わたしの人生史上
最高の技術をもつ染め屋の専務が亡くなった。

社長がお兄さまで
専務が弟さん。
べにやを担当くださったのが専務で

お兄さまがつくる、最高に遊び心があって最高に贅沢な着物を小売屋にもってきては
「うちの兄貴にはほんまに困りますわ。またこんなもんつくってきましてな。勘弁してくれお兄はん、ゆうておるんです。ハッハッハ」
とオデコを掻きながら

そうやって
お兄さまのつくるものを一反一反、売って行く手腕と人柄をもつ方だった。

その染め屋の社長の奥様が亡くなった時の話
お店はいつも通り開けておいて
隠すようにして奥様を車に乗せて葬儀屋に運んだ話を
おもしろおかしくしていたのを聞いて
20そこそこのわたしは
'これだからこの世界は嫌なんだ'
と思ったのを覚えている。
家族の弔いもろくにできないなんて、と。

それは、うちも同じだったから。

「店をやるからには家族が死んでも店は開けやなあかん。
親の死に目よりも店を開けること」

祖父母からそう教えられて育った。
それくらい、店と、お客様と、土地が大事だと。

祖父が急死した小6のとき
一緒に暮らしていた祖父の妹が式にもろくに出席せず、店を開けてくれた。

祖母が闘病の末、息を引き取った高3のとき
父は臨終に居合わせようと病院にいたのにも関わらず
息も絶え絶えの祖母からの一言で店へ向かった。
「お兄ちゃん、こんなとこいてたらあかん。店開けなぁ」
そう言われて店へ向かう車中で、父は祖母が息を引き取ったと知らせを聞いた。
「ええ人生やったよ」
祖母の最期のその言葉を、父は祖母の口から直接聞くことはなかった。

大事なひとの最期をろくに看取れない
葬式にも参列できない
そんな家業なんて、と、憎みに憎んだ。
人の死よりも大事なものなんて、あるものかと。

いま、家族をもって
ようやくわかるようになった。

それは、正しい正しくないで片付けられる話ではない。

生き様なんだと。

今の時代にはそぐわないかもしれないけれど
呉服屋は呉服屋として
生まれてから死ぬまで
その生き様を全うする。
それが、商人としての誇りでもあったのだろうと。

「士農工商やからな、商人は、みんなに頭下げたらええ」
たしか、これは祖父から教えられた言葉なんだと思う。
母屋で、一度だけ聞いたこの言葉に、身分というものに
小学生の私は大きな大きな衝撃を受けたのだけれど

あれが祖父の生き様であり
祖母の生き様で
べにやの在り方だったんだと
そんなことを思う。

専務のガハハと豪快な笑みと
素晴らしいものだけをつくり続けるお兄さまを支えることに専念した生き様は、
心に焼きついていて、きっと一生消えません。
有り難うございました。
どうか安らかに。