幼い頃、朝と夕方はさんぽの時間だった。


その時間になると
向かいの母屋に行き、おばあちゃんと散歩に行く。

横断歩道をひとつ渡って、てくてく歩く。

行き先は氏神様神社

鳥居を入って、階段の手前

おばあちゃんが小銭入れを開く。

5円玉をもらって、おばあちゃんに抱っこしてもらってそれをポイと投げ入れる。

パンパン、と手を叩く
手を合わせる。

何を話していたか、そんなに会話をしていたのか

全く覚えていないけれど

夕ご飯までのひととき、お日様が沈む手前の時間

神社の光の入り具合やひとのお家の夕ごはんの匂い、虫の声と風の音。

そしておばあちゃんの手と、その先にあった着物の袖、おばあちゃんの匂い。

よーく覚えてる。



もはや

おばあちゃんの匂いは着物の香り。


そうして、そう感じている人はたくさんいて

これはほとんど

日本の記憶と言ってもいいんだろうなと思う。


手を繋いだときに、そこには長めの袖があって

歩くと、手を揺らすと

私の顔の隣でその袖が揺れる。

その袖のなかには、小銭入れや飴ちゃん、時には使ったティッシュがポイと入ってて

その袖の揺れる音や匂いが、あの散歩の間、いつも私の一番そばにあったもの。

不安な時や怖い時は、その長めの袖をキュッと握ったこともあった。



今思えばそれは

もはや、おばあちゃんの肌に触れている感覚に近くて

祖母が纏っている着物に触れることは

祖母そのものに触れるくらいに、祖母に近く、あたたかく、心が安定した。


反対に、夜、パジャマ一枚になった祖母は

まるで祖母ではないみたいで、肌に近すぎて、なんだか不安になった。

着物を纏っている祖母こそが、わたしにとっての「祖母」に限りなく近く

それは、洋服を着ている日の祖母とも、何かが違った。



着物は、まるで

自分を包み、象るように纏う衣。

その人の、輪郭が、肌に限りなく近い本質的な形が、一番クッキリする衣なのかもしれない。


肌に一番近い衣。

自分を包み、象る衣。



スウェットのように肌に纏うKIMONO「NOI」





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