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私たちの暮らしが「責任」なしでは考えられないことは、実は「責任」にとっての本物と偽物の違いも生み出すことを意味することにもなるのです。

本物の「責任」が、社会と私たちの暮らしを支える働きでできているのに対して、偽物の「責任」は、見せかけの勝負で利益だけを持ち込ませようとする。
だから、行き過ぎた責任が、無責任の人の思惑に上がって来る。
「責任」があることにすれば、自分の方がカブが上がる。無責任な人でも、それぐらいのことはわかります。いや、そうとわかれば絶対的に責任勝負から引かなくなるばかりか、それを見ていた周りの方が自分をマネしたとか言い出す。だから、周りの方が「ヘタなマネ」ということになる。
しかし、責任を取らないで「責任」芝居に興じる方が、自分のヘタさに気づかないのです。実は、カッコばかり気をつける自分のバツの悪さを擦りつけているのです。
この辺りのやり取りも、騙しに頼る無責任の正体は、ずっと変わらず表れてはいる。
しかし、それがわかりにくいということもある。無責任な人は、本当に自分のやっていることを隠すからです。

本当の関わりには関与しないで、かわりに見せかけの出来映えや完成度だけで本物と取り替えようとするのが、偽物の「責任」のあり方です。
ニセの「責任」は、ニセであるために「見せかけ」でしか勝負できない。いかにも、まともな働きであるかのような「ふり」をして、そのことで本物の結果が出ているかのように認めさせようとするのですから、そうなるのは当然です。

責任の「ふり」が有害であることについては、責任の本来持つべき働きを果たさないことに見られる一切の役割の放棄がある。
これは問題の核心ではあるものの、ニセの責任、つまり無責任の起こす最大の問題の一つは、そこから続く負の波及効果にある。
つまり、偽物の「見せかけ」効果で、偽物を本物と思ってしまう者がいくらでも出て来ることである。

偽物でも、本物のように扱ったら、人はウソと思う必要を持たないなら、そのまま本当のことと錯覚してしまう。
ウソをつく人は、この錯覚の効果も視野に入れているし、さらには、単なる人間関係の好意も、自分がニセの効果をもたらそうとするなら、当然使うべきものとしてウソの補強に利用する。

偽物を本物に見せようとすることは、本当に「本物」を大事にしようとしている人たちから見れば、それだけでたまったものではないが、逆に、偽物を指摘している自分の方が「本物」を知らない偽物の側の人間に祭り上げられてしまうこともあるから、「責任」を取る気がない者のやりたい放題というのは、不条理の権化のようなものである。

それというのも、「責任」がないのだから本人にとっては、何も疑問を挟む余地がないほど、当たり前のことに映るからである。

「責任」とは、社会で役割を負うことに求められて来るものである。勝手に「これが自分の役割だ」と決めることではない。と言っても、最終的にはそうなるのだが、これも順番を間違えてはいけないところである。

それが偽物になると、見せかけでは「責任」を語りながらでも、本当の「責任」には興味もなければ、「役割」に対する本当の責任意識もない。
「責任」のない者が責任のあるふりをしても、そこにあるのは、せいぜいお粗末な結果主義である。ウソばかりつきながら、結果だけはキレイに見せようというわけだ。
だから、やっていることは、当然のようにムチャクチャである。それなのに、誰より自分をよく見せようとする蒙昧な自己顕示欲に夢中になるのである。

ニセの「責任」は、よく「責任」に対する安請け合いや短絡的な積極態度を見せる。つまり、自分の方が責任ある態度が取れると見せたいので、「責任」ある態度の立場争いもできる。
「現実には取れない責任」に手を出すことは、そのことが「無責任」ということです。
しかし、ニセの態度に活路を見る者は、それを無責任とは思わない。たちの悪い者になると、「それを無責任と思う方が悪い」などと平然と立場の主張をしてきます。
オマエが悪い奴だからそう見るんだ、と言って来ているわけです。被害者は、ちゃんとしている自分の方で、それを不当にぜんぶ悪く言っている、などと言い出した時には、責任など知らぬ偽物の言い分だけがすべてに塗り変わるのが当然という主張になっています。
ほって置けば、見つけた方や、悪さの被害に会った方が、悪さの張本人のようにされてしまう。

徹底した「無責任」者というのは、こういうことが言える人たちであり、できる人たちです。それもさらっと何より当たり前のように言える。それができるのも、「責任」がないからです。また、言い分を通そうとするから、どこまでもひつこくなって来る。そのうち、自分本意にかまけて何より当然のように怒り出したりもする。
こっちの方が怒るのが当たり前でも、怒る気もなくなるほど不条理慣れして来ている連中でもある。
でも、当人にとっては不条理どころか、当たり前です。それは、「当たり前」と意識する必要もないほど当たり前なことなのです。人を裏切るのは「当たり前」。むしろ、「当たり前」のところから、すべてのことが始まる人たちで居るのです。

勝利の下卑た笑いが浮かび出すのは、すべてことが済んでからです。途中でにじみ出すこともありますが、どちらにしても、卑怯さにかけては良心の咎めも持ってはいない。替わりに本気で泣き真似でもできて、困った「ふり」もする。
そうして、周囲の「気持ち」だけ引こうとする。人が気持ちで動くことはよく知っているからです。当然のようにつけこんで来る。そういう類いの連中です。つまるところ、「責任」は取らないが、自分本意にはまかり通ろうとする。
無責任者は、結局自分が思い上がって生きたいだけです。

だから、理屈はわからない。
その代わり、理屈を頼ります。だから、むしろ自分の方が仕事をやってやったとか、「オマエの代わりにやってやっている」などのお仕着せの言い方が普通に出せる。

しかし、肝心の「無責任」が変わるわけではない。後の始末はたいていムチャクチャにする。自分では何もまともな道筋は引けません。それが無責任の変わらね表れです。
自分が今すぐ「良いところ」だけ盗ろうとするからです。それがどれほどバレバレでも、それでもカッコをつける。「責任」を知らない者には、カッコしかないのです。

むしろ、悪いことはやりたいだけやっておいて、「わるぎ」はなかったことにする。これなら悪く言えないだろうというたくらみです。
とことん、悪く扱う方が「本当に悪い」という立場をゆずらない。当然のように自分が何をやったかは、考えない。
つまるところ、思考の内容が、まるで逆転した向きを向いていると思って間違いない。「責任」をまっとうしようとする人と、「責任」をとって貰って幸せだけは手に入れようとする人では。それは、思考の逆転が当たり前にあると言えるでしょう。

どれほど、本当に悪いことを自分本意が原因でやっていても、自分以外の人が悪くなればよい。まさに、取りたくない「責任」を、どう処理するか。それも人任せです。「責任」のない者に、「責任」ある者の実力はないからです。だから、必ず他人に「責任」をとって貰おうとする。
だから、偉ぶっているくせに他人を頼る。理屈もまともに知らないのにうまくいかなかったら当たり散らす。それらはすべて、「責任」をとって貰うのが当たり前の思考から来る。
そして、これが概して無責任者の変わらねわがままの表れというものです。

そういう現実感だから、取り引きのために、「責任」があるふりも、何の内容があるふりでもできる。
でも、「責任」がないのだから、すべて偽物です。

「責任」に替わるものはありません。それが「責任」の特性です。「責任の線」でよく考えれば、見えて来る。自分たちの世界の面で、本当に「責任の線」をとっているかどうかです。逆に、背負えないほどの責任を負わせるのも、無責任です。「無責任」者はこうしたことも当然のように周りに要求してきます。

「無責任」でいる限り、いつまで経っても、自分が務めて当たり前のことをしない。それでは言い逃れは効きません。
それでも、カッコだけは取り繕おうとする。そこから、また自分本意の取り引きだけは始める。
結局、「無責任」の正体をバラしているのは、自分なのです。勝手にバラしていながら、それを見るなと言って来る。こんな「わがまま」につき合う必要はありません。
私たちが共有すべきは、「責任」であって、無責任ではないのです。

「責任の軸線」から見れば、その人の実像は見えて来る。

「責任」が、私たちすべての生きる土台を作っていることを考えても、こうした闇雲な裏切り者に対しては、あらためて他に変わるもののない怒りが沸きだして来るはずです。
本当に「責任」があるということが、「本物」だからです。

単に客観的に見る目があれば、それだけでも「責任」を見る目は簡単に手に入ります。

しかし、無責任のたくらみから抜け出られない者は、それもできない。いわば、主観の檻からでられなくなっているのです。「責任」が取れないで生きて来たことの末路の一つです。
怖くて仕方がないということもあるでしょうし、出るに出れなくなっている。

感情の責任すら取りません。平気で悪意や嘲笑をぶつけながら、それは自分には関係ないという立場に逃げられる。「責任」がないのだから、どれほど取り繕おうが何とも思わない。
まともに働こうとしないで、カッコだけで生きようとする。何も、まともに考えようとはしません。しかも「責任」転嫁も徹底したままです。それも、ぶつけて来る「わるぎ」の表れの一つなのです。
「オマエなんか、これでいいんだ」と決めつけて来たことに変わりありません。それで困ったら、人を頼ろうとする。まともな人とは考え方がまったく逆です。
ことをねじ曲げるためにも、他人の力を「勝手に」頼るからです。

自分で責任を取ろうとはしません。

それもバレては困るから、陰でこっそりと、とことん卑怯にやり遠そうとします。

無責任者の「言い逃れ」はどこまでも続く、と思っていいので、騙されてはいけません。
これは、残念ながら社会の仕組みからでは対処し切れない。
もし、それができていたら、世の自殺者も、そうとう少なくなる気がします。

「責任」にとって必要なことは、現に「責任」を取るということだけです。
だから、本物と偽物を見分けるのにも、「責任」から見ればいい。それだけです。やるべきことをやる人間にとっては、すべてが簡単なのです。「こと」を見る目はそれでよい。

口先や見せかけだけはどれほどよくても、「責任」転嫁のカッコつけに走る方が、どれほどか大変なことになります。いいのはその時だけ。頭の悪いことです。
自分が作ってしまったウソの点をとにかく守り通さなければ、ウソでつづったウソの立場は続かない。
それでも繰り返すのは、これまでにも、ヘタにウソで甘いしるばかりうまく吸って来たからでしょう。
確かに、ウソで甘い思いにあずかれるということぐらいは誰でも知っている。ただし、それで済まされるのなら、ということになります。
子供のうちは、まだ平然とウソをつきます。それは「社会的な」責任感がないからです。せいぜい、自分の欲望のやり取りだけを考えていればいいから、周囲にうまいことだけを言っていればいい。
大人から見れば、バレてもいいという態度を取り続けることになり、そこで取り繕うことになる。まぁ、そのうちどこまで甘えられるかも含めて、うまくなってはきますが。

ウソは点ですが、カエル跳びのように「点」を渡り歩かなければ、ウソの立場はもたなくなる。
ウソのカエル跳びも、卑怯な無責任者が必ずおちいる関係の法則です。そして、点と点の間は、やはり取り繕えない。

偽物がどれほど「うまく」やっているように見せかけても、孤立したウソの点を必死に跳び移って生きているだけであることに変わりはない。そして、それは「逃げ」に過ぎない。

「責任」を取らないで済まされるように逃げているだけなのが無責任者の本性です。それなのに、人よりうまい思いだけはしようとする。
頭の中が、卑怯さに埋め尽くされて行くのは当然です。それも、もともと「責任」感がないから、こともなげにできる。

ようは、「責任」に関して人間を見るなら、本物と偽物は、すべてが逆転していることがわかる。

世の中では、無責任の側につく者もいる。

無責任者の味方は、責任を追求するふりをして、実際には、責任の線を「切ろう切ろう」とする。
結局、自分も無責任だからでしょう。何が無責任にとって救いになるかを知っている。だから、こっそり追求の線を切る方へ、話しの筋を変えて来る。
黙って乗せられてはいけません。

責任は取るものであるのに、取らないでいいようにしようとする者は、自分が無責任であるために、同じ匂いのする無責任者に、無意識に味方についている可能性が高い。
どだい、無責任者も、およそ無意識です。無意識の感性の底から、無責任を求めているからです。
人は、あまりにも当たり前のことは、意識する必要もないのです。

ぜひ、当たり前に責任のある人間になって下さい。それが、この世で一番ストレスのない生き方でもあるのです。

そして、責任を見る線は、客観的に繋がるものとなっているかが肝心なところです。

無意識を論じるところは、さまざまな反論や反感を呼ぶことになるでしょうが、客観的に確認できる責任の線は、いい逃れができません。

行き過ぎた責任意識は、実は、責任の追求を邪魔したり、明確に切る場合がある。
それを切ることは、客観的にも追求できる。だから、その観点を譲らずに話しを進めるべきなのです。