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乃木神社のこと(Ⅰ)


 もうすぐ、NHKのスペシャル大河ドラマ『坂の上の雲』が始まるから…というわけでもありませんが、長年京都に住んでいて参拝したことがなかった、乃木神社にamaiと行ってまいりました。
場所は、京都伏見。桃山御陵の入口近くにあります。桃山御陵というのは、明治天皇陵のことです。乃木希典といえば、明治天皇大葬の9月13日夜、静子夫人とともに自刃。明治天皇に殉じています。乃木希典を祀るにはまことにふさわしい場所といえましょう。

 私が乃木将軍のことを知ったのは、司馬遼太郎の『殉死』、さらには『坂の上の雲』で、いわば、軍事的には、どうしようもない無能であり愚将として散々に貶められた存在としての乃木将軍でした。まあ、戦前の軍神としての扱いの反動からくるものでしょう。
 しかし、さすがに昨今では、以前記事にしたこともありますが、冷静な再評価がされてきており名将とまでは行かずとも無能ではなかったという記述が、あちこちの関連図書に見られるようになってきています。また、鞍馬天狗的な颯爽たる役割を与えられていた児玉源太郎は、逆にそれほど名参謀ではないのでは、という検証も始まっています。
 いわば、大山巌あるいはこの児玉源太郎からくる無謀な作戦計画を、乃木をはじめとする戦というものに経験豊かな軍司令官及びその軍参謀・下士官、そして何よりも明治の兵たち現場がその状況に応じて適宜的確に対応し、またあまりに現場を知らぬ極端な指示に対しては、時には公にできないような軍令違反もしつつ日露戦争における陸戦を勝利に結び付けて行ったというのが、どうも真相のようです。
 このあたりのことも、実は『坂の上の雲』にも書かれており、児玉源太郎はどう読んでも名参謀らしい動きをしたようには読み取れません。調整能力はあったかもしれないのですが…。
 以前も書きましたが、二百三高地攻防戦の児玉の役割というのは、「兵をこれ以上殺さずに最小の被害で確保する」ということではなく、二百三高地がロシア側の兵力を損耗させる良い戦場になったと判断し、乃木が兵への慈悲により「その消耗戦に耐えられないのを恐れた」ためです。

 この乃木神社には、多くの彫刻作品が残されています。
 
 乃木将軍胸像をはじめ、愛馬である壽号・璞号、乃木少年米搗きの像(長府乃木旧邸)、父の希次・母寿子そして少年時代の乃木将軍(いずれも長府乃木旧邸)など。今日は、その一部を掲載します。

 建物としては、上の長府乃木旧邸(復元)をはじめ、旅順攻防戦の際に第三軍司令部として使用された民家(移築)、乃木希典の遺墨、遺品及び関連資料を収めた宝物館…などあります。これらは、また明日にでも写真を掲載します。