最近思うこと。

すべてを体験するために生まれてきた。



私、小さなころから、なんでも素直に納得できるタチではなくて。



なんで?

って思うことは山ほどあった。
 
 


たとえば、学校の先生がよく言う

「世界にはごはんがなくて死んでいく人がたくさんいるんです。だから、食べ物を残してはいけません。」

とか

「あなたたちは恵まれているんだから感謝しなさい」

とか、

いちいち、 どうしてだろう?真顔 って思っていた。




食べるものがなくて、死んでいく人がいるというのはわかる。

だけど、それと、ごはんを残したらいけない、が繋がる理由がわからない。

恵まれている、においては

なにが恵まれているのか。

貧しくないことは恵まれていることなのか。

それだけで幸せでないといけないのか。

ほんとうに日本人は幸せなのか。


納得がいかなかった。

だから、おそらく、いつか実際見に行ってやる、と決めていたんだと思う。












そんなこんなで

19のとき、思い立って急に世界一周へ 波

しかも、南半球。

これはすばらしかったキラキラ 体験として。

地球がつながっていることが体感としてわかったし

当たり前に、富裕国、貧困国があり

また、一国の中でも、金持ちと、路上生活者がいた。

それは諸刃の剣のように、どちらもがあり、微細なバランスで世は成り立っていた。








はじめはボランティア活動に勤しんだ。

だけど、

それはネガティヴを取り除こうとして雑草を取り除きつづける作業。

ネガティヴはどんどん生える。

根っこの改善にはならないし、

マザーハウスに行ったときには

「こんなことを、この目の前の子たちはほんとうに望んでいるのだろうか?」

とふと思った。



インドのマザーハウス。

マザーテレサが建てた、路上で死んで行く人、一人ぼっちの人に愛の手を差し伸べる施設。

ここは、ぜひとも一度行きたかったところで

親との喧嘩の末、決行 飛行機

(案の定、帰りはゲーゲー吐きながらの帰還となったゲロー)



孤児の家によく赴いたのだけれど、

このとき、自分と他人、自分と世界の境目がなくなる至福状態を味わう。

不思議でしょう? 照れ

おうちがない。
親がいない。
学がない。

かわいそう、と言われる子たちといる瞬間に、それは訪れた。



それはなぜか。

言葉で説明することはしない。

だけど、このときにはっきりと定まった。

「食べられない子がいるからとごはんを残さないなんていうことはしない」

「自分が恵まれているとは思わない」





それはただの同情である。

あなたは階段をわざわざ降りて行って、愛しているふりをしていないか?

同情を愛とはき違えているとしたら、それはとてもおそろしいことだと思う。