよねと。

 

 

 

支配っていうと

今でいう ディープステートとか

世界の支配者とか。

 

そういうイメージだけれど。

 

その闇とか陰の支配者が

何をしているのか?っていうと

 

恐怖支配というのか

精神の不安を煽ることで支配

するみたいな。

 

不安だから 依存するし支配されることを

選ぶみたいな話で。

 

 

だからこそ 「自立」というか。

 

マスクをするしないよりも

そっちの話だし。

 

表面的な するしないジャッジを

するのは 「絶対」を求める心というか

正しさを求める心というのか。

 

これぞ 二極的な思考というのか。

 

自分たちが正しい。

という対立を生んでいく心。

 

このジャッジは 支配と結びつく。

 

外側の正しさに依存する心。

その正しさを押し付ける心。

 

そんな気がする。

 

 

 

 

 

精神的に支配を受けないなら

物理的にも支配されない。

 

それは 自分で選んだ結果となる。

 

自立して 選ぶのなら

それでイイよね。

 

 

そう。

 

その段階に来てる人にとっては

それでイイ。

 

ただ

 

そうじゃない段階の人が

どうするのか?って話がある。

 

 

 

ここで 想うことは

 

その人にちょうどいいレベルで

その人の選択の自由があるということ。

 

その人が自ら気が付かなければ

変化は起こらない。

 

無意識下で 支配されている

ということもあるケド

 

無意識下で 依存しているという

こともあるわけで。

 

でも もっというと

 

そういう体験をすることが

ある意味での「人生の目的」に設定

されているかもしれず。

 

何が正しくて間違っているのかなんて

どの視点で見るかによって変化するもの。

 

 

 

 

 

段階っていうと。。。

 

やはりこの世界は色々な段階の人が

ごちゃ混ぜになっているんだろうね。

 

どの段階が上とか下とか

そういう話でもなくて

 

どういう体験をしているのか?

っていう話だったり するんだろうケド。

 

 

 

phaballaも 時間がある時には

よく ネットや動画なんぞのスピ系の

ものを見たりするんだよね。

 

そういうのも 自分が体験したことや

色々学んだことを基準にしながら

 

参考程度に聞いたり見たりする

という感じとか

 

この人は こういう考えなんだな

という感じで 良い悪いはないんだケド。

 

 

もしかしたら あういうものを見る

人の中には 

 

不安とかからの解放や依存型の

人も多いのかもしれないし。

 

間違ってるとか 正しいとか

そういう見方をする人も多いのかも

しれないなと。

 

 

 

何かを求めている段階だけど

根底的なものがあって

 

それが依存的なものや 正しさを

求める心やら 諸々と。

 

 

 

 

何も気が付かず

何にも疑問がない段階から

 

疑問を持ち始めるとか

正しさや 真実を求め始める。

 

 

たぶん

答えは 内側からやってくるん

だろうケド。

 

体験することで答えが見つかって

いくのかもしれないし。

 

人さまざまなんだろうし。

 

そういう中で

質問したり 本読んでみたりする。

 

自分のネガティブやポジティブと

向き合ったり

 

高次自己なんぞとの交流で

本質に目覚めて行ったり。。。

 

 

 

日本では ある意味

嫌われているかもな宗教も

 

スピ系と同じようなところで

 

自らの意思とか 選択とかで

やっている人と

 

恐怖心からやっている人がいたり

するよね。

 

 

 

だからというか。

 

○○だから □□なんだ。

 

そういうものでもなくて

 

どこの世界でも 本質的なものに

目覚めるのかどうか的な。

 

そういうラインがある気がする。

 

 

 

 

ま そういう感じで

 

様々な世界で 色々なバージョンやら

段階やら ごちゃ混ぜだケド。

 

大きなステップというか

大きな溝みたいなのがあって。

 

そのラインを飛び越えるかどうか。

 

そういう話になるのかもしれない。

 

どの道からでもイイ。

 

そこを超えられるのかどうか。

 

その溝を乗り越えると

見えてくるもの。

 

 

 

 

 

 

ということで。

 

いつものごとく マスクの話から

大きく逸れてしまったけれど。。。

 

やっぱり 今 頭に浮かぶのは

 

「あなたは何を選びますか?」

 

そういう気がする。

 

 

 

気が付いてない人にとっては

 

「えっ?何を?」っていう

一つの疑問を持つ切っ掛けになる

かもしれないし。

 

気が付いている人にとっても

最終的な「自立」を意識することになる。

 

 

 

 

物理的な選択よりも

もっと本質的なものの選択。

 

世界の変革の時代

100年も前から 言われている問い。

 

何を選んでも間違いはないし

 

大切なのは 

どの体験であっても「楽しむ心」

なのかもしれない。

 

 

 

 

あ。

 

もちろん 

苦しみを楽しむって言っても

M体質的なものじゃないよ~

 

これ 話し出すと長くなるから

やめとくねぇ~

 

 

ではでは(^^)/

 

 

 

 

 

そういえば。

 

少し前に 例の竹中氏が

ベーシックインカム導入の話をした

らしいという記事をどこかで見かけたケド。

 

色々な社会保障をやめて

その代わりにベーシックインカムを

取り入れる的な話だった。

 

 

 

う~。

 

phaballaは お金の詳しい話とか

貨幣理論的な話は いくら聞いても

理解できないんだけど。

 

そんなことしなくても というか

何かをやめて導入しなくても

 

今や 新コロナなんだし

 

春ごろに頂いた一人10万円の

ような形で 定期的にお金を配る

ことをすれば

 

それが ベーシックインカムの導入に

繋がるんじゃないかと思ってしまった。

 

 

 

 

 

経済経済と 新コロナでどうする?

みたいな話で

 

やれ GO TO~○○だって

経済がダメになると日本もダメに

なる~!!っていうなら

 

財布の紐を緩めるようなことを

するしかないじゃんね。

 

商売で儲ける側にしたって

市場に出回るお金を回収したい

政府にしたって

 

色々な意見や理論はあるだろうケド

誰も損しない話じゃないのかなと。

 

 

 

そしたら

 

こんな話を目にした。

 

 

竹中氏が 

 

https://twitter.com/andouhiroshi/status/1333267780217442304

 

竹中平蔵氏が正しい見解を述べているようです
「財政均衡論は間違いだったことが判った」
 「戦争でも起こらない限り供給能力は維持されているのでインフレには
 ならない」
 「現状なら100兆円の赤字国債を発行しても問題は起こらない」

 

何かテレビで話していたらしい。

 

 

 

竹中氏がいうと

どうしても あっち側の人の陰謀論的な

話だという気がしてならないケド(笑)

 

儲からないと困る人達にとっても

今のような行き詰まり感は あまり

よろしくないってことなんだろうね。

 

 

 

 

 

それにしても

 

人の命と経済と どっちを取るべきか?

なんて話が この新コロナになってから

よく耳にすることが増えたケド。

 

何で どっちも!!

って話にならないんだろうね。

 

人がいるから 経済があるわけだし

今の世界は お金がないと生きられない。

 

だったら

 

なおのこと 日本円を発行できる

権利のある政府の腕の見せ所

な気がするし。

 

どっちも叶えられるようなことを

するっていうのアリじゃないのかな。

 

 

 

 

 

お金って

本当に 人間の命を奪うことのできる

強力なものになってしまっているよねぇ。

 

お金さんも可哀そうだ。

 

 

そうそう。

 

これまた 少し前に

どこかの記事で 目にしたんだけど。

 

今の新コロナで テレワークとか

色々な仕事のやり方が出てきたけれど

 

そもそも 今現在すでに

全体の一割くらいの人が働くことで 

経済が回っていて

 

仕事仕事~って朝から

仕事をしている振りをしなくてもよい

のかもしれないみたいな。

 

一日数時間程度でも大丈夫とか。

週に2日で大丈夫とか。

 

そういう現実もあるらしい。

 

 

だからというか。

 

そういう風に 働き方が変化しても

大丈夫なのかもしれない。

 

 

とは言っても

 

実際に しわ寄せがきているのは

本来一番 お金をもらってもいいはずの

身体を使って働いている末端の人たちで

 

その辺どうするのかってことになるケド。

 

 

ま AIとかの導入で

その辺りは解決すればよいのかも

しれないし

 

機械の導入より 人間の賃金が

安いから その辺りが進まないなら

 

ここで 政府さんの出番!!的に

補助金出して頂くとか。

 

 

そうやって

 

食べるために働くんじゃなくて

「精神」のために働く時代とか。

 

「働くとは?」っていう

哲学的な解釈とか。

 

そっち系な話に繋がっていくかも

しれない。

 

 

 

働くことや何かを作ることに

直接お金は関係ない。

 

労働の見返りとしてのお金は

あるだろうけれど

 

そもそもの話 お金って何よ?

って話。

 

 

 

その前に 「お金」の根っこって

何があるのか?って考えると。

 

 

よく 戦争があるから

科学の発達があるんだ。

 

そういう話があるみたいだケド。

 

そうじゃなくて

 

優位性を追求する根っこが

人間にはあるって話よね。

 

何で マウントを取りたいのか?

 

別に取らなくていいのに。

 

 

お金も同じようなベースがあって

 

生活をするためを 通り超えて

その先にあるのは 権威や地位や

優位性に結び付く。

 

 

これって

 

何にでも共通するというのか。

学校の勉強とか スポーツとか。

 

だから

 

やっぱり 人間のエゴちゃんの

保身的な活動がベースにあるって

話でもあって。

 

そんなにマウント取りたいなら

 

今のような アホらしいことではなく

せめて 精神的な部分へ昇華する

とイイのになと。

 

 

ま。

 

スピ系の中でも

サイキッカーとか 霊性の高さとか

 

そういうの 気にして

アホみたいな感じの雰囲気って

あるケド。。。

 

 

 

どの世界や価値観でも

必死感がある。

 

何でそんなにドラマチックなの?

っていう。。。

 

 

それもいいケド。。。

 

 

 

 

ということで。

 

相変わらずの世界だけれど。

 

昔でいう 共産主義の台頭とか

新しい概念だと思えるものも

 

実は 自分がマウント取りたいだけだった

みたいな話になって

 

資本主義も共産主義も

ベース同じじゃね?的なことでしかなく

 

右から左へ。

 

同じ根幹を ウロウロとしている

私たちの世界だケド。

 

 

お金という呪縛から解放されても

新しい「お金」的なものが出てくる

だけでは 何も変わらないよね。

 

もし phaballaの言ううような

ベーシックインカムが現実となったとして

 

食べるために「働く」時代じゃなく

なったとして

 

これが 日本だと

 

あの人は 皆のために何時間も

働いているから素晴らしいとか。

 

あの人は 全く働いていないから

ダメ人間だとか。

 

そういうジャッジは生き続ける

気がする。

 

我慢することや 続けることや

頑張ることが素晴らしいという価値観の国。

 

ま それでイイんだろうケド。

 

それをみんなに押し付ける国。

 

 

世界の国々ではどうなんだろう?

 

 

 

 

 

 

自分が働きたいから働いている。

楽しいから それをやる。

 

というような選択の自由とか

自己責任論とか。

 

個性の受容とか。

 

そっちの話が当たり前にならないと

まだまだ 道は遠いのかもしれない。

 

 

ま どうでもイイか~

 

 

そういうことで(^^)/

 

 

 

 

 

今朝も寒い。

 

朝からエアコン入れて

暖かいコーヒーを飲んでもやっぱり寒い。

 

そろそろ 冬到来なんだろうなぁ。。。

 

 

 

さて。

 

先日 友人と話しをしていて

ここ数年来想ってきたことを

改めて意識したんだケド。

 

それは「条件付け」ってことで。

 

人間って

何にでも条件を付けたがるんだよなぁ~と。

 

 

 

 

 

彼女の話によれば

最近自分の周辺で起こることで

 

守護霊さんとか ご先祖さんとか

そういう目に見えない存在から助け

られていると感じるそうで。

 

それは 一つひとつが些細なこと

なんだけれども 難を逃れる結果と

なっているとかで。

 

ちょうど 「感謝」について話をしていた

ものだから そのついでに出てきたという

ことなんだケド。

 

要は

 

「守られている」から「感謝」する

構図らしい。

 

 

 

 

 

phaballaとしては 少し違った意見

を持っていて そのことは かれこれ10年

くらい話をしているのだけれど

 

やはり 人の思考というものは

自分が納得しないと 中々入るものでは

ないんだという話でもあって

 

例えば 今回の「守られている」と「感謝」

という話も

 

数年に渡って phaballa側から話して

きたことで

 

彼女のネガティブを軽減するという

方法の一つとして語ってきたというもの。

 

 

誰しも守護霊さんや指導例さんなんぞが

ついている。

 

だから 「守られている」し

 

日常の中で 私たちは「感謝」を忘れ

がちなんだケド 

 

全てのものは根源主の身体とか 

森羅万象的な その不思議に

感謝するという

 

ある意味 どこにでもあるような話

でもあるんだけども。

 

 

 

 

ま。

 

条件付けの感謝が間違っている

わけでもないし 悪いわけでもなく

 

もちろん それでイイんだろうケド。

 

それは

 

何かをしてくれたら「ありがとう」という

 

例えば お店に入り 何かの買い物をして

レジで「ありがとう」と言い合うような。

 

子供がお手伝いしてくれた時に

「ありがとう」というような。

 

そういうものと同じかもしれず。

 

 

何となく phaballaの言いたいことが

伝わっていない感があるという。

 

 

 

こういうことは

十数年スピ活動を始めてから

今まで 何度も何度も経験のある話

でもあるし

 

だからこそ 本人にしか本人の

選択はできないって話でもあって

 

別に どうこう言う話でもないんだけど。

 

(だったら書くなよ~ってか(*_*;)

 

 

いや。

 

そこで思ったんだよねぇ。

 

条件付けっていうものを。

 

 

 

 

 

条件付けっていうと

何か 細かく決まりを作るとか

取引の条件とか

 

そういうイメージがあるものだけど。

 

実は 日常で無意識に使っている

ものでもあるのかもしれない。

 

 

要は「理由付け」ってことなんだけど。

 

人間は 自分の色眼鏡で「理由」を

探すよね。

 

人に嫌われた→何で?→○○だからかな?

とか。

 

大変なことが起こった→何で?→○○の責任だ

とか。

 

これは どちらかというとネガティブな

理由付けの例で

 

逆に

 

凄く良いことがあった場合にも

努力の結果とか さっきの守られているとか

 

理由をつけたがる。

 

このポジ側というのか その延長に

現生ご利益的なものが含まれていて

 

神社巡りとか トイレ掃除とか

そういう話にも繋がるみたいな。

 

 

 

もちろん その通りなことってあるんだろうし

ケチつけるつもりはないよ(笑)

 

ただ 人間の目線というのは

エゴちゃんが支配しているものでもあって

 

そこには感情というものが入ってくるし

 

どうしても自分目線なものがあるよねって

いう話。

 

 

 

 

 

でも。

 

よく考えてみると

 

自分にとっては「良い」ことでも

他の人にとってそうではないことって

結構多いよね。

 

例えば 株で儲けた~とか

自分が得をする=誰かの損みたいに。

 

 

仕事で成功~が叶うご利益のある

神社とか

 

そんな「取引」のような条件付けって

その人だけが「得」をすることを助けてくれる

神さまって ある意味凄くね?みたいな。

 

 

 

 

ま そういう感じで。

 

外側の何かしらで理由をつけるし

それが 当たり前になっているという話で。

 

無意識に その本質ではなく

外側の条件で理解しようとするみたいな。

 

だからというのか

 

「無条件の愛」

なんて言葉があったりする。

 

そもそも「愛」に条件なんてないのにね。

 

条件を付けないことが素晴らしい

みたいな響きよね。

 

 

 

そうやって 条件をつけて

判断する。ジャッジする。

 

それが あまりにも日常になっている。

 

 

 

 

 

 

この世界に来る目的って何だろう。

この世界に生まれた意味って何だろう。

 

昔 占いの学校に行っていた頃

その先生が 冒頭の講義で生徒に質問

したことがあった。

 

「YOUは何しに地球へ?」

 

じゃないケド。

 

 

 

応えは

「もちろん 楽しむため」

だよね。

 

もっというと 楽しいっていうのも

○○だから楽しいじゃなく 体験そのものを

楽しむため。

 

苦しいことや悲しいこと含めて

「楽しむ」って話。

 

 

そんな目的の中で もちろん

現生ご利益も楽しめばいいケド。

 

何かの事象を達成することが

目的になってしまって

 

良いこと悪いことの理解に矛盾が

生れている気がするというのか。

 

これぞエゴちゃん的な

良い悪いの条件付けの世界みたいな。

 

 

 

 

phaballaの想う「神さま」っていうのは

ある意味で 根源的な宇宙法則でも

あるというのか。

 

やったことは返ってくる のも

この法則だし

 

そういう意味で ネガはネガ

ポジはポジを引き寄せるものだし

 

それを楽しめばイイ。

 

 

そういうのとは 別に

 

このネガもポジもゴチャゴチャな

世界の外側というのか

 

「愛」の世界が衣を包んでもいて

 

そこには「条件付け」は存在せず

理解と受容 一体感とワンネスの

世界がある。

 

「取引」じゃなくて 「選択」

 

自分がやりたいからやるし

誰かの体験の邪魔もしない世界。

 

 

 

その視点で考えてみると

何に感謝するのか?とか

条件を付けるのはなぜ?とか

 

どんどん見えてくるものが

ある気がするよ。

 

 

 

 

phaballaは よく

「なぜ?を追求することは大切

なんだという話をしてきたんだけど。

 

これは 条件付けの根っこに

エゴがいることを認識するためでも

あったんだケド。

 

今になって思えば

エゴちゃんの思考が優位な人にとって

 

これぞ「条件付け」だったんだなと。

 

少し言い方が悪かったと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ま そういうことで。

 

私たちの世界は「条件付け」の

世界でもある。

 

でも 

 

もしかしたら少し

変化してきているのかもしれない。

 

というか どんどんそっち方向へ

進んできている気もするというか。

 

 

phaballaの若かった頃。

 

phaballaのような変わり種は

「あの人は宇宙人だから」と割と白い目で

見られて区別されていた気がするケド。

 

今や市民権を得られるようにも

なってきていて

 

まだまだ という感じはあるものの

何でもアリな世の中になってきている

気がするし。

 

 

 

そういう感じだから

 

条件付けも ジャッジではなく

 

認め合うための 理由探しになる

のかもしれない。

 

 

phaballaが占いを習得したのも

「理解」するためだった。

 

その人や 状況の理解。

 

そうすることで より受容しやすくなる。

 

現生ご利益的な「占い」ではなく

理解するための「占い」

 

 

 

同じように 色々な体験そのものも

理解するためなのかもしれないよね。

 

子供嫌いな人に子供ができること

によって 子供との接点や理解や

愛の勉強で視野が広がるとか。

 

様々な体験から「理解」し「受容」が

進んでいく。

 

 

 

そして。

 

自己中心的な「理由付け」「条件付け」

から 大きい視点での「理由探し」

 

何かあったから 感謝するのではなく

今の「普通」に感謝するとか。

 

全体の一部だからこそ それぞれの

存在の重要性を理解し 認め合うことが

実は「感謝」だとか。

 

この世の良い悪いを超えた視点

ジャッジからの解放。

 

 

そう。

 

条件があるからジャッジするんだよね。

 

○○したから 良い悪い。

 

助けてもらったから「感謝する」も

ポジ側のジャッジでしかない。

 

でも 

最初はそれでイイのかもしれないネ。

 

 

 

 

その気持ちの延長には

「心地よさ」があるんだから。

 

その「心地よさ」が「愛の波動」なのかも

しれない。

 

軽い波動。

 

 

 

phaballaは そういう「心地よさ」に

「愛おしさ」が入るんだけど。

 

地球さんにも 宇宙さんにも

近所の子供にも 一生懸命歩いてる

お年寄りにも

 

その「愛おしさ」を感じる。

 

 

それは 本当の自分の世界

から意識することで内側から

溢れ出すもの。

 

条件にとらわれない世界。

 

 

 

 

 

あれれ。

 

いつものごとく 脱線しちゃった。

 

 

 

という話で。

 

条件付け。

 

この世界の中で

人は無意識に この条件付けしている

のはなぜか。

 

 

何となく 頭に浮かぶのは

「不安」からかな?ってこと。

 

本質ではないものに目を覆われて

いるというのか。

 

自分が本質ではないから

どこかに「不安」を覚えているからなのか。

 

だからというか。

 

やはりエゴちゃんの存在が大きい

という話なんじゃないかと思う。

 

 

前の記事でも書いたような

「精神的自立」というのも

 

この外側の条件に依存すること

から 自分の軸で物事を見るというか

シフトする的なものだよね。

 

やっぱり 空っぽ偽物のエゴ

にとっての保身活動。

 

そういう気がする。

 

 

不安を感じる第三チャクラから

それを理解するために第二チャクラが

働いて判断ジャッジ。

 

やはり この話になるみたいな(笑)

 

 

 

 

ちょっと話が飛ぶけれど。。。

 

そういえばというか。

 

姪っ子が高校生の頃

彼氏はできたの?というphaballaの

質問に

 

「え?できないよ。

 だって 好きになるってどういうことか

 わからないもん」

 

そういう会話をしたことがあった。

 

当時のphaballaは かなりビックリした

ことを覚えている。

 

 

それから。

 

息子との会話の中で

 

ゲームのキャラの人気とか

使われる頻度とか

 

そういうものは

ネットで「人気」があるかどうかで

決まるんだという話があって。

 

 

phaballaが

何となく合点がいったのは

 

外側の条件付けがあまりにも

痒いところに手が届き過ぎるためか

 

または 

 

思考優位になる=第二チャクラ的な

世界観がより強いためなのか。

 

そういうことだった。

 

 

 

自分がどう思うかではなく

外側の条件によって物事が決まる。

 

その条件の中にいないとハブられるし

「不安」になる。

 

正しさを見失う。

 

何者でもない「エゴちゃん」の

究極の保身反応。

 

やはり 同じようなベースなんだよね。

 

 

 

ということから

 

条件がないと すでに生きていけない

世の中になっているのかもしれないし

 

自分の感覚からくるものよりも

外側の条件によって選択する時代。

 

時代というよりも 元々人間って

そういう存在なのかもしれないケド。

 

今の時代は より低次のものが

優位になっている時代なのかもしれず。

 

第三チャクラの「感情」の世界よりも

低位である「判断」しかできなくなっている

のかもしれない。

 

 

 

この条件付けは

物事の本質的な性質を語るものより

 

見せかけの埋め込まれた価値

によるものでしかなく

 

損得や流行やコロコロと変化する

世の中の動きの中で変化するもの。

 

お手軽「不安解消材」なのかも

しれないし。

 

逆に 

 

あまりにも固定された

ある意味伝統のような価値観で

 

正しさへの執着があるのかもしれない。

 

 

ということで

 

やはり エゴちゃんの

「私」の生死を掛けた戦いに由来

するのかもしれないという話。

 

 

 

phaballaは たまに

何でこんなことしてるんだろう?とか

何必死になってるんだろう?とか

 

我に返る瞬間を経験したことがあるケド。

 

あれって 本質を垣間見る瞬間

なのかもしれないね。

 

 

 

 

 

ま。

 

どちらにせよ 条件つけるなら

ポジ系。

 

そこから 「心地よさ」を手に入れて

波動を軽くすることで

 

本来の「感覚」を取り戻し

ジャッジのためではない「理由探し」

に昇華する。

 

 

そうすることで

 

実は 何も求めていない

何にも捕らわれていない

 

まっさらな「自分」の発見になるの

かもしれない。

 

 

 

って。

 

ここまで ある意味必死こいて

そういう風にみてみたけれど。

 

やっぱり「条件付け」から解放され

ないと 本質は見ることができないカモ。

 

 

どっちやねん!!

 

 

この世界は「ドラマ」

ドラマを楽しむんだから それでイイ

んだろうねぇ。。。

 

 

 

 

 

あ。

 

またまた 話が飛び過ぎて

どうしようもないので

 

今日は この辺にしとこうと思います

 

では(^^)/