社会では、さまざまな誤解や曲解にあいます。
自然な誤解もあれば、ことさら誤解のあることばかりいう人もいる。
それが現実です。
そうしたことがことさら性に合う人もいるので、めぐりあわせが悪いと、不合理の嵐のような場所で堪えていなければならないこともある。他人が作った誤解によってです。
社会の歪んだ面が、社会の歪んだ人とのかかわりであらわになるのを見ることになる。しかし、どちらも、その正体を表したがらないものです。
逆ピラミッドの力で生きる人は、この自分がおかれてしまった状況も、自分で解決しなければならないとは考えません。
そもそも、社会に入れば、そこは「社会に望まれて」動いている場所なのです。自分で勝手に動かしているわけではありません。
それを、誰かの誤解や曲解に過ぎないことで、誰かの勝手に歪ませていいのか?
「社会の私」は、これを当然問いかけてよい。
いや、義務の観点からいうなら、問いかけなければならない。
それが、私が「望まれている」ことだからです。
これを、「社会に望まれる」自分として、ルールの観点で問いかける。そうすれば、この問いかけは、「私」のものだけではないのです。
人を困らせてやろうとする者は、相手を孤立させようとします。
この手にだまされてはいけません。
孤立して当然なのは、卑怯な方なのです。
誰にも否定できないルールの観点で、誰にも「望まれる」ように問いかけること。その道こそが、「望まれ」て開かれる道なのです。
その道を、最初から見ているなら、そこにあるべき自信は不滅なのです。