Coco Ro Coco

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ありのままの心をさらけだしてみたい!

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森の中で、私たちは理性と信仰に立ち戻る。


私は、自然が修復できないようなものは何事も・・・、私の人生に起こりえないと感じる。


剥きだしの大地にたたずみ――爽快な大気に頭を浸し、無限の空間に向けてもたげれば――


卑しい利己心はすべて消え去る。


私は一個の透明な眼球になる。


私は無であり、すべてを見る。


普遍的存在の流れが私の中を巡り、私は神の一部となる。


(斉藤兆史、上岡伸雄「英語達人読本」よりラルフ・ウォルド・エマソン『自然』から抜粋)



「英語達人読本」は、近現代のいわゆる名作と謳われた英文学を寄せ集め、

英語学習者に会話や文法重視でなく、その文章の音の美しさを味わってもらおうという意図のもと

編集された本である。

CD付きなので、音としても楽しめるし、繰り返し読みながらその深遠な言葉に触れることができる。


エマソンは『超絶主義』の中心的な思想家として、19世紀に活躍した宗教家である。

本書によれば、超絶主義とは「人間は生まれながらにして善であり、普遍的な存在、

つまり神の存在を直感的に捉えられる、という思想」であるそうだ。


そのエマソンのもっとも有名な言葉が、


「私は一個の透明な眼球になる。私は無であり、すべてを見る」。


このような「透明な眼球」になることを、人は誰しも経験しているのではないだろうか。

難しい神学やキリスト教の宗派の違いなどあまり造詣が深くない自分であっても、

直感的にエマソンの訴えたいことが理解できる。

19世紀の人とそこで繋がることができる。


日常の雑多、あらゆるしがらみが解かれて、個の消滅。

大いなるものにいだかれる優しいぬくもり。

色を失い、ただただ「一」になる。


それが、宗教であるといわれると私は疑問を覚えずにはいられない。

誰かに学んだわけでもない、言葉で捉えきれない、あの不思議な感覚。

「超絶」主義とは言いえて妙だ。

その体験は皆に共通して存在するものであり、日常の中で忘れ去られていくようなものである。

私もよく忘れる。

忘れて思い出しては癒される。

何が大事で、何が大切かを。

きっとまた明日には忘れている。

傲慢さに塗りたくられて、見えない敵に怯えてしまう。

そしてまた思い出したらいい。


「自然が修復できないようなものは何事も」


「私の人生に起こりえないと感じる」


頭で理解するのではなく、心で、感覚で。


エマソンはさらに続ける。


「静謐な風景の中、そして特に遥か彼方の地平線に、


人間は自己の本質と同じくらい美しいものを見るのである。」


そして、私はそれを知っている。



In the woods, we return to reason and faith.

There I feel that nothing can befall me in life, ―― no disgrace, no calamity (leaving me my eyes),

which nature cannot repair.

Standing on the bare ground, ―― my head bathed by the blithe air and uplifted into infinite space,

―― all mean egotism vanishes.

I become a transparent eyeball; I am nothing; I see all;

the currents of the Universal Being circulate through me;

I am part or parcel of God.

幸いなるは

今日をわがものと言いうる人のみ。

かの人は心安らかに、叫ぶ――


「明日よ、あらん限りの悪をなせ、われ、すでに今日を生きたれば」


(D・カーネギー『道は開ける』よりローマの詩人ホラティウスの言葉)


D・カーネギーの二大著作『人を動かす』の姉妹本からの引用である。

私はこの二冊を読んで、大げさではあるが、人生が変わった。

人生が変わるはじまりは、私の物事の考え方の変化であった。

やはり何かしら行き詰まったのであるなら、外的要因に働きかけたり訴えたりするよりは

自分自身を変えるのが一番手っ取り早い。


冒頭の詩は第一章の第一節の「今日、一日の区切りで生きよ」から。


「どう生きればいいのか」


思春期の命題は、自分探しの旅に始まり、

荒れ狂う海を孤独に航海するように、

また、途方にくれた迷子のように、

日々自分自身を苛んだ。


未来を思うと不安でたまらない。

過去を思うと涙が止まらない。


「もう一度人生をやりなおせたら!」


何度願ったことだろう。

自殺願望が常に頭の片隅に存在していたことは否定できない。


他者と自分を比較して、『成功した人々』を羨んでは、自分の存在価値を見いだせなくて苦しんだ。

ひどい時は文字が読めない。

ただ、本屋に並ぶ本たちを憎んだ。


不確定な未来。

ただ焦燥感だけが募り、『人より勝ることがひとつもない自分』への絶望ばかりが募っていく。

そんな毎日に疲れてしまった。

通り過ぎる風景に、季節に、すれ違う人々に、今この一瞬に、

愛を感じることができなくなっていたことにふと気がつく。


天気のよい日に美しく咲いているマゼンダ色の花の名前すら知らない。

立ち止まってそれらを眺める心のゆとりが

人生における最大の喜びであることを


知らなかった!



そして、もう考えることをやめた。

何がどうなるかなんて誰にもわかるものではないし、

『人に勝る』ということに価値をおくと、この60億人以上のすべてが

自分の競争相手になる。

上を見上げればきりがない!

視点を変えれば、日々闘わなくてはならないのは、

悲観的な自分の心であった。


いずれは死んで大地に還る。

そこにおいて存在は「いち」になる。

「勝る」という価値ですら無意味になる。


ただ今この一瞬を一生懸命生きていれば、

そのうち道ができてくるんだろうなぁ!

そうやって不安を手放してやると途端に毎日がなないろに彩られた。

そして新たに発見する。


「自分はひだまりが何より好きだ!」



やさしき道しるべの光よ・・・・・・

わが足もとを照らせ

ゆくすえ遠くに見るにあらず

ただ、ひとあしにて、足れり


(サルズバーガー「ただひとあしを照らせ」)



私は修士一年だ。

そして修士一年にしてはじめて経済学の世界に足を踏み入れる。


それまでは法律と政治の世界にいた。

真っ暗闇で苦しくて先が見えなくなっていた。

価値が多様すぎるのだ。

それでも、それらの世界はやはり魅力的で。

その世界で難解さを解こうと努力する人々がたくさんいる。

先達は偉人ばかりで感動してしまう。


私は私の考えることを別の角度から証明してみたい。

なにより真理が存在するはずだから。

そう思って経済学に入る。

何を始めるにも「遅い」なんてありえないと思う。

やり直しのできない人生なんてないし、人の限界なんて自分や他者が定めるものでもない。


しかしながら!

そこまで覚悟したにもかかわらず!!

周りが経済学出身者の中で自分のあまりのダメさに弱音を吐きたくなったりした。

できないことが当たり前なのに自習室で途方にくれて涙が出そうになったり、

授業で何いっているのかさっぱりわからなくて、

自分の慣れ親しんだ畑に戻りたいと思ってしまった。


そんなの時間の無駄無駄むだ!

劣等感ほど無駄なものは無いわ!

道が険しいのは入る前から知っていた。

登り始めで弱音を吐いてどうするのか。

覚悟したのなら覚悟を通すべし!!


と、いうわけで


「そして私たちは経済学と恋に落ちたのだ」


ヾ(@^▽^@)ノ


ポール・クルーグマンの「ミクロ経済学」での冒頭はしがきでの言葉である。

クルーグマンはノーベル賞受賞されたすごい人だ!!

彼でさえ経済学初心者だった時期があり、そこでの苦しみを学んで我々初心者に

よりわかりやすいように経験を還元してくれた本なのだ。

すごいよくわかる!


しかしながら自習室でこの本を読んでいたら

既習の人に「この本は一線を画するね」といわれてしまった。

レベルが低すぎるらしい。


多分彼はすごい勉強してきたことを私に褒めてもらいたかったのだろう。

でもクルーグマンの本を読みながらクルーグマンのこころを知ることができる自分に

すごく満足しているよ!!

クルーグマンありがとう!!!

経済学おもしろいよ!!!