自分が生きている意味を考える。自分が生まれてきた意味を考える。
完全無欠の人は存在しない。もしいるとすれば、それは全知全能の神だ。神がいるならば、この世の中は誰もが不安を抱かず、導かれるままに安寧の人生を過ごせるだろう。でも、それでは自分が生まれて、生きている意味を見出だせるのだろうか。そんな、自分ではない他人である神が導いた人生に生きる意味は見出だせない気がする。
今着ている服のボタンを作れるか?いや、作れない。それは、自分ではない誰か他人が作っている。そして、その他人は一人ではない。ボタンを成形する人。出来上がったボタンを、洋服メーカーに送り届ける人。原料となる石油を掘る人。石油を掘るための機械を作る人。その機械の部品を作る人。そして、その人たちが生きていくための食料を作る人。その人たちが今日の疲れを癒すために入る風呂の湯を沸かすためにガスを届ける人、、、。この繋がりは考えれば考えるほど、無数に広がっていく。
まずは、人は一人では生きていけないことを覚悟すること。自分が完全無欠にはなれないことを素直に、謙虚に理解することが大事だと考える。
好きなことをして、生きていきたい。それは、幸せな人生を送るためには大事なことだと思う。ただ、それが独りよがりの好きなことであれば、本当の幸せは訪れない気がする。むしろ、それで幸せな人生が送れる世の中ではないと考える。
なぜか。まずは、この世の中は、全ての人が、欲を持っているという前提で成り立っているという原理を持つことが大事な気がする。欲があるから美味いものが作られる。欲があるから素敵な服が作られる。欲があるから、豊かと思われる社会が作られていく。
ただ、その欲を叶えるための資源、エネルギーは限られているらしい。そう考えると、人はまわりと折り合いをつけながら、社会全体の幸せの絶対値を上げていくことに注力することが自分の生きる価値を上げることに繋がるのではと考える。
自分が、この遠い過去から先人たちが造り上げてきた人間社会で生きていく意味を考えるとき、結局は最期を迎えたときにしか、見出だせない気がする。
人間は誰しもが、どんなに高尚に生きているつもりでも、欲からは逃れられないのではないか。欲から逃れるということは、人間社会から逃れることを意味すると考える。ボタンのついた服を着ない。  むしろ、他人が携わった服は着ない。ハムを食べない。米を食べない、、、
今、僕は思う。今、生きている世界は、自分が主人公である。自分の子どもでさえも、自分の物語の登場人物である。死ねば、そこに世界はなくなる。物語は終わる。だからこそ、他人に対しても、自分と同じような物語があり、その主人公であることを理解したい。それこそが、自分の人生を豊かにする重要なことなのではないかと40歳の今の僕は考えている。