疑似体験には何か目が覚めるものを感じることがあります。
しかし、それは現実ではない。そんなことは誰でもわかっているはずなのに、それでも、ゲームなどの疑似体験に惹かれるものを感じて、そこに何かを見ようとする。
では、そこにいったい何があるというのか。
だいたいは、ゲームにしろ何にしろ、現実に生きることに通じないものは、光りを無くします。
最初には、いくら自分の目を奪っていたまぶしい体験に見えるものであっても、いずれ、現実の光りではないというを知る。
それは、悲しいことではなく、むしろ、当然の気づきです。
私たちは現実に生きているのだから、現実を離れて疑似体験にこもっていても、現実は何も変わらない。いや、現実には役に立たないことをやっていたのが、現実だったのです。
そのことに、目が覚めれば気づくことになる。
しかし、不思議な話しであって、なぜ、そもそも現実ではない疑似体験に惹かれてしまうのか。
わかってしまえは、たいしたこともないとわかる疑似体験に、何かその先に見えて来る現実よりも光るものがあるとするなら、何なのか。
まず、生物の思考パターンには、「思考の起源」となる法則があることを以前の記事で説明しましたが、その思考の起源法則を人の思考パターンの理解に使えば、疑似体験のまやかしに見る、光りの意味も見えて来るのです。
それには、やはり思考の自立化が、約束の力によって養われて来るものだということを理解していないといけない。
約束の関係法が誘導する、将来への希望的視界が、そもそも過去の完全体験への約束という、もっとも漠たる巨大な願望の、そのあらがえない衝動と繋がっているのです。
それだから、自分の前に提示されて来る、すべての関係スタイルは、自分にとっての約束と繋がるべきものとしての、その特有の位置づけで見られる。
無論、人は現実に接しては、当たり前の期待が裏切られてしまうことは多々あって、そうそう思う通りにならないことは、否定できない現実として嫌ほど知ることになる。
だから、その中で、人は、そもそも疑似体験のよさに繋がる、気晴らしや気まぐれの、現実からいくぶん逸らした関係に、現実から目をそむけることの楽しみを覚えるのです。
これは、子育てに手間のかかる親の意向から始まるものと考えてよい。つまり、子供は小さい頃から、現実より気晴らしや気まぐれに楽しめることの方が、現実以上の価値があるように思わされる経験は持っている。それも、かなり大多数の経験によって、それを持っていると言えるのです。
そうした体験の土壌の性質から、悪気のない疑似体験の可能性を見せられたら、そこにかつて自分が持っていたと同じような生活体験そのものの豊かさのようなものを感じ取ることになったとしても、むしろそれは当然のことだと言えるのです。
このような精神状態は、特に10代や20代前半あたりの人たちには多く見受けられるように思えます。
しかし、思考の起源法則が、思考そのものの起源パターンである限り、思考パターンの骨格としてその働きは残ると考えるのが機能把握として正しいでしょうから、大人になっても、疑似体験への憧憬や輝きが感じられないことはない。むしろ、大人にとっては大人になってからの感じ取り方があって、そこにつけ加わることになる。
しかし、疑似体験の光りは、まやかしです。そこにこもっていても、現実は何も変わらない。時間のムダ使いだと気づかざるを得ない。
それでも、主観の意欲の供給源になるということはあるのです。
現実には何も変わらなくても、主観に意欲を補給してくれれば、それが現実に生きる私の意欲が変わる。そういうことにはなるでしょう。
しかし、つまるところ、現実でないものに多くを費やすわけにはいかない。時間も有限です。そして、時間は過去の幻想をあばいても来る。
客観的に観る視野ができてくれば、主観が欲しがる幻想に無為に従うことはなくなるでしょう。
必要なことは、やはり現実をうまく前へ進めて行けることによる実感の足場です。