真夜中の洛陽に、今年初めての雪が降り出していた。
 多くの松明に照らされて、さながら金色の野のように積もった雪が浮かび上がる。
 降りしきる雪の中で、黒衣の男が剣を振るった。
 その一太刀ごとに鮮血が舞い上がり、新雪の大地に赤々と血の花びらを散らしていく。
 意思を持ったような冷たい殺意にも似た剣筋。
 まるで舞を披露するかのような、華麗な身のこなし。
 間違いなくこの男は、衛士たちが追っている男だった。
 この人数に囲まれてもなお、あきらめるどころか挑戦的な目で剣を構え続とぃる。
 男を取り囲む百名近くの衛士たちが、うろたえながら数歩下がった。
 男の持つ剣は、鉄製の鎧甲を着た男たちをすでに十数人も切り伏せたと言うのに、刃こぼれどころか血の染みひとつ付いてはいない。
 -法威(ファーウェイ)。
 洛陽で盗まれた名剣中の名剣である。
 その刃は鋼鉄を切り裂き、大河の水をも断つとさえ言われる伝説の剣だ。
 男が剣を眼前で横に構え一歩踏み出すと、恐怖に我を失った一人が奇声を上げながら斬りかかってきた。
 男は無言で、剣を背中に隠すように構えた。
 そして無造作に剣を斬り上げる。
 剣の軌跡は銀色の弧を描き、途中から赤い尾を引いて松明にきらりと光る。
 どすんっという派手な音を立て、相手の着ていた鎧甲が地面へと割れ落ちる。
 それに続いて、鎧甲の所有者が地に倒れる。
 男は相手を倒したことに何の感情も抱かずに、終始能面のように無表情だった。
 ただその瞳には、深い悲しみに似た色をたたえていた。

              -   -   -

 夜闇の路地裏を、ひとつの陰が走る。
 女は非常にあせっていた。
 なぜかと言えば、今まさに賊を追跡中だったからだ。
 この賊というやつ、あろうことか黄巾党と結託し、この洛陽の都の治安を乱そうとする不逞の輩である。
 え?なぜ、衛士が捕まえないのかって?
 彼女がその衛士だからしょうがない。
 名前は流・魅蘭(リゥ・メイラン)といい、今年で十八になる。
 女にしては大きな身体だが、スタイルは悪くないと自分でも思う。
 その猫を思わせる吊り気味の瞳が、月明かりに反射して、端正な顔の中で妖しく光る。
 そんな彼女は、流れるような黒髪が風に乱れることを気に留めることなく、全力で路地裏をひた走る。
 彼女があせっているその理由。
 それは先ほどの曲がり角を曲がった辺りから、すでに相手の姿が見えないことだった。
 追っているのは彼女ひとり。
 幸運なことに、ここに至るまでに脇道や身を隠せるような場所は見当たらない。
 左右を漆喰の壁に挟まれた一本道。
 だが安心はまだできない。
 いつ分かれ道に遭遇するかもしれないし、相手がいきなり、闇に紛れて襲ってくるかもしれないのだ。
 流・魅蘭は月明かりだけを頼りに、油断なく先を急いだ。
 そして、走ることしばし。
 はたして、袋小路へと追い詰められた男が、こちらに背を向けて佇んでいるのが見えてくる。
 ついに追い詰めた。
 流・魅蘭は満面の笑みを浮かべ、足音を消すようにして男の背後に近付いていった。
 距離にして、約五丈。
 男はようやく彼女の存在に気づいたのか、びくんっと身をこわばらせると、ゆっくりとこちらを振り返る。
 だがもう遅い。
 「観念しなさいっ!!」
 その言葉と同時に、流・魅蘭が左右の腕を振るう。
 両の手に4本ずつ、指の間に挟んだ8本匕首が、一斉に男に向かって飛び出した。
 八卦陰。
 暗器を人体の8箇所の急所に、同時に撃ち込む技である。
 男は慌てて、頭を押さえてうずくまる。
 ヒュヒュヒュヒュヒュッ……
 匕首は屈んだ男の頭上をむなしく通過して、奥の壁に次々と突き刺さった。
 まさかあんな不様な避け方をするとは……
 なかなかやるな。だが甘い。
 そんな格好では次の攻撃は避けれないはず。
 そんなことを心でつぶやき、流・魅蘭が剣を抜いて跳躍する。
 「いきなり何をするんですか!!」
 まさに男のそばに着地しようとする瞬間、先ほどの攻撃から立ち直った男が、おもむろに頭を上げた。
 どごぉっ
 立ち上がろうとした男の頭頂部が、まともに彼女の顎を捕らえた。
 たまらず頭を押さえて、その場にまたうずくまる男と、顎に手をやって後ろにひっくり返る流・魅蘭。
 二人はそのまま痛みをこらえてじっとしていたが、剣を杖のようにして、流・魅蘭が先に立ち上がる。
 「いぎなぢ、だぢあがづんじゃないばお」
 涙目でそう言う彼女の言葉は、先ほど顎を打った際に舌を噛んでしまったせいか、かなり聞き取りにくい。
 彼女はそのまま男に近付くと、その襟首を無理やり持ち上げる。
 もちろん相手の首筋に剣の刃を当てて、動きを封じることも忘れない。
 相手が妙な素振りでも見せた途端に、相手を斬り殺せる体勢だ。
 「たくっ、手こずらせるんじゃないわよ。とりあえず首都騒乱罪及び公務執行妨害で現行犯逮捕します」
 そう言うと、男の懐や袖の中に武器の類が無いか調べ始める。
 男は抵抗することもなく、素直に応じた。
 どうやら武器になりそうなものは持っていないらしい。
 流・魅蘭は、今度は男を壁のほうに向かせる。
 「両手を頭の後ろで組んで、足を開きなさい」
 「ちょっと待て。この時代にそんな拘束の仕方なんて無いだろ。そもそも公務執行妨害なんて言葉すら……」
 ごすっ
 とりあえず、男の背中に膝を入れて黙らせる。
 鬼畜か、あんたは。
 「これ以上つべこべ言うと、衛士侮辱罪も適用するわよ」
 そのまま携帯した縄で男の両腕をきつく縛り上げると、こちらを向くように命令する。
 男のきれいな顔が振り返り、深い悲しみをたたえたような優しい瞳が見つめてくる。
 流・魅蘭は、その瞳に一瞬吸い寄せられそうになった。
 彼女も年頃の女の子である。
 だが一瞬の沈黙の後、彼女はそれを隠すかのように詰問を始めた。
 「名前と住所は?何か身分を証明するものは持ってないの?」
 矢継ぎ早に質問してくる彼女を、男はおかしそうに眺めていたが、素直に質問に答えた。
 「私は王・孤淵(ワン・フーユエン)、この洛陽の都の賊曹、王・分定(ワン・ウェンディン)の息子だ」
 「賊曹、王・分定!?」
 彼女が驚くのも無理はない。
 賊曹と言えば盗賊などの取締りをする部署の長である。
 所属は首都の警備を担当する北軍で、流・魅蘭たち南軍とは指揮系統が違う。
 それでも身分で言えば天と地ほどの開きあった。
 それになによりも、宮中を警備する南軍に賊の取締りを依頼してきたのは、北軍の賊曹その人なのである。
 しかし待てよ、と流・魅蘭は思う。
 はたしてこんな夜更け、しかも人通りの少ないこんな場所に、そんなお偉いさんの息子がいるだろうか?
 しばし黙考し、そしてそんな事はありえないという結論に至る。
 「はっ、どうせならもっと上手い嘘をつけばいいものを。とにかく屯所に連行するわよ」
 「それは構わないが、弁護士を呼ぶ権利を主張する」
 「弁護士?それなんていう意味の言葉?」
 「そこだけは史実どおりなのかよぉーーーーーー!!」
 男のむなしい絶叫が、路地裏に木霊した。

              -   -   -

 「このバカもんがぁーーーーーーーっ!!!!!」
 屯所の中に衛士長の怒声が響き渡る。
 怒りを通り越して、禿げ上がった頭がゆでダコのように真っ赤だ。
 流・魅蘭は肩を小さくして、ただ下を向いて黙っているしかなかった。
 まさか本当に賊曹の息子だったなんて、人が悪いにもほどがある。
 もし、それならそうで、もう少しくらい必死に説得してくれれば、こんなことにはならなかったのだ。
 流・魅蘭は、横ですでに戒めを解かれた王・孤淵を睨みつけながら、心の中で八つ当たりなどをする。
 反省ゼロである。
 それを見透かしたかのように、衛士長の厳しい言葉が追い討ちをかける。
 「まったく、賊曹様のご子息を賊扱いするとは信じられん!!打ち首になっても文句は言えないのだぞ。ええい、もう顔も見たくない。謹慎だ、謹慎。賊曹様のお達しがあるまで、家で大人しくしておれ」
 そこまで一気にまくし立てると、今度は顔一面に引きつった笑みを張り付かせて、王・弧淵の方へと向き直る。
 「弧淵様、本当にうちの若いモンが大変な失礼をいたしました。この通り、こいつも反省していますので、なにとぞ穏便に」
 反省なぞしているわけがない。
 なぜなら衛士長がペコペコと頭を下げる脇で、流・魅蘭は下を向いてふてくされているのだから。
 衛士長のフォローも台無しである。
 「何をぼぉっとしとるか!!頭を下げんか、頭を!!」
 横で突っ立っている流・魅蘭の頭を、衛士長が無理やり押さえつける。
 そんな二人の光景を見た王・弧淵が、ゆっくりと慎重に口を開く。
 「衛士長、お話があるのですがよろしいですか?」
 なにやら改まった口調で声を落とす王・弧淵に、衛士長が頷いた。
 「実は、私は父の命で、反乱を企てる賊たちに紛れ込んで、囮捜査をしていたのです」
 衝撃のカミングアウト。
 つまりそれを流・魅蘭が台無しにしたということだろうか。
 だが、王・弧淵の次の言葉がそれを否定した。
 「もう少しで実情が掴めるという時に、正体がばれそうになったので、こちらの魅蘭に手伝っていただいたのです」
 その言葉に驚いて、衛士長が流・魅蘭に視線を移す。
 もちろんそんな事実は無いので、彼女自身もきょとんとしてしまう。
 「それならそうと言えばいいだろうに」
 どうやらこの話を信じたのか、衛士長が流・魅蘭に言うのを、王・弧淵が間に入る。
 「真実味を持たせるために、彼女には黙っていてもらったんです。それに……」
 と言って言葉を濁す王・弧淵。
 彼はそのまま流・魅蘭の腕を取ると、そなまま肩を抱き寄せる。
 突然のことに彼女の鼓動は跳ね上がり、顔が見る見る赤く染まっていくのが自分でも分かった。
 顔は赤いのに、頭の中は真っ白である。
 だがその行為自体は、別に嫌ではなかった。
 そんな自分を不思議に思いながらも何か言わないと、と気ばかりあせる。
 そして、やっとのことで口を開こうとした彼女の唇を、王・弧淵の指が優しく塞ぐ。
 「それに、魅蘭は私の恋人なのです」
 なんですと!?
 その驚愕の告白に、衛士長はもちろんのこと流・魅蘭さえも言葉を失った。
 王・弧淵は、もういちど衛士長に視線を向けると言葉を続ける。
 「本当なら、こんな危険な任務に彼女を巻き込みたくはなかったのですが、任務の性質上、確実に信頼できる人選が重要だったんです。衛士長、このことは内密にお願いできますか?」
 王・弧淵にそう言われては、衛士長も了承するしかない。
 衛士長も家族を養う、ただの中年管理職なのである。
 相手が頷くのを見て、王・弧淵が一つだけ付け加えた。
 「今回の流・魅蘭衛士の逮捕の件ですが、大々的に表彰していただけますか?犯人については公表せず、手柄のみを宣伝してください。私は親のコネで出たことにすれば、賊たちも信用するでしょう」
 こうして流・魅蘭の処分は無かった事になり、伍長へと昇進することが決まったのだった。
 王・弧淵とのスキャンダルが漏れるのを心配した流・魅蘭だったが、彼女の予想通り、次の日には洛陽中の噂となっていた。

              -   -   -

「だから、なんでこういうことになったのよ!!そもそも、あんたがあんなこと言うからいけないんでしょうが!!」
 昼下がりのとある飯店に、流・魅蘭の声が木霊する。
 店の客たちが一斉に注目するが、そんなことはお構い無しだ。
 昨夜の件、つまり王・弧淵の一件を問い詰めようと、立ち上がって声を張り上げる。
 「なんなのよ恋人って!!あんたと逢ったのは昨夜が初めてでしょうが!!」
 向かいに座った王・弧淵が、まるで他人事のように涼しい顔で答える。
 「確かに君と出逢ったのは昨夜が初めてだが、そこで一目惚れして恋に落ちた。全然おかしくはないだろう?」
 などと言いつつ、優雅に口元へと茶を運ぶ。
 「そんなことあるわけないでしょうが!!」
 思わず絶叫する流・魅蘭を横目に、給仕が運んできた北京ダックを頬張る王・弧淵。
 まったく聞く耳持たずである。
 この王・弧淵に出逢ってからというもの、流・魅蘭は心落ち着くことができなかった。
 万事、先ほどのペースなのである。
 こちらの言うこともさらりと聞き流し、さらに周囲をはばからない求愛ぶり。
 一歩間違えたら、ストーカーである。
 いや、すでにストーカーかもしれない。
 「まあ、こうなってしまったからには、恋人になるしかないだろう。言ってしまったものはしょうがない」
 「だ・か・ら、それが無責任だって言ってるのよ!!」
 今日何度目かの抗議の叫びも、やはりさらりと受け流して、王・弧淵はにこやかに北京ダックを差し出してくる。
 流・魅蘭はとりあえずそれを受け取ると、ひと口箸をつけた。
 この飯店は、洛陽でもかなり高級な老舗で、出てくる料理も超一品ぞろい。
 たしかに美味しい。
 美味しいのだが。
 料理の味につられてる場合ではなかった。
 「だから、どう責任を取ってくれるのよ!!」
 「責任?それはプロポーズかい?」
 流・魅蘭の波乱は、まだまだ続きそうであった。

             -   -   -

 日も傾き、そろそろ空が赤く染まる時刻。
 乾いた大地に、一陣の風が舞った。
 その大地と同様に乾ききった老人が、腰を落として身構えている。
 口髭に鋭い眼光。
 年をとってなお、その筋肉は衰えることを知らず、老人の身体からは得体の知れないオーラが漂っている。
 よく見れば、その老人を取り囲むように、8つの小さな人影があった。
 少年少女、合わせて8名。
 子供たちはそれぞれに木刀などで身を固め、油断なく老人との間合いを詰めていく。
 「ふんっ、お前らなぞにはまだまだ負けんわ!!」
 老人は余裕しゃくしゃくといった感じで、構えを解いた。
 しかも、右手の人差し指をくいくいと曲げて、さっさとかかって来いと言わんばかりである。
 老人の挑発に、負けん気が強そうな少年が、木刀を振り上げて飛びかかる。
 「死ねや、くそじじぃ!!」
 両親が聞いたら卒倒しそうなセリフを吐きながら、木刀を振り下ろす。
 がすっ
 老人は紙一重でその攻撃を軽く避けると、少年の足をひょいっと払う。
 少年は堪らず、地面に倒れ伏してしまう。
 「おしいのぉ。気迫だけでは敵には勝てんぞ」
 小馬鹿にしたように言い放つ老人を、少年は悔しそうに見上げることしかできなかった。
 「趙君を助けないと!!」
 「よし、みんなでかかれ!!」
 少年のピンチに、一斉に老人へと襲い掛かる一同。
 老人の意識が、他の子供たちに移ったまさにその時。
 どごぉっ
 やけくそ気味に振り上げた先ほどの少年の木刀が、まともに老人の股間を直撃する。
 「ぐぶぉっ」
 さすがに身体を鍛えぬいた老人でさえも、これにはたまらず、急所を押さえて前かがみに姿勢を崩した。
 そこへ他の少年の投げた石が、老人の後頭部に激突し、顔を上げたところに少女の投げた何かが追い討ちをかける。
 「砕岩!!」
 「水柱!!」
 これはそれぞれに内力を高めて繰り出す技なのだが、こんな子供たちに使える訳もない。
 少年の砕岩、というかただ石を投げただけなのであるが、に後頭部を強打され大きなたんこぶが腫上がる。
 そして少女の水柱、もとい、豚か何かの腸に水を詰めた物が老人の顔を襲った。
 そこへまたまた別の少年が、
 「大喝!!」
 と叫んで、手にした砂を老人の顔めがけて投げつける。
 「ぐふぉぉ」
 先ほどの水に砂が混じり、老人の視界が途端にゼロになる。
 まさに、やりたい放題である。
 「よし、今だ!!」
 ひとりの少年の掛け声に応じて、近くの木に登った別の少年がそれに応じた。
 その少年は木の上で一度バランスを取ると、両手に長い棒を握りしめて、老人へと狙いを定める。
 もちろん老人は視界がかすみ、木の上の少年には気づきもしない。
 「鬼戟!!」
 その声とともに、少年はもう一度木の棒を握りなおして、木の上から跳躍した。
 少年の視界に老人の無防備な背中がみるみる迫り、まさに老人大ピンチ。
 こんな攻撃を受けでもしたら、昇天まちがいなしである。
 少年の攻撃が、老人の背中を襲うと思われたとき、不意にあらわれた影が、今まさに飛びかかろうとしていた少年を受け止める。
 「あ、流姉ちゃん」
 「ずりぃよ、もう少しで勝てたのに」
 「じじぃ、命拾いしたな」
 などと物騒なことを口々に言う子供たちを見回して、流・魅蘭が困ったような表情を浮かべた。
 そして抱えた少年を地面に下ろしてやると、老人のほうへと歩き出す。
 「豪・衛騎(ハオ・ウェイチー)爺、大丈夫かい?」
 流・魅蘭が気遣って差し出す手を、豪・衛騎と呼ばれた老人が疎ましげに払いのける。
 「ええぃ、ワシを年寄り扱いするでない!!ワシは千鬼将軍じゃぞ!!」
 そう、この老人こそ、ひと昔前には千鬼将軍と呼ばれ、洛陽には知らぬ者がいないという英雄なのである。
 今はまったくそうは見えないが。
 さっきの少女の投げた腸が、禿げ上がったおでこにぴったりと張り付いているし。
 時の流れとは、恐ろしいものである。
 しかもこの老人、戦争孤児の流・魅蘭を引き取って、つい最近まで育ててくれた父親代わりでもあるのだ。
 彼女は幼い頃から豪・衛騎に学問を習い、剣術も学んだ。
 今でも子供たちを集めては、同じようにしているようだが。
 いかんせん、もう年である。
 先ほどのような不慮の事故?が起こらないとも限らない。
 それを心配した流・魅蘭が、気遣うように声をかけた。
 「もう年なんだからさあ、少しは自重しなよ」
 「だから年寄り扱いするなと言うておるじゃろうが」
 いや、あなた誰が見ても老人ですから………残念っ!!
 頑固に否定する豪・衛騎だったが、頭から水をかぶり、ぽたぽたと雫がいまだに垂れていた。
 「まさに老人の冷や水だね」
 「じゃからワシはまだ……」
 流・魅蘭のナイスなツッコミに、老人が反論しようとするのを、彼女の言葉が遮った。
 「豪爺、今日は話があってきたんだけど……」
 なにやら深刻な顔で切り出す彼女を、豪・衛騎は全てを悟ったような瞳で見つめ返した。
 「賊曹のところのドラ息子の件かいのぉ」
 どうやら噂は、洛陽の隅々に知れ渡っているらしい。
 はなはだ迷惑な話である。
 「それで、お前はどう思っとるのじゃ?」
 豪・衛騎の優しい瞳が、彼女を包み込む。
 「うん。初めは強引で嫌な奴だと思ってたんだけどさあ。今は……」
 「お前が信じたようにするがよい」
 言葉尻が切れ切れになった流・魅蘭に、豪・衛騎がそう言った。
 それだけで良かった。
 流・魅蘭にも答えは分かっていたのだが、どうしても豪・衛騎のこの言葉を聞きたかったのかもしれない。
 彼女は黙って頷いた。
 「ふむ、それでこそワシの娘じゃ。それにな、ワシが死ぬまでには孫の顔も見せてくれんとな」
 「えええええ!?豪爺が死ぬまでって、もう間に合わないじゃないか!!」
 「馬鹿もん!!ワシを勝手に殺そうとするでない!!」
 そう言って笑い合うふたり。
 そこには数年前の親子の姿があった。

             -   -   -

 すでに日も暮れかけた頃。
 流・魅蘭(リゥ・メイラン)は重い足取りで、自宅へと向かっていた。
 道ですれ違う人々の無遠慮な視線。
 声を落としてひそひそと語りあう声。
 それらすべてが、彼女の精神を極限まで疲労させていた。
 全ての元凶の王・弧淵(ワン・フーユェン)は、職務があるからと昼ごろから見かけていないが、いたらいたでさらに疲労すること請け合いなので、それはいい。
 だが洛陽全体が彼女の敵に回り、あたかもあざ笑っているかのような錯覚が、彼女を苦しめていた。
 やっぱり不釣合いよね。
 そう小さく微笑むと、自宅の門をくぐった。
 「ただいま」
 返事がないのを知りつつも、流・魅蘭がいつものように声をかける。
 彼女は戦争孤児であり、育ての親の豪爺の家も仕官と同時に出ている。
 待つ者のいない家は、いつも暗く冷たい。
 はずであった。
 だが今日は家中に明かりが灯されていて、暖かい空気とともに美味しそうな夕食の香りが玄関まで流れてきていた。
 豪爺でも来てるのかしら?
 不審に思い玄関へと直行する。
 やはり誰かいる。
 人の気配に用心し、流・魅蘭は剣の柄に手をかけた。
 一歩一歩、ゆっくりと室内に踏み込んでいく。
 「何やってるんだ?」
 「ふほぉっ!!」
 出し抜けに背後から声をかけられて、奇妙な声を上げてしまう。
 まったく気配も感じさせず、いつのまにか王・弧淵が後ろにいた。
 こいついったい何者。
 流・魅蘭とて内功を修得して、人よりは五感が優れている。
 それでさえも、王・弧淵が背後まで近付くのを、まったく看破できなかったのだ。
 「足音を消して近付くんじゃないよ!!」
 とりあえず怒鳴りつけるものの、彼女の背中をひんやりとした汗が流れている。
 もちろん王・弧淵当人は悪びれた様子もなく、手に掘り返したばかりのネギを持ったまま、戸口に佇んでいる。
 よく見れば手も顔を服も泥だらけで、たった今、ネギを掘り出してきたような姿だ。
 「お隣の楊さんの畑で、旬のネギをもらってきたんだ」
 そう言って、手にしたネギを掲げて、笑顔を浮かべる。
 「だから、そうじゃなくて、なんで足音忍ばせてくるのよ。いや、その前にあんたがなんでうちにいるわけ?」
 「なんでって、同棲するからに決まってるだろう」
 さらりと言ってのける。
 「ふざけんじゃないわよ!!同棲ってなんなのよ、同棲って」
 「責任うんぬん言ったのは君の方だろう?」
 「責任って、変な噂を立てた責任のことでしょ!!」
 「だから結婚しようと言ったじゃないか」
 「だ・か・ら、どうしてそう飛躍するのよ!!」
 平行線である。
 町を歩けば噂に悩まされ、家に帰ってまでこんなやり取りに翻弄され、流・魅蘭は力なく肩を落とした。
 「はあ……今日は疲れたから、話は明日にしましょ。じゃあ、そういうことで」
 流・魅蘭が扉を閉めようとすると、王・弧淵がすかさず右足を挟み込む。
 「ちょっとあんたねえ、いい加減にしなさいよ!!ストーカーじゃあるまいし、わたしは衛士よ。このまま屯所に連行するわよ?」
 「だから、この時代に無い言葉を使われても……」
 「うっさい!!とにかく自分の家に帰りなさい!!」
 ハァハァ……
 荒い息でさらに力を入れて戸を閉めようとすると、王・弧淵が家の中を指差した。
 「帰りたいのは山々なんだけど、僕の荷物が中に」
 「え?」
 振り向いてみれば、部屋を埋め尽くさんばかりの荷物の山。
 一体どうやって入れたのか分からない巨大なものまで、部屋の中は王・弧淵の私物であふれかえっていた。
 流・魅蘭が、一生働いても買うことができない高価な品々。
 そしてその中には、彼女の目を引く家具があった。
 「なんなのよ、あの……ダブルベッドは!!」
 「なんなのって、あれは僕たちの愛の……」
 ごふっ
 「言わせねえよぉ!!」
 などと、どこかで聞いたことがあるセリフを口にして、流・魅蘭の裏拳が唸る。
 「ぐごぉっ!!………いや、悪かった……だけど、せめて寝台と呼んでくれ」
 鼻血をたらしつつ、とりあえず時代錯誤を忠告する王・弧淵。
 「とにかく!!どうするのよ、この荷物」
 「ふむ、君が嫌と言うなら、明日にでも撤去しよう」
 流・魅蘭は、そう言われて少し俯いてしまう。
 別に嫌じゃないけど……嫌じゃないけど……ムード的に無理。
 なんでもかんでも王・弧淵が決めてしまうのが、彼女敵には納得できないのだ。
 「まあいいわ。今日のところは泊めてあげる。でも明日には出て行きなさいよ」
 そう言って、王・弧淵を招き入れた。

              -   -   -

 なんやかんや言ってみても、流・魅蘭は王・弧淵のことが好きであった。
 ふたりはそのまま同棲を始め、周囲の人間も祝うようになっていった。
 婚礼を1ヵ月後に控えた、そんなある日。
 「あんたさあ、せっかく同棲してるのに、任務とか言って全然帰ってこないじゃない」
 ちょっと甘えるように、王・弧淵の肩にしなだれかかる。
 そしてそのまま王・弧淵の耳を引っ張った。
 「よそに女なんか作ったら、承知しないんだからね!」
 「僕の目には、君しか映ってないさ」
 などと、他人が聞いたら凍死しそうなほどの寒いセリフを吐いた。
 ナイス・バカップル。
 そんな二人を、さめざめとした月だけが、静かに見下ろしていた。
 「そんなに不安なのかい?」
 「べ、別にそういうんじゃないけどさ」
 口を尖らせる、流・魅蘭。
 それを見た王・弧淵が、優しく彼女を抱きしめる。
 「寂しかったんだね。それじゃ、僕のとっておきの物を教えてあげよう」
 不思議がる流・魅蘭を残して、王・弧淵が家の中へと入ってしまう。
 待つことしばし。
 王・弧淵は二振りの剣を携えて、彼女の元に戻った。
 それは王・弧淵と流・魅蘭が日頃使っている愛用のもので、別段特別なものではない。
 王・弧淵のとっておきを期待していた流・魅蘭が、小首をかしげて彼を見つめる。
 「さあ、立って。僕のとっておきの剣術を教えてあげるから」
 そっと彼女の手を取って、彼女に剣を渡す。
 ふたりは庭の真ん中まで移動すると、向かい合うように立った。
 「僕が使うのは、八神門という剣術なんだよ。まずは防御の構えとなる『開』『休』『生』だけど……」
 そう言って、王・弧淵が3つの独特の構えを見せる。
 流・魅蘭が、それを鏡のように模していく。
 「そうだ。なかなか飲み込みが早いぞ」
 月の光だけがさす幻想的な中で、二人が舞うように剣を振るう。
 流・魅蘭は幸せを噛み締めるように、その中で微笑んでいた。
 この幸せが続くことを祈って。
 だがそれは、儚いひと時の幻だった。

              -   -   -

 その幸せが突然のもとに崩壊したのは、数日後の雪の降る寒い日だった。
 この日、屯所に出勤した流・魅蘭に告げられた、衝撃的な事実。
 なんと王・弧淵の父親である王・分定(ワン・ウェンディン)が何者かに殺害され、家宝の宝剣が盗まれたという。
 すぐに王・弧淵に連絡を取りたかったのだが、あいにくと任務中で、居場所すら分からない状況だった。
 あせる彼女とは裏腹に、王・弧淵の消息は依然として掴めず、彼女の不安をいっそう煽った。
 しかも、王・分定を殺害した凶賊も姿をくらましたままだったのだ。
 そして昼も過ぎようとする頃。
 王・分定を殺害した犯人が見つかったという報告が、屯所に届けられた。
 怒りに駆られた流・魅蘭は、犯人が見つかったという現場へと向かう。
 通りで何人もの通行人とぶつかり、何度も段差で転倒して、怒りの涙でにじむ視界を頼りに、ただただ走った。
 せっかく掴んだ幸せを壊す犯人が許せない。
 きっと犯人を見つけたら、捕獲せずに斬り殺してしまいそうだと自分でも思う。
 彼女が3区画ほど走り続けると、廃寺に人垣ができているのを発見した。
 きっとそこなのだろう。
 彼女はいっそう歩を早めると、人垣を強引に押し分けていく。
 やっとの思いで人垣を越えると、はたして、犯人を取り囲む衛士たちの姿が目に入った。
 衛士の数はおよそ百名。
 ひとりの賊を捕まえるにしては大げさな人数だったが、こちらに背を向けて立つ犯人の周りには、衛士が数人倒れていた。
 その兵士の周囲には血の染みが新雪に赤々と広がり続け、助かりそうも無いのが分かる。
 だが彼女には、そんな光景も見えてなかった。
 ただ視界の中に、犯人の男の後姿があるだけだ。
 流・魅蘭は軽功を用いて衛士たちを飛び越えると、犯人の男に声をかける。
 「わたしは衛士、流・魅蘭。いい加減に観念して、投降しなさい!!」
 そう言いつつ剣を抜く。
 犯人の男が、振り返りながら静かに口を開いた。
 「お前に捕まるのは、二度目になるな」
 その声に、流・魅蘭の心臓が止まりそうになる。
 「王・弧淵……」
 そう、王・分定を殺害し、宝剣を盗み出して衛士に追い詰められた犯人は、彼女が愛したこの世でたった一人の男だった。
 王・弧淵は悲しそうな瞳で彼女を見つめ、手にした宝剣を左斜めに構えた。
 「君が来るのを待っていた。さあ、終わりにしよう」
 「な、なに言ってるのよ。馬鹿な冗談はやめてよ。あなたが犯人なんて嘘なんでしょ?」
 まだ信じられない彼女は、愛する男にすがるように質問する。
 だが王・弧淵はそれには答えず、一歩また一歩と彼女に迫る。
 流・魅蘭は震える手で剣を構えはするものの、力がまるで入らなかった。
 それでも彼女は彼を信じたかった。
 涙で視界がかすみ、震える声でさらに問い詰める。
 「なぜ、なぜお父様を殺したの?今までのわたしへの気持ちは嘘だったの?」
 「君への思いは嘘じゃない。だが、私はあの男を殺さなければならなかった。許すことができなかったんだ」
 王・弧淵は、今まで見せたことがないような深い悲しみに満ちた顔でつぶやき、さらに間合いを詰めてきた。
 「あの男は……王・分定は、私の両親の仇なのだ」
 「え?だって分定様がお父様じゃ……」
 「あいつは私の母に思いを寄せ、振り向かない母や邪魔な父を殺害した最低の男だ。俺を養子にしたのも、罪の意識から自分を守るためだ」
 「でも、なんで今なの?なんで、こんなときに……」
 「君と出逢って私は幸せだった。幸せであると同時に、両親の幸せを奪ったあいつを憎むようになった。許せなくなったんだ」
 王・弧淵が剣の間合いに入る。
 周りの衛士たちも、遠巻きに息を飲んで見守っている。
 だが、流・魅蘭はただ剣を握っているだけで、構えを取っていなかった。
 「だから私を、この苦しみから救ってくれ。君を裏切ってしまった苦しみから。幸せを束の間でも味わえた記憶だけを残して、消し去ってくれ」
 「馬鹿を言わないで!!まだやり直しだってできるじゃない。わたしは待つわ。毎日逢いにも行くし。ね?投降してちょうだい。お願いだから!!」
 その言葉を聞いて、王・弧淵の顔に悲しい笑顔が浮かぶ。
 「その言葉が聞けるだけで十分だ。さあ、終わりにしよう」
 王・弧淵の構えが変わる。
 上段左に大きな構え。
 八神門・死門『羅刹』。
 八神門剣術、最大の攻撃の構え。
 この攻撃を防げるのは、同じ八神門剣術・生門『菩薩』以外ないと言われるほどの、一撃必殺の暗殺剣だった。
 それでも構えない流・魅蘭を見て、衛士の輪の中から老兵が歩み出る。
 「魅蘭、離れておれ。そやつはワシがやる!!」
 巨大な鋼鉄の槍を携えた筋骨隆々の老兵。
 それは豪・衛騎(ハオ・ウェイチー)だった。
 勢い込んで進み出る豪・衛騎を、だがしかし、流・魅蘭の言葉が押しとどめる。
 「豪爺やめて!!わたしが……やる……」
 「だが、おまえは……」
 「言わないで!!もう彼は殺人犯なのよ。だから衛士であるわたしが捕まえるの。ううん、わたしが捕まえなきゃいけないのよ……」
 彼女の悲痛な叫びを聞いて、豪・衛騎の足が止まる。
 それを見た流・魅蘭がふたたび王・弧淵に視線を戻すと、一瞬だけだが二人の目が合った。
 二人はお互いの悲痛な決意に満ちた瞳を見つめあう。
 一瞬の沈黙の後、ふたりの剣が走る。
 王・弧淵の剣は、弧を描くように振り下ろされる必殺の斬撃。
 対する流・魅蘭は、眼前に剣を真横に構える生門の構え。
 二人の剣が重なったとき、夜闇に火花が散り、流・魅蘭の身体が後方に弾け飛ぶ。
 完全に迫り負けていた。
 「それではダメだ。生門の技のみが、この剣を止められる。止められなければ、君が死ぬことになるんだ」
 まるであの晩に、剣を教えてくれたときのような優しい声で、王・弧淵が言葉をかける。
 その瞬間、さきほどの一撃が手加減したものだったと、彼女は悟った。
 八神門最強の死門技は、その強大な一撃ゆえ、生門の技を持ってしても、お互いに助かることは無いのだ。
 死門の技で斬られるか、生門の技での反撃か。
 そのどちらかでしかないのだ。
 だから彼女は、声を大にして叫んだ。
 「手加減なんてしてるんじゃないわよ!!これで終わりにするですって?だったら死ぬ気でかかってきなさいよ!!」
 涙の混じった彼女の叫びに、王・弧淵が微笑んだ。
 それは彼女にいつも見せていた、心からの笑顔だった。
 「それでこそ、君だ」
 その言葉をきっかけに、二人が同時に跳躍する。
 もちろん、死門と生門の構えで。
 今度は王・弧淵も手加減する気は無いらしい。
 刀身すべてに彼の殺気がみなぎっていた。
 みるみる迫る王・弧淵の姿に、流・魅蘭が一瞬躊躇する。
 この一撃でどちらかが死に、二人はもう逢うことができない。
 一緒に語らうことも、食事をすることも、夢を語らうことも。
 走馬灯のように、彼女の中で王・弧淵との思い出がよみがえる。
 果たして、わたしは彼を斬れるだろうか?
 だけど、わたしもここで死ぬのは嫌だ。
 彼を失ってなお生きる道を選ぶか、彼に殺される道を選ぶか。
 決断のときは迫っていた。


Petite nouvelle~自作小説と詩~
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