アニキにとんでもない迷惑をかけてしまった。というのも、当然先生から保護者に速攻で電話が飛び、一応の保護者であったアニキの義父母に事の全てが伝えられ、損害賠償がどうとかいう話にまで発展したそうなのだ。すると、アニキの義父母はアニキと絶縁するなんて言い始めた。元は他人なのに完全に恩を迷惑で返した兄弟を、もう面倒見られないと。その日の夕方のうちに記者会見(?)で絶縁が発表された。


 僕とは違い、一応は義父母とうまくやっており、仕送りも貰っていたアニキだったが、僕の起こしたくだらない事件の巻き添えを食い、何もかもを失った。アニキに会わせる顔なんかなく、僕は自宅に戻らず近所をふらつきまわった。


 唯一僕と苦楽を共にしてきた日付表示付きの腕時計が、忘れることの出来ない日、2003年2月24日の午前0時を指した。閉店した古本屋の駐車場で行く宛てもなく座り込んでいたら、不意にアニキの車が入ってきた。見つかってしまったら、これ以上逃げても仕方がない。アニキにはぶん殴られても仕方がない、と覚悟しながら立ち尽くしているとアニキが車から降り、早足で向かってきた。


 兄「おい、大丈夫か?風邪ひいてないだろうな…車ン中、暖かいから早く乗れ!」

 僕「アニキ、謝っても仕方ないのはわかってるけど、本当にすみませんでした!」


 打ち解けた家族ながら、僕は土下座して謝った。


 兄「まだ俺は何も知らないよ。とりあえずドライブしながら、何があったのか教えてくれないか?」


 車の助手席に乗ってシートベルトを締める。車は駐車場から、家とは違う方向に出て行った。グルグルと町内を走りながら、僕は全てを偽りなく話した。話を聞いている間、一言も発せず車を走らせていたアニキは、聞き終えると少しの沈黙の後、こう話し始めた。


 兄「それで、その後どうした?」

 僕「今言ったことが全部だよ…暴れて学校を飛び出した。それで終わり」

 兄「そうか、それはおかしいな」

 僕「おかしい?」

 兄「弘淑が俺に謝る理由が、どこにも見つからないと思ってな」

 僕「何で…そんな理由はいっぱいあるじゃん…アニキにここまで迷惑かけたのに」

 兄「俺が思う限り、お前がやった失敗は、たった1つだけだ」


 兄「それは、自分の紹介じゃなくて、兄の紹介をしてしまった、ということじゃないのか?」


 兄「弘淑自身のことで面白い話もたくさんできただろう。例えば弘淑がPCで作ったゲームのことを話せばいい。中学生でゲームを自作できる人間なんてほとんどいないんだし、弘淑ってすごいな、いろいろ知りたいな、ってなる。あと兄の大学の話なんかより、弘淑の前居た学校の話でもすればよかった。お互いの、見て覚えて感じた経験を話し合って共有するのが友達ってもんだ。まぁでも、話の相手がそんなクズどもなんなら、上手く騙されなくて結果的によかったのかもしれないよな」


 兄「暴れたことは気にするな。法的には悪いかもしれんが仕方ない。むしろ、今までよく我慢した。俺ならそんな学校生活三日ともたんかったろうな。それをお前はここまで耐えた。スゴイ奴だ」


 僕はひたすら泣いた。アニキと話していて泣いたのは後にも先にもこのときだけだ。アニキは、貯金も残ってるし就職後は保護者同意なんて要らないから俺はもう一人で大丈夫、心配するな、と言ってくれた。高校生活や大学生活のアドバイスなどを教えてくれたり、僕の愚痴を山ほど聞いてくれた。車は首都高速に入り、スピードを上げて走り続けた。「車っていいよな。カッコイイからとか、レースに興味があるからとかじゃない。こうしてがむしゃらに走ると、嫌なことを忘れさせてくれるジェットコースターだ。単純でバカみたいだけど、それが俺の車を好きな理由だ」と言っていたのを覚えている。


 日もすっかり明けた頃に、僕たちはいつもの部屋に戻ってきた。その後寝込んで、一旦目覚めるとアニキが部屋の整理をしていて、二度寝して起きたらいなくなっていた。その日が現在に至るまで、アニキと過ごした最後の日だった。結局、行く宛てのない僕は別の親戚に預けられ、三たび苗字が変わるところとなった。アニキは間もなく社会人ということで結局縁を切られたまま、姿を消した。どこで働いているのか、詳しいことは全くわからない。でも、今はひとりでのびのびと生きていてくれればと思う。


 新しい家庭では義弟と義妹とが迎えてくれてようやくワイワイ騒げる家に恵まれた。まぁエロゲみたいな展開は無いのだが…そんな環境で高校入試も気分よくクリアし、高校生になってからの僕はいい友達にたくさん恵まれ、今の義父母のしっかりしたサポートもあり大学に進学することも出来た。やはりコンピュータと自動車に関わっていくことを選んだ。これから就職活動など大変だが、一度乗った軌道を外れないようにこれからずっと、頑張って生きたい。

 僕のクラスは、合唱コンクールで優勝した後に打ち上げを開くことになった。その日は休日だけど学校の教室を貸しきって、パーティ会場になった。僕も一応は参加したが、そこでは僕はクラスメイト達に気安く声をかけられた。趣味は何だとかどんな漫画が好きとか。それまでクラスの誰とも親しくなかった僕の参加で話は盛り上がり、僕は勢いでアニキのことをいろいろと話し始めた。アニキはパソコンやプログラミングのことを何でも知っているとか、アニキは車を持っててすごいんだとか…。そうしたらとある奴が、席を立って僕についてくるように言い、廊下に出ていきなり一言こう言ったのだ。


 A「お前、アニキがいるとか嘘ばかり言ってるんじゃねーよ、でしゃばりが。場の空気も読めないのか」


 僕は背筋がゾッとした。そいつが怖くてゾッとしたわけではない。それまで親しく話していて、僕もグループに入れてもらえたとばかり思っていたのに、そいつが急に豹変したからだ。それもこの日はじめて言葉をかわしたはずの奴が、余裕の笑みすら浮かべてこう言い放ったのだ。僕もたまらずに言い返す。


 僕「…一体どんな根拠があってその発言が出てくるんだ?」

 A「………」

 僕「答えられないくらいならお前がでしゃばんな!」

 A「お前が俺らと仲良くなる価値があるかどうかテストしただけだ」


 …は?


 僕「冗談じゃねーよ、僕がそんなことされてまでお前らとつるむと思ってんのか!」


 そこで何事かとみんなが廊下に出てきた。


 僕「…お前ら、グルで僕をからかいやがったな」

 B「何のこと?」

 僕「こいつ(A)が、僕を挑発して、僕がクラスに打ち解ける価値があるかどうかテストしたとか抜かしたんだ」

 A「はい?そんなこと言ってませんよ、俺は」

 僕「…この野郎」

 C「このクラスにそんなこと言う人がいるわけないじゃん」

 A「俺がそんなことしても何の特にもならないしな~ハハハ」

 D「○○君、せっかく楽しいパーティを壊す気?」

 僕「本当のことだ!」

 A「証拠は?」

 僕「ひとりくらい廊下の声を聞いてただろ!?」


 ところが誰一人それを肯定した者はいなかった。しまいには仲裁に入った担任までも、僕がひとり暴れ出しただけと決め付けやがったのだ。僕は愕然とした。そして脳天を勝ち割る勢いで噴き出た怒りはどう抑えようもなかった。僕はパーティ会場の机をあらかたひっくり返して並べられていた料理をめちゃくちゃにした。大勢に羽交い絞めにされてもなお怒鳴り続けた。そこまでして僕を馬鹿にしていたのか。お前らに僕の何がわかる。先生が割って入って羽交い絞めから開放されると、僕は最後、自分の制服の上着を脱ぎ丸め、それを窓からプールにザパンと投げ捨て、


 「学校自体辞めてやるよ!先公も生徒も金輪際二度と俺に関わるな!!」


 と怒鳴りつけて逃走した。

 中学校の同級生は、地元の小学校から繰り上がった連中の割合が8割を超えていた。だから完全によそ者だった僕は、友達どころか知り合いすら誰一人いない状況で中学生活がスタートした。しかも、小学校時代の暴れん坊っぷりは簡単に直るものではなく、極端に短気だった。


 入学後3日目、トイレの外のベランダでゲラゲラ笑っていた不良集団数人に向けて窓から「うるせぇんだよ馬鹿野郎ども!」と怒鳴ってしまったことが、僕が不良集団に目をつけられるきっかけとなった。名前も知らない奴にいきなり罵倒され、こちらも負けじと言い返し、そこでケンカに発展する。毎回、威勢こそ負けていなかったが僕には味方が一人としていなかった。だからボコられそうになったら逃げ回っていた。しかし、すぐに完全に標的にされた。不良集団と廊下ですれ違うたびに殴られたり制服を汚されたりと、相当の嫌がらせを食らう。最初は意気込んでケンカを仕掛けて行った僕だが、向こうの人数の多さに勝てずやがて殴られる痛みを素直に怖がるようになってしまった。


 家ではアニキは、僕の生活に関しては何も言わない。僕も、学校のことはアニキに一切話さない。2人暮らしも慣れると急によそよそしくなってしまい、会話の数は少なくなった。たまに一緒にインターネットで遊んだり(アニキはインドア派だったので)、稀に都心のほうに遊びに行ったりもしたが、やがて「午後9時から午後11時の間は仕切りのカーテンをめくってはならない(互いの領域に進入禁止)」なんていうルールも生まれた。まぁそれはお互いの自由時間をある程度内緒にしたかっただけのことであり、仲が悪くなっていたわけではない。実際アニキとケンカになったことはほとんどなかった。ただ、なんとなく最低限の会話しか必要なかった時期もあったのだ。アニキと2人暮らしだなんて中学生はそんじょそこらにはいないだろうし、恥ずかしくて僕は誰にもばらさなかった。


 相変わらず学校での友達は全くできなかった。不良集団に毎日のようにいじめられ、僕も僕なりに抵抗し、そんな僕に声をかけてくれるのは同情を覚えた野次馬だけだった。教科書を破られたが学校の成績だけは意地でトップをキープした。“公式のスコア”だけは誰にも負けたくなかったのだ。


 中学1年の3学期、僕はアニキのパソコンを拝借し、インターネットでチャットを楽しんだり、小説を書いたり、プログラミングを勉強して簡単なゲームを作ったりするようになった。その頃アニキは就職活動を始め、毎日のように会社説明会に出かけて家にいなかった。たまにアニキは僕の作るゲームや小説を見ては「これ自分で作ったのか、お前は才能があるよ」などとほめてくれた。アニキを感心させるのが数少ない楽しみでもあった。


 中学2年になるとようやく僕の人生で初めての恋を経験したりするわけだが(まぁこれは別の機会にでも詳しく述べよう!)、学校を休みがちになってしまった。それまでは意地で皆勤賞レベルの出席日数だったわけだが、一度仮病を覚えるともうズルズルと…というわけだ。それでも要所要所はちゃんと通学して成績をキープした。当然、塾なんか通ったこともなかったが、通信教育を2つも受けていたし、何より放課後や休日など一緒に遊ぶ友人もいないので、教科書ばかり読んでいたのだ。部活は卓球部に所属していたがほとんど幽霊部員だった。


 アニキは大学4年になり、卒業課題が忙しく学校の研究室に泊まることも多くなった。今まで惣菜を買って簡単な料理を用意してくれてきたアニキを欠いた日は、僕はコンビニ弁当ばかり食っていた。3食コンビニ弁当で過ごす中学生が全国どれくらいいるだろうか?…なんて、不幸自慢みたいでアホに見えるので気にしないでほしい。好きなものを好き勝手選んで食えたわけだから全然恵まれていたと思うし、当たり前の基準は人それぞれなのだから。


 2002年8月頃にアニキの就職が決まり、内定と同時になんと車を購入した。アニキは大の車好きで、ずっとマイカーを持つ日を夢見て過ごしてきたのだという。大学生活の暇ほとんどをアルバイトに費やし、車の貯金をしながら僕を養ってまでくれた。当時のアニキの偉大な努力は、僕が同じ年になった今ようやくわかることだ。


 アニキのドライブで埼玉、静岡、いろんなところに行った。一度だけ大阪にまで行った。アニキにとっての僕は、普段はとても無口で無愛想な奴だったと思うが、ドライブのときは話が弾み、特に昔話をたくさんするのが暗黙のルールだった。ある日ふとアニキは「車を運転するということは大人になった証拠で、それを家族に見てもらう日がずっと待ち遠しかった」と語った。


 そして3学期、一生忘れられない事件が起きるのであった。

 駅から降りると、すぐに男が声をかけてきた。いきなりのことでびびる僕に対して、男は昔の僕の苗字を名乗り、「今日から君もまた○○だ」と、法的ではなく気持ち的に僕の苗字が元に戻ったことを教えてくれた。それだけで十分だった。その人が僕のたったひとりの家族だと認識するには。


 アニキに連れられて長い坂を上った。そのときは何故だか、空虚な気分になり、僕の人生はいったい何なんだろう…と考えながら歩いた。


 坂の頂上のアパートにアニキは住んでいた。中に入ると、あの忌まわしい木造の広い家とは違い、一部屋だけの狭い住居だった。部屋は片付けられてがらんとしており、青い絨毯が一枚だけ敷かれていた。それでも、そこには今まで感じたことのない安心感があった。


 その日の夜、初めての食事はファミレスで済ませることになった。アニキと僕は、食事中も、帰り道も、帰り着いてから寝るまでも、延々とお互いの過去を打ち明けあった。僕ほど不幸な人間はそういないと思っていたが、アニキも僕と同じかそれ以上につらい人生を歩んできたのだと知った。アニキは幼少期から立派な夢を持っていたが、それを実現するには環境があまりに悪すぎ、小中高と自暴自棄なまま過ごしてきたという。


 部屋には新しいカーテンが敷かれた。ワンルームを2人半分ずつ使うためのカーテンだ。その部屋で8月いっぱいアニキと2人暮らしをした。アニキはパソコンに詳しく、インターネット、PCでファミコンゲームをする方法(エミュレータ)など、僕に新しい体験をたくさんさせてくれた。兄弟というより、歳の離れた友達のような感覚で接してくれた。それでも、その町にアニキ以外の友達は1人もできず、アニキのいない間はひたすらゲームをして過ごした。


 新学期になると義父母の家に連れ戻された。小学校生活残り僅かで転校するよりも、きっちり向こうで卒業してから引っ越すほうが手間がかからないと言われたからだ。でも、冬休みにはまたアニキのところに泊まりに行くのだった。


 僕は無事に小学校を卒業した。満を持してアニキの部屋の近くの中学に入学し、苗字も正式に変わったのだった。


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↑アニキと再会した日、連れられて上った坂(撮影日:2007/4/25)

 僕には小さい頃から両親がいない。まだ一つも言葉を喋れない頃に、悲しい別れを済ませていたらしい。さらに不幸なことに、両方の祖父母も既に死に別れていた。


 そういうわけで、幼少期はド田舎の従兄弟の家で育った。近所の子の中では最年少で、可愛がられながら何不自由なく育ったらしい。1995年、小学校に入学する直前に僕は養子に出された。義父になったのは父親の会社の友人だった人間で、僕との血縁関係は全く無い。これがドラマや小説ならここで血の繋がっていない姉か妹が登場してドタバタの楽しい毎日が始まるところだろうが、その家庭には子供が元々おらず、僕は新しい家でも一人っ子だった。


 義父母とは仲良くなれなかった。好奇心で易々と子供を頂戴するからだ。叱られるたびに「お前なんて要らなかったんだ」「どこへでも行ってしまえ」などと言われる毎日。とにかく僕を叱りたいらしい。叱るネタを見つけようと、僕の成績にこれっぽちの期待もしてないくせにテストも宿題も全部チェックされ、ゲームも漫画も発見次第取り上げられ、無邪気な時分に何もさせてもらえなかった。違う学年の子と遊んだくらいで怒鳴られ、裸で玄関外に立たされたこともあった。


 そんな家でのストレスを紛らわすかのように学校では明るく遊びまわった。それが高学年になる頃には、好きだったドラゴンボールなどの影響でケンカっ早くなり、義父母が困ればいいとばかりに一時期は毎週家庭訪問を食らうほど問題を起こしまくった。学校では、キレると何をするかわからない、学年一ヤバイ奴のレッテルを貼られていた。


 2000年7月、小学校6年生のときの夏休み初日、幼少期にお世話になった伯母からの久々の電話で、僕に兄がいることを初めて知らされた。僕と8つ違いの兄は、そのとき19歳で大学2年生だった。別の家の養子になった後、東京の大学に進んで一人暮らしをしているという。伯母の話の内容は、義父母が僕を追い出したがっているのを知り、兄の方で引き取るよう取りはかりたいということだった。いろんな不安はあったが、僕はとにかくあの家から逃げ出したかった。それと、家族のいる生活を全く知らない僕は、地球上でたったひとりの家族にどうしても会いたかったのだ。


 2000年8月5日土曜日、僕は身長の半分ほどあるトランクを引きずり、アニキを訪ねて一人で上京した。