「・・・・・で、その男がたぶん・・・」刑事は言葉を選ぶように少し黙ってから改めて口を開いた。「唐沢雪穂の周りのどこかにおるはずなんです。」

「周りのどこか?」今枝は問い直した。「どういう意味ですか?」

「言葉の通りです。どこかに隠れとるはずなんです。デッポウエビっていう海老、ご存じですか?」刑事がまた先の読みにくい話をし始めた。

「テッポウエビ?いいえ」

「テッポウエビはね、穴を掘ってその中で生活するらしいです。ところがその穴に居候しとるやつがおる。魚のハゼです。そのかわりにハゼはふだん穴の入り口で見張りをしとって、外敵が近づいたら尾ひれを動かして中のテッポウエビに知らせるそうです。見事なコンビネーションや。相利共生というらしいですな」

 

 

最初の1ページ目から最後まで主人公二人の心が登場しないこの物語で、僕が最もゾクゾク興奮するのが文庫614ページの上記の場面。探偵今枝のもとに、あの二人が子供のころから追いかけている笹垣刑事が現れた場面である。

 

大阪の廃墟ビル。質屋殺し。被害者の息子。容疑者の娘。

 

最初に起きた殺人事件から、順を追って、少しずつ時は流れ、その都度なにかしらの「事件」が起こる。読んでいくうちに気付くのは、主人公であるはずの桐原亮司と西本雪穂(後に唐沢雪穂)の周りの人間の心象しか語られないということだ。二人の行動は二人の周りにいる人間からしか伝わらない。

亮司の周りの人間は、亮司と一緒に犯罪に手を染めたりもするが、亮司がもっと何か大きな犯罪に関わっているのではと思ったりもする。雪穂の周りではレイプ事件が起きる。雪穂が社会的にものし上がっていく度に必ず周りの人間は邪魔されたりレイプされたりするのだ。

 

時代が移ろい変わる毎に起こる殺人やレイプ、詐欺、様々な犯罪。そのすべての犯罪に証拠はなく、周りの人間は翻弄されたり、騙されていることにさえ気づかなかったりする。

読んでいるこちらもそうである。数々の犯罪に二人が絡んでいるのは明らかなのに、そこに何か釈然としないものを感じるのである。心の内を一切見せない、セリフとしぐさなどからしか二人を知ることができない。そんな二人が起こす恐ろしい犯罪。その時彼と彼女は何を思っていたのか?悲しかったのか?どんな会話があったのか?どこかで連絡を取り合っていたのは間違いない。でもどうやって?そしてこの二人は、いったいどういう関係性でこの20年もの間「共犯」していたのか?

 

そういったもやもやが続くなか、二人を偶然的必然で知った探偵の今枝のもとに、この物語でほぼ唯一二人を同時に見てきている刑事がついに登場するのである。

知ってはいた。でも、確実に知っている笹垣が二人を語るこのシーン。テッポウエビとハゼのくだりに、僕は何回読んでも胸が締め付けられ、耳の後ろ当たりに鳥肌が立つ。

 

罪に罪を重ね、仄暗い海底を思わせる娑婆のどこかに身を隠し、お互いを庇い合う。

 

この時の笹垣は、いままでほぼ完璧に形成された犯罪の曼陀羅が、今枝という探偵が唐沢雪穂を調べているという事実を知ることによって、ほんの少しの綻びを見せ始めた可能性に賭けていた。この時点で最初の質屋殺しから18年である。

 

このシーンを境に、この物語は少しずつ笹垣によって語られ、亮司と雪穂の悲しき事実を浮き彫りにしていく。

 

後半、刑事を退職した笹垣が二人の事件を改めて説明するシーン。そんなはずはないと排除された証言、「きりはら」のカウンターにあった「風と共に去りぬ」、「ああ、それはリョウちゃんの本ですわ」、図書館、切り絵、はさみ・・・

そして亮司の母親から聞いた事実。「ある時松浦から、変なこと聞きましてん。旦那さんはどうやら、女の子を買うてるらしいで、って言うんです。」

 

自分の利のため、もしくは自分の窮地を脱するため、血も涙もないような犯罪を重ねた二人。その二人を徹底的に捜査した笹垣。笹垣だけが二人の気持ちに間接的ではあるが触れることができたのだろう。

 

お互いの魂を守ろうとしているだけなのだ。その結果、雪穂は本当の姿を誰にも見せず、亮司は今も暗いダクトの中を徘徊している・・・そう悔悛しながら笹垣は最後のチャンスに賭ける。「エビはハゼのそばにおる」

 

 

「俺の人生は、白夜の中を歩いているようなもなやからな」

亮司は園村友彦にそう言った。

 

「あたしの上には太陽なんかなかった。いつも夜。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから。・・・あたしはその光によって、夜を昼と思って生きてくることができたの」

雪穂は夏美にそう言った。

 

明るくても夜。

いつも夜。

 

ずっと暗かった毎日。図書館でほんの一瞬射した日の光を胸に、二人の恋物語は笹垣の目の前で終わる。

 

そう。この小説は犯罪小説ではなく、心を失った子供たちの恋愛小説だと思うのだ。

だからもっと知りたくなるのだ。彼らの気持ちを。最後まで一切語られることのない彼らの気持ちを知りたくて、この物語をまた手に取るのだ。

 

きっとまた、読むんだろう。