そもそも、blogをはじめるつもりは、毛頭も頭の片隅にもありませんでした。


素敵なスキビの限定記事を読むために登録したのですが、せっかく登録したんだから、これを機会にこっそり、ひっそり日記代わりに妄想とか色々表現できたらいいなと思ったからです。


何故にこのタイトルか?


小説みたいな変なお話を掲載しましたが、私の卒論タイトルになりましたセーレン・キルケゴールからつけました。


キルケゴールは、デンマーク語で「教会の庭」になります。


学生時代に私が所属したゼミは西洋哲学でありまして、卒論タイトルは「キルケゴールにおける実存主義と現在」だったかな。

大学3年次にゼミを決めるのですが、第1志望の「西洋哲学」は希望者殺到のために最初は「法律」でした。

4年次でやっと西洋哲学のゼミに入ることが出来たのですが、指示する先生の急死により東洋哲学預かりで西洋哲学の研究をすることになりました。

高校時代から実存主義を勉強したいなーとずっと思ってました。ヘーゲル、カント、ニーチェ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、サルトル、キルケetcが好きなの。

でも、縁あって東洋哲学ゼミ預かりもあったのでインド、中国、西洋とわたくたに触れて、「神は死んだ」までの域に到達できなかった美青年(←ここがポイント)キルケにほれ込んだんです。

ニーチェでもよかったのですが、ツアラはバイオリンの音が響いて、マイナーな人を選択しました。


卒論のために、近くの由緒ある教会でキリスト教徒となるために毎週司祭に教わってました。

あとは、クリスマスに洗礼を受ければ立派なカソリック信者になれたのでしたけど。

当時、同居していた親友の厳しいお言葉、説諭により結局洗礼はしませんでした。

より深くキルケを理解するためにも、信仰とはなんぞやと考えた上での行動で、教会に相談したらまず1年間お勉強して下さいとおっしゃられたので、お言葉に甘え、週に一度司祭さまとお話と教義など色々勉強しました。

あれから20年以上の月日がたち、あの当時の詳細な記憶はないですが、とても厳かで優しい時間でした。


存在認識の普遍性。

あるものは、目でみて、手で触れて、匂いをかいて認識できます。

実存とは何か、検索するといろいろわかりやすくかかれてるので調べてください。


一致と不一致、陰陽、可視性と不可視性でももあり、現実存在と認識のゆがみ。

人間の目、鳥の目、犬の目、猫の目で認識する世界の色は異なります。


某マンガ、アニメでも色々と表現され伝えつくされたりもするテーマだったりしますが、実存を的確に捕らえ認識しながらも教会の庭の中でしか存在できないジレンマを抱えていた青年が私は大好きです。


つっきれない人間のかく妄想、たわごとをこれからもつれづれに書きなぐっていくと思います。


一応ですね、オタクではないですよ。

妻がオタクでショックという記事を載せましたが、いわゆるちょっと変わったところ、角度が他人より斜め13度くらいずれてる認識はあります。

13度くらいだと世間に対して少しは調整はきくような気がします。

趣味とか興味のあるものが、広く、浅くの人間です。

そんな人間の妄想、たわごとばかりですが、心の広い人はお付き合い下さい。