私の宝塚時代の大の友達の峰さを理さんが天国に旅立たれてからもうすぐ1ヶ月になろうとしています。
仕事中に衝撃が走ってからこのかた・・・全く信じられず、受け入れられず・・・今に至ってしまいました。
おかしな例えですが、磁石のN極S極のようにこの事実はガン!と私の胸に突き刺さっているにも関わらず、私は無理矢理N極を持ち続け跳ね返そうとする・・・そんな毎日でした。
「タラちゃん、いい加減にしっかりしなさいよ!」(峰ちゃんだけは私のことをタラちゃんも呼んでいました。)そう言われている気がして、ようやく書き記すことにしました。
私たちは星組で57.5期を結成し、同期生よりも付き合いも多く、新人公演のペーペーの頃から時には泣き合い、でも頑張るときはとことん頑張る友達付き合いでした。
宝塚南口のマンションも同じで、晩ご飯もよくお鍋を作ったりしたものです。
思い出は数限りなく・・・
「虞美人」のひと場面、私たちはあまりに下級生なのに、お酒を飲んで酔っ払っている兵士たちの場面をいただき、頑張ってすればするほどひどく!・・・ついにその場面は全面カットになりました。
峰ちゃんと私も含め数人の兵士たちは、酔っ払う演技というと地震にあった時のようにドテドテ動き回るのみで酷いあり様でした。
それから少しは成長して、「ベルサイユのばら」ではフェルゼンとオスカル、「風と共に去りぬ」ではバトラーとスカーレットとして必死で新人公演をしてきました。
特に「風と・・」の東京公演では峰ちゃんとバザーの場面のダンスを練習するために、1回と2回公演の間の休憩時間にご飯も食べずに舞台で、私はスカーレットのドレスを着て二人で練習・・・しかし、その時私はまだ男役・・・リーゼントにドレスという出で立ちで組んで練習していたため、峰ちゃんがどうしても笑いだして練習できず・・・何度笑いを納めてもまた組むとまた笑い・・・。
それでも必死でした。
思い出の写真を少し。
「ファンシーゲーム」のフィナーレです。
「オルフェウスの窓」のデュエットです。
敦賀出身の峰ちゃん。
「ねえ、敦賀に帰るから一緒にいって海で遊ぼう!」地元の人しか知らない浜辺で、足元を小さなお魚が戯れて、あんなに開放的な笑顔の峰ちゃんも滅多に見られなかったことを覚えています。
峰ちゃんの父さん母さんにも可愛がってもらって最高のお休みでした。
父さんが手打ちそばをしてくださいました。
長い長い地方公演の最終地が仙台。
峰ちゃんのおじ様が仙台にいらして、お家に呼んでいただいて美味しいご飯をいただいて。
でもあまりに疲れ切っていた私たち。
列車で帰るのはもう無理、と飛行機で帰ることに・・・しかしその飛行機、もうダメかも!と思うくらいの揺れで、二人とも死ぬ思いで帰り着きました。
その後東北の震災があり、一番におじ様のことが気になり、峰ちゃんに連絡。
「それが連絡取れないのよ・・」不安そうにいう彼女に「私がSNSで聞こうか?」と言った次の日、「連絡取れたよ!ありがとう!ここまで心配してくれたのタラちゃんだけだよ!」と言ってくれましたっけ。
私が娘役に転向してからはよくお芝居でもダンスのデュエットでも組んだり。
なかなか娘役になりきれず、峰ちゃんが手を出してくれて、その上に私が手を乗せないといけないのに、男役の癖が取れずに同じように手のひらを上にして出してしまい、手をつっつき合わせるということがしばしば。
そのたびに「コラ!タラちゃんは娘役!」笑いながらも毎回注意してくれていました。
私は当時のトップスター瀬戸内美八さんと同時期に退団したので、峰ちゃんのトップの星組にはいられませんでしたが、それからは大きな大きなトップスターさんになり本当に嬉しく思っていました。
東京公演の恵比寿の寮でも夜な夜な下級生と一緒にお部屋でゲームしたり、遊んだり。
楽屋も同じ、化粧前もずっと隣。
今となっては悩んで話し合い、楽屋を出るのが最終になったことも楽しい思いでばかりです。
今はもうない「あかつき」という宝塚のレストランにはかなり通い詰め。
けいさん(萬あきらさん)と3人いつもご飯はこちら。
ある時、あかつきで晩ご飯を食べていたら「どうしても新人公演でできないところがあるんだけど、東京の歌舞伎座でされてる舞台を見たい!」と言い出した峰ちゃん。
けいさんが「じゃあ行く?」「えーー今から?」と私。
なんと、そこから3人、タクシー飛ばして伊丹へ。
そのまま飛行機で東京へ・・・
次の日、歌舞伎座の2階の立ち見で昼夜通しで舞台を見て、意気揚々と元気に宝塚に帰る・・・という!!
本当に熱心な人でした。
退団後、2008年私の主催するバウホールでの公演に出演してくれた峰ちゃん。
この時のセリフや動きの覚えの速さは目を見張るものがありました。
やはりトップスターさんで星組を背負っていた経験は素晴らしいものだったのですね。
お稽古日数のとても少ない日程でしたが、完璧に演じてくれました。
その時の写真です。
今思うことは・・・
峰ちゃんって、「責任感が半端ない人」だったと思います。
研2や3の頃からツレちゃん(鳳蘭さん)の代役がついて必死だった姿はそばでずっと見てきました。
できうる限りの努力をして、常に自分の責任を果たすことを自分に課していたと思います。
その時、その時の自分のやるべきこと、そして周りにいる人のためにも自分がしなければいけない責任。
それを常に考えていた人だったと思います。
でもその反面、すごく寂しがりやのところもあって・・・
「ご飯行こうよ~」が私たち3人の合言葉ではありました。
あまりに急激なことにまだまだ私の頭と心はついていきませんが、10代の頃から在団中の青春を共に歩んできた私にとって、
本当に「ありがとう、楽しく情熱を傾けられたのは峰ちゃんのおかげです。」と伝えたくて書いています。
追悼などと書きたくなく・・・思い出でもなく・・・自分のために書くのではなく、ちゃんと心からありがとう、と言えるまで文章にしないと決めていました。
今も無理矢理書いてはいますが、最初に書いたように「いい加減にしっかりしろ~」と絶対言われそうなので・・・
思うように人と会えるようになったら、あの時代一緒に、共に頑張った人たちと、こんな素敵なことがあったね、とか、こんなに頑張ったことがあったね、なんてことを話そうね、って約束しています。
きっと「泣いて話なんかしないでよ!」って言われそうですから。
あの素晴らしい責任感を私はこれからも見習い続けます。
本当に・・・ありがとう、峰ちゃん・・・